僕らはいつエモいのか

正直、あまりエモいという言葉が好きじゃない。もちろん時と場合によるとは思うんだけど、心の底がジーンとする感覚や、全身の鳥肌が立つような感覚をエモいという言葉では表現したくない。

そもそも、僕らはいつエモいという感情を覚えるのだろうか。

第一の状況は、単純に懐かしがっている時。
高校の部活や文化祭、大学のサークルで過ごした時を思い出して、その当時の自分に思いを馳せる。時には今の自分と重ね合わせて、あの頃はよかったなぁなんて思ったりする。
つまり、今の自分を構成する一部分である「過去の自分」との対話。
今日日、エモいという言葉はこの文脈で最も使われている。


だが、エモい状況はもう一つある。 それは、風景を見た時。

もちろん、どんな風景でもいいってわけじゃない。
トトロの舞台のような里山風景や、視界いっぱいに広がる海、一面に咲き誇るひまわり。
こう言った自然を目の前にすると、わけもなく懐かしくなり、頭の中に心地よい風が吹き抜ける。どうしてだろうか。

その答えは、我々の遺伝子の中にある。
産業革命以降文明は急速に発展し、かつて里山に住んでいた我々は都心のマンションに住むようになった。農耕や狩猟を営む生活から、オフィスに行ってパソコンを相手にする生活に変わった。周りを流れる空気は夏草の匂いからアスファルトの匂いに変化した。
だけど、人間の遺伝子はたかが数百年で劇的に変化することはない。
我々の体の中では、数万、数十万年前を生きていた人々と同じ遺伝子が今も生きている。そしてその遺伝子は、自然の中で暮らす人類に最大限適合した遺伝子だ。

だから、私たちは自然を目の前にしてノスタルジーを覚える。
それはきっと、私たちの中にある遺伝子が懐かしがっているから。私たち自身は一度も訪れたことのない場所なのに、なぜか訪れたことがあるような気がするのは、数十年前に我々の遺伝子が訪れた場所だから。

一つ目のエモいが自分という個体の思い出とつながっているとするならば、
二つ目のエモいは自分の遺伝子の思い出とつながっている。

だから私は、特に二つ目の状況において、エモいという言葉を使って欲しくない。数十万年の時を経てなお受け継がれている感情に、エモいという言葉はあまりに陳腐な気がするから。

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