見出し画像

2024年7月読書記録 謎のアンデッド、川端、無垢なアメリカ

 今月は、青空文庫(太宰治)とそれ以外の小説に分けて投稿します。
 青空文庫以外では、8冊の小説を読みました。遠藤周作の2冊は別記事で。

イーディス・ウォートン『無垢の時代』(河島弘美訳・岩波文庫)

 ウォートンは20世紀前半に活躍したアメリカの女性作家です。無垢=イノセントという言葉は、アメリカという国やアメリカ文学を語る際の重要キーワードと言われます。清教徒(ピューリタン)が作った国ということもあり、一時期禁酒法が施行されていたり、妊娠中絶が大統領選挙の重要争点になったりと、他の国では考えられないことが多いですよね。
 『無垢の時代』は、ニューヨークの社交界における男女の三角関係を書きながら、アメリカという国の姿をも炙り出す作品でした。
 歴史の浅い国なのに、社交界には様々な決まり事があり、余所者を排除しようとする空気もある。無垢とは、偽善や空虚と隣り合わせる概念だということがよくわかります。
 Xで若い男性にリプをいただいたのですが、その方は、『ノルウェイの森』風の趣きがある小説として読んだとのこと。なるほどなあと感心しました。若き日の、成就しなかった恋の物語って、男の方の心に刺さるのでしょうか……。


ブラム・ストーカー『ドラキュラ』(唐戸信嘉訳・光文社古典新訳文庫)

 ゾンビ映画やドラマが大好きで結構観ているのですが、吸血鬼ものにはなぜか縁がありませんでした。
 それでも、にんにくや十字架が苦手なのは知っていましたが、この小説でも、そういう設定になっていました。ヨーロッパにはもともと吸血鬼の伝説が多かったみたいですね。にんにくや十字架嫌いも伝説に基づくようです。
 ある面では伝説に基づき、ある面ではストーカーがオリジナルの話を作って書かれたのがこの『ドラキュラ』という小説です。
 同じアンデッドでも、ゾンビとは違い、吸血鬼は、人と話せたり、人間時代のことを覚えていたりします。また、コウモリや狼、煙(なんで?)に姿を変えられるし、ある種の人間をしもべとして操れもする。ゾンビより強力だなと思いながら読んだのですが、弱点もありました。水が苦手、日中は無力化する、勝手に人の家には入れない(これも謎)など。19世紀に書かれた古典なので、ツッコミどころ満載ですが、書簡形式のゴシックホラーとして、気楽に楽しめました。英国文化やヴィクトリア朝が好きな方にもおすすめ。


ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫・千葉栄一訳)

 クンデラは、現代チェコを代表する作家です。没後一年の命日に、集英社文庫の小説がまとめて電子化されたので、代表作を読んでみました。
 先日の読書会である方が「頭に浮かぶ単語を書き並べるうちに、小説が生まれる」とおっしゃっていて、「そんな創作方法があるのか」と驚きました。
 私の場合は、登場人物やストーリーが先にあるからです。
 クンデラの小説を読むと、彼の場合も、単語やフレーズから小説が生まれるのではないかと感じます。例えば、「愛はメタファーから始まる。別なことばでいえば、愛は女がわれわれの詩的記憶に自分の最初のことばを書き込む瞬間に始まるのである」というフレーズから最初のエピソードが生まれたのだと、語り手自身が述べています。
 フレーズが先にあり、作者の意見や思念を説明するために登場人物が作られたのに、彼らはとてもリアルな存在です。起承転結に沿ってストーリーが進むような作品ではないので、登場人物の運命も最初の方で明かされるのに、最後まで興味が尽きずに読むことができました。


トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(浅井晶子訳・光文社古典新訳文庫)

 Xのポストで見かけて、懐かしくなり新訳を購入しましたが、あまりにも厨二病的な内容なので、恥ずかしくなりました。「自分は他人とは違うのだ」という思い。そんな自分を卑下しながらも、誇る気持ちもある。ーーマン自身は、ノーベル賞までとった作家なので、そういう選民意識があってもいいのですが、凡人である読者は、この小説をどう受け止めればいいのか……。
 マンは、この小説を自分の気持ちに最も近い作品だと認めていたそうなので、トニオ=作者と考えていいと思うのですが、「芸術家である自分は、人間の感情を即座に見抜いて全て理解してしまう」(だから、自分にとって人生は味気ない)という文章を読んで、マンの後の人生を知っているだけに、笑いそうになりました。マンは、ドイツの国民が選挙でナチスを選ぶわけがないと信じており、海外に出かけるんですね。ところが、予想に反してナチス政権になったので、国内に残した家財や書類は没収され、亡命生活を送ることになるのです。作家は、自分の小説の中では全知の人かもしれないけれど、現実社会を理解しているわけではないと感じる逸話です。


エリザベス・ストラウト『私の名前はルーシー・バートン』(小川高義訳・早川epi文庫)

 ストラウトの小説には、変わった人ばかり登場するのですが、この小説の語り手兼主人公のルーシーには、自分との共通点を強く感じました。ルーシーは、貧しい家庭に生まれ、常識を教わらずに育ったので、知らないことが多く、欠落感を持っている。
 うちも、貧乏ではないのですが、色々変わった家でした。他の家では当たり前のことが、我が家ではそうではない。また、私自身も得意なことと、不得意なことの差が激しいです。「見よう見真似」という言葉がありますが、それができないんですよね。簡単な作業もできなくて、よく「この人は、バカなのだろうか」という目で見られたことを思い出します。幸い、勉強や書類仕事、人と話す仕事(営業や接客)などは人並みにできたので、何とか生きてこられましたが、今も自分のへっぽこぶりを日々認識します。そんな私には、ルーシーが抱える欠落感がよくわかるのです。トニオ・クレーガーが持つような卑下する気持ちと誇る気持ちが入り混じる「他人とは違う」という感覚とは違い、諦めと共にある欠落感です。
 この年になっても、あの欠落感がどこかに残っていますが、その分、異なる点を持つ人を差別するような心とは無縁ですし、人を羨む心もないので(他人があまりにも自分と異なる存在なので)、それはそれで悪くないとも感じてはいますが……。
 この小説を読んで、世界には、自分と同じような人が大勢いるのだと改めて感じました。波瀾万丈とは言えないストラウトの小説が次々に訳されているのは、自分のことのように感じて読む読者が多いためだと思います。


川端康成『雪国』(新潮文庫)

 川端らしい繊細で美しい世界を味わえると同時に、それなりに起伏のあるストーリーなので、代表作に挙げられるのも納得です。
 ただ、ヒロインの駒子はなんと薄幸なのか……。近代文学には、親の都合などで年季奉公をしなければならない芸者がよく登場します。山奥の温泉場の芸者なので、東京の芸者に比べると、仕事は駒子は楽そうですが、その代わり、世界が狭い。芸能の話ができたというだけで、島村のような、無為に生きる高等遊民に惚れるとは……。島村は、駒子を進んで傷つけはしないものの、幸せにもしない。過去の日本には、自分で幸せを探しに行けない境遇の女性が大勢いたのでしょうか。
 現実の話というよりは、川端の、男としての身勝手な白昼夢なのかもしれませんが。彼の耽美な小説を何冊か読んできましたが、この系統はもういいかな。今度は横光利一と一緒に新感覚派と呼ばれていた頃の小説を読みたいです。どの小説がその時期に書かれたのでしょうか。ご存じの方、教えていただけると幸いです。


読んでくださってありがとうございます。コメントや感想をいただけると嬉しいです。