輪廻の呪后:~第一幕~はじまりの幻夢 Chapter.5
エレン・アルターナが見る幻夢は、日々鮮烈になっていった。
素足に伝わる石廊の冷たさ。
足裏が離れれば血は仄かな温もりに巡り、踏み出せば硬い冷感が心地好い。その繰り返しに視界は進む。
壁掛けの松明は踊る炎に石壁を暖色に染め照らし、流るる視界は闇暦の帷に建ち並ぶ影画を通過させる。
交錯する景色は不自然な体感を植え付けながらも、さりとも自然体な認識に受け入れさせた。
はたして、どちらを歩んでいる?
古代か?
闇暦か?
わからない。
ともかく歴史に積み重なる角石達は無機質な畏敬を注ぎ、永遠の闇に据えられた街影は無関心な傍観に送り出す。
黙々と歩は進む。
何処へ?
何をしに?
エレンは恐々ながらに自分を見守った。
確信めいた予見と共に……。
やがて、止まった。
そこはきらびやかに黄金を彩る石室であり、或いは陰気にうらびれた雑貨店であった。
眼前に現れたのは、はたして誰であろうか?
見覚えの無い男。
狭心滲み出す神官。
鬱陶しい羽虫。
卑しい下郎。
道端の雑草。
感受する心象に軽く混乱を覚えはするものの、そうしたものには違いない。
興味は無い。
関心があるとすれば、その先だ。
為すべき〈目的〉だけだ。
路傍の小石とはいえ、邪魔ならば排除するだけ。
だから〈念〉を送り込んだ。
それだけで死ぬ。
脆い……肉体のいうものは。
然れど、魂は永遠也。
狭間にうつろう我以上に……。
そして、彼女は〈目的〉を奪い拾った。
足下に散乱する血肉の肥から……。
黄金の彫像──古代エジプト神話に於ける冥界裁判神〈アヌビス〉であった。
その朝、エレンの日常は一転に馴染み無い喧騒と遭遇する事となる。
イムリスと共に〈エジプト考古学博物館〉へ向かう道縋ら、いつもの町辻には従来よりも多勢の竜牙戦士が警護に立ち並んでいた。
「ねえ、イムリス? 今日は心無しか〈竜牙戦士〉が多くない?」
「そうですね。おそらく、何かあったのでしょう。でなければ、竜牙戦士の増兵などしませんから」
「何かしら? それってば?」
「さあ?」
怪訝には感じたが、関心を抱かぬように振る舞いつつ衛兵を通り過ぎる事とする。
余計なトラブルには拘わりたくない。
好奇心は猫を殺す。
が、どうにも喧騒は無視を封殺してくるようだ。
進む方向に連れて賑わいは活性化する。
起立に警戒する竜牙戦士の数も増えた。
やがて遠目にも判るほどの黒集りが見えてきた。
路地裏の入口だ。
結界と遮る黄色いロープは『立入禁止』の意図と察せられた。
その前に薯洗いと溜められた見物人。
エレンの鼓動が早鐘と打ち始めた。
(見覚えがある。この場所は……〈夢〉で……)
そう、今朝の悪夢だ。
「此処が現場でしょう。そして、通常ではない何かがあったのは確かですね。少なくとも〈ギリシア勇軍〉が乗り出して来るような事態が発生した……」
「〈ギリシア勇軍〉が?」
呑み込めない怪訝を返すと、高身長は微動だにせず正視の先を顎で促した。
視線を追えば、なるほど、ひっそりと眠る店頭付近には簡素な鎧装束や呪具装飾を纏った者達が数人集っている。
十中八九〈ギリシア勇軍〉の管理職であろう。
右往左往の現場検証に勤しむのは、長外套を羽織った者達──おそらく部下である事は、軍事関連に疎いエレンでも察せた。覗ける鎧が簡素で貧弱な点も判断材料にはなったが、何よりも覇気というかオーラが無い。そのせいで無個性な凡百にしか映らなかった。
ある者は些細な違和感も見逃すまいと路面壁面を念入りに漁り、またある者は情報の精査に険しい顔を交わしている。
そんな中で、ふと強い存在感へ意識が傾いた。
金色の鎧だ。
一際、特別な威風を発散している。
神々しいまでの光沢は、軒先から仁王立ちに店の佇まいを見据え続けていた。
彼女の位置からは後ろ姿しか窺えなかったが、精悍な印象は不思議と感受出来た。
彼が〈領主〉であろうか?
確か〝ペルセウス〟という──見た事は無いが。
「では、被害者はエジプト考古学とは無縁なのだな? これだけの発掘品を扱っていながら?」
部下からの報告を背中に受け、ペルセウスの一瞥が滑る。
肩越しに注がれた部下は、明言無く要求された情報を献上した。
「名前は〝クチェビー〟──スラム出身ですね。一応は〝骨董商〟の肩書でやってますが、本性はしがない盗賊……窃盗や墓荒しで金目の小物をちょろまかしては、裏ルートで売り捌いていたようです。とはいえ、そうした収入は、すぐさま酒代と消える。泡銭稼ぎですよ。もっとも、この闇暦では物々交換の方が主流──このエジプトが敷いた独自政策──つまり魔貨システムの方が異例です。だから、酒には困らない」
「他には?」
「脛に傷持つような輩には知られた名ではあります……が、軽視に認識されている程度。特に重宝もされていません。危険な場所へは赴かない狭心者です。ただ仕事が小まめなのと、酒場浸りの渡り歩きで知名度があるだけですね」
「そうした徒党に属している……とは?」
「ありません。あくまでも個人です」
「ふむ……」
軽い一顧に更け入る。
(因果性は薄いな。たかが貧困街の小悪党に〈古代エジプト王家〉との繋がりなどあるはずがない……が、或いは〈神罰〉に裁かれたか?)
王族縁の墓ともなれば、ある種〈聖域結界〉とも呼べる魔窟だ。
軍門に下した〈エジプト神〉の神力は時代を経ても色濃く集積されている。見解の一端としては、旧暦時代から〈ピラミッドパワー〉などと眉唾に称されていたものが〝それ〟だ。あの四角錐形状は、それこそ云われ続けたように〝超神秘エネルギーを集積するアンテナ〟である。もっとも、それは人間達が合理的自己納得に唱う〈宇宙パワー〉などではなく、正真正銘の〈神秘力〉ではあるが──忌々しき〈エジプト神〉の。
ともあれ、そうした場所から発掘された未知対象ともなれば、強力な呪具性質を備えていても不自然ではない。況してや、これだけの物品を無造作に扱っていれば……。
(しかし、メディアが、その程度の些事を受動予知するはずはない……)
懸念が強まる。
「此処最近は同様の事件が多発していると聞くが、何件目だ?」
「今回で七件目ですね。ですが、因果性は何とも……」
「破裂死だぞ。いずれも」
「はぁ、ですが……」
(不自然過ぎる)
募る不安を苛立ち紛いに部下へと預け捨て、ペルセウスは黙考の踵を返した。
(やはり背後に蠢いているのは、ヤツと考えるべきか)
だとすれば厄介な事態である。
ある意味〈エジプト神〉と事を構えるよりも……。
と、背後から呼び掛けてきた豪胆に黙想が遮られた。
「よぉ、爺さん」
振り向けば、予感通りだ。
獅子兜を被った巨漢が慢心依存の楽観に歯を見せていた。
「ヘラクレス、いままで何処へ行っていた?」
「野暮だな? コレのトコだよ」と、立てる小指。
「オマエは!」
「ま、俺にも俺でやる事はあるんでな」何処吹く風に非難を流しつつ、豪傑は説明を促す。「にしても、珍しいな? アンタが、たかだか殺人事件……それも下々の界隈へ直接赴くなんてよ? いったい何があった?」
「ただの殺人事件なら、わざわざ出向きなどしない。メディアが感知したというなら話は別だ」
「あの〈魔女〉が?」
そう、魔女は感知していた──この事件の根底で泡を息吹く黒を!
「……何だ? それは?」
「解らん」
「あ?」
「だがしかし、或いは、厄介な事になったやもしれぬ」
「まさか?」ヘラクレスの直感は、ペルセウスの懸念を共有に噛んだ。「……〈呪后〉」
脳裏に甦るのは、アイツ──。
殺しても死なぬ女──。
滅びを知らぬ魂──。
そして、最強最悪の災厄────。
「今後の対応を話したい。場を変えよう」
「ああ」
祖父勇者の提案に乗る。
と、その流れの最中に、ヘラクレスは違和感を感じた!
襟足を逆撫でされるかのようなゾゾゾッとした不快が、背後から射して来る!
(チィ? 何だ?)
振り向けば、数メートル先の路地裏入口にごった返すのは安い好奇心に染まる見物人達。
注ぐ観察視の数秒──。
「どうした?」
「……いや」
ペルセウスの呼び掛けに我へと返り、先導の背中に続く。
喧騒に染まる雑踏にて惹き付けた蛍灯は、不釣り合いに清廉な存在感──エレン・アルターナであった。
帷の支配が及ぶ。
妹を送り届けた後は荷物も無いので、気兼ね無くバイクのスピードを飛ばした。防壁ギリギリまでや、時には防壁の外まで……気が済むまで疾走すると、その後にボロアバートへの御帰宅という流れがヴァレリア・アルターナのルーティーンだ。
が、今日は違う。
たいしてスピードも上げない程度に走り、そして、遠くへは赴かなかった。
人気の無い寂れた街路で降車すると、シガレットを一服蒸かす。
立ち昇る紫煙を眺めれば、自然に黒月と見つめ合った。
暫くは喫煙の余韻。
待ってやる。
「……出て来いよ?」
おざなりな呼び掛けは、さりながら独り言ではない。
それを察すればこそ看破された事実を覚ったか、潜む気配が姿を現した。
店影やゴミ箱の陰からゾロゾロと……。
三人である。
中肉中背なヤツに、大柄なヤツ、そして一際小柄なヤツ──風采は様々だが総じて黒基調の暗色コーディネイトであり、御丁寧に頭には黒布を巻き付けて素性隠しの覆面としている。
黒尽くめの襲撃者達であった。
「今日一日、ずっと付けてたよなぁ? 付かず離れずの距離をキープしながら観察して……」
そう、その気配は察知していた。
だから、待っていてやった……追い付くのを。
だから、誘い込んでやった……遠慮無くタイマン張れる場所へと。
「生憎、見ず知らずの男を自宅へ誘うほど安い女じゃないんでね」
紫煙眺めの横目で挙動を探るも反応は無い。
ただ、ジリジリと包囲網を広げてはいた。
ヴァレリアを囲う形で。
交戦意思はあるという裏打ちだ。
「オマエら、何者だ? 目的は?」
「……羽根」
「あ?」
ようやくにして紡ぎだす暗い抑揚。
一番間合いの近い小柄な賊だ。
同時にヴァレリアは察するのである──コイツがリーダー格か。
正直、意外ではある。
ひ弱な印象のせいか貫禄めいた威圧は感じない。
「……〈マァトの羽根〉をよこせ」
「ソイツァ〈黄金の羽根〉の事か?」
「……そうだ」
「なるほどねぇ? アレが〈目的〉か」
深く吐く一服。
巡らせる。
(単なる物取りでもなきゃ場当たりでもねぇ……明確に目的意識を持っているってワケだ。つまりは〝理念〟を掲げた徒党……いや、或いは組織か?)
酌み探る。
(少なくとも〈古代エジプト信仰〉に肩入れしている連中ってのは間違いねぇな。でなけりゃ、あんな物は欲しがらねぇ。だとすりゃあ……少々厄介だな? 性質から特定出来る背景は〈カルト教団〉もしくは〝その性質を反映した連中〟って事だ)
組み立てる。
(固執は〈黄金羽根〉……その動機は〈古代エジプト信仰〉故……素性隠しの暗躍から〝裏社会〟に属する連中……そして、いざとなりゃ強襲も辞さない攻撃的姿勢…………)
ヴァレリアはアウトサイドを根に生きる人間だ。
裏社会特有の黒い噂は、雑多に聞き蓄えている。
蛇の道は──というヤツか。
そうした情報から取捨選択を試みれば、性質合致する組織が弾き出された。
(チッ! そういう連中かよ!)
辟易とした憤りを、シガレットと共に吐き捨てる。
別段怖くはないが、ひたすらに面倒臭い。
吸い殻を踏み消しに訊う。
ひとつだけ釈然としない点があった。
どうしても解せない疑問が。
「オイ、どうしてアタシが〝アレを持っている〟と知っている?」
「…………」
「ダンマリかい?」
「……渡せ」
「ヤダね。まだ〈アンムト〉にでも喰わせた方がマシだ」
冥府怪獣の名を以てした挑発。
それが皮切りとなった!
崇拝対象である〈古代エジプト神話〉を持ち出されて琴線が断たれたか!
否、そうではない!
最初から殺る気だ!
体勢を低く落とした刺客三人が駆け迫る!
正面! 右! 左後方!
同時に、ヴァレリアはライディングスーツの胸開きへと手を忍ばせ、内ポケットから愛用の得物を取り出した!
放漫な谷間を滑り、妖しい色気を霧と抜け、鋭利な冷酷が目を覚ます!
ジャックナイフ!
ガキの頃から護身用だ!
その扱いは手練の域!
正面からリーダー格の手刀突きを浅い後方跳躍に避せば、間髪入れずに右から交差する巨漢の拳!
刹那の見極め!
ヴァレリアは半身捻りの体捌きに、これを流した!
擦れ違い様に相手の左腿へと刃の赤筋を流し刻んでやる!
「ぐあっ?」
そして、時間差で左後方から繰り出される駄目押しの一打!
が、予想通り!
その場での円心動作へと呑み込むと、そのまま首筋へとジャックナイフの柄尻を叩き込んでやった!
「カハッ!」
詰まる息のまま、つんのり滑る!
地面に転がり落ちた黒猿は、ヒクヒクと痙攣にのびていた!
その無様さをヴァレリアは悠たる蔑視で見下す。
「クリーンヒットだったみてぇだな? 脳震盪だ」
「クッ!」
歯噛みに再び間合いを開く残り者。
「テメェらのフォーメーションから攻撃法は察しが着いていたからな。加えて言えば、各自の間合いも順番を確信するヒントにはなった」
「ヴァレリア・アルターナ……たかが泥棒猫だと思っていたが、とんだ食わせ者だったか」
(コイツ? 名前を?)
ますます疑念が強まる。
いったい、いつから目を付けられていた?
ヴァレリアを軸と据えて、ジリジリと刺客達が陣形を推移させ始めた。
虎視眈々と窺うは挟撃を仕掛けるタイミング。
とはいえ、ヴァレリアにしてみれば、三連波状よりは難易度が下がった。
(後は、どちらから口火を切って来るか……だ)
先刻の攻撃パターンを参考に警戒対象を定める。
(とりあえず〈リーダー格〉だな。先の連携もヤツに続けて組み立てていた。それに一人は脚に手負い……痛みでマトモには襲い掛かれねぇだろうよ)
眼前の刺客と正視を牽制しあう。
黒ずくめに潜む瞳は殺意の解放に焦れていた。
対するヴァレリアに浮かぶは自信を孕む涼しさ。背後へと回り込む巨漢の気配も察知済みだ。
黒く渇いた風が凪ぎ去る……。
張り詰めた空気が動いた!
「ケェェェーーーーッ!」
突撃の奇声に泡食らう!
予想が裏切られた!
背後!
手負いの奇襲が狼煙であった!
「何っ?」
咄嗟に身構える!
とはいえ意識を別方向へ向けていたのは、完全に仇となった!
「クソッタレが!」
が、奇襲者の動きが止まった!
ガシリと!
力強く!
背後から頭を掴まれていた!
そう、頭を! 脳天を!
同じ程の頑強な体格によって!
「オイ」ドスの聞いた声音に、獲物は恐々と視線だけを動かした。「テメェら、誰の女に手ェ出してんだ? あぁん?」
「クリス!」
「よぉ、ヴァレリア? ナイスタイミングだったみてぇだな?」
フランクな社交辞令を返すも、剛腕はギリギリと頭蓋を握り絞めていく。
「さて……どうするよ? おとなしくブチのめされるか? それとも抵抗を続けてブチのめされるか? どちらにせよブチのめすがな!」
「グァァアアアッ!」
拷問であった!
常人離れした腕力が万力と喰い込んでくる!
仲間の悲鳴を耳にリーダー格が引き際を悟った。
「クッ! 退くぞ!」
指示を吐き捨てるなり、腰のホルダーから引き抜いたナイフをクリスへと向かって投擲!
「おっと!」
上体反らしで易々と避わされる……が、承知の上。単なる牽制だ。
バランスを欠いた隙を見極め、捕虜が裏拳に脱出を試みた!
「ガッ? テメェ!」
逞しい腕が条件反射にガードする!
充分。
間合いから離脱に跳ぶ黒い影!
そして、賊達は俊敏な逃走で街路の闇へと駆け入り溶けた。見渡せば、気絶していたヤツもいない。
一転した閑寂だけが大気と同化に居残った……。
慌ただしい疲労感を緩和すべく、暫し休む事とした。
いや、いま少しは脳内整理の時間が欲しい。
オートバイへと腰預けに凭れると、ヴァレリアはシガレットに逃避した。
くゆる不定形を思考の筆跡と眺める。
軌跡を追えば、またも黄色い巨眼と見つめ合った。
「にしても……ヤツら何者だ?」
傍らにしゃがみこんだクリスの訊い掛けへ、ヴァレリアは蒸かす紫煙に乗せた情報を開示してやる。
「邪教徒集団〈黒き栄光〉……闇に蠢く宗教型秘密結社。諸々の闇組織とは根本的に性質が違う」
「邪教徒集団って事は……古代エジプト絡みか?」
「ああ。ヤツラの根底にして念頭は徹底して『エジプト神への心酔』だ……それ以外に無い。利潤や金じゃねぇ。だからこそ、より質が悪い」
「どうして?」
「何故なら、何事も恐れない。狂信なんだよ……何処までも」一際、深く吐く。「厄介なクズ共に目を付けられたモンだよ……まったく」