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ふたつの視点から見えること

今週から、クリニカルオフィサー(準医師)の学生の実習がはじまった。

ある学生と、同僚の看護師の会話。

👩🏽「ミナはボランティアとしてここで働いてるの。看護師だけど、報酬はもらってないんだよ。貯金でくらしていて、経験を得るためにここにいるの。」

👨🏾‍⚕️「俺も日本でボランティアがしたいな~」

👩🏽「そんなことできるの? ミナは兄弟はひとりしかいないし、養う必要はない。だから貯金ができる。でも私たちの家族システムでは貯金なんかできないでしょ。」

👨🏾‍⚕️「俺は末っ子だから大丈夫。卒業したらNGOで働いてお金を貯めるよ。」

私は名目上のボランティアで、本当は生活費も家賃も支給されている。でもそれは給与というほどの額ではないし、お金を目的にここで暮らしているわけではない。

それを伝えるために"嘘"をつくことにした。

家賃は自分は補助がでていて自分で払っていない。だからいくらなのかはわからない。お金は看護師時代の貯蓄でやりくりしながら暮らしている。お金や次のポストを得るためではなく、日本とは異なる医療事情のなかで経験を得るためにここにいるんだよ。

家賃を聞くことでどの程度の暮らしをしているのか探りを入れる習慣がある彼らには家賃の金額は伝えないことにした。そしてお金を得るためにここに来ているわけではないことを伝えるために生活費の補助については伏せることにした。私たちボランティアの本来の目的は、なにかを良くしたり変えたりすることなのかもしれない。でもここで働くなかで現地の事情もよく知らないことばもうまく話せない外国人がなにかを良くしたり変えたりするのは烏滸がましいし、同僚たちに失礼だと思うようになった。だから私がここにいる目的は"経験を得るため"だと伝えることにした。

着任当初、看護師を辞めて自ら応募してここに来たことを伝えると「いくらもらえるの?」「これが終わったら次のポストが用意されているの?」「なにが目的なの?」と不思議がらた。そして「家賃はいくら?お給料はいくら?お金ちょうだい。」と肌の白い外国人=お金持ち、モノをくれるひと、というスティグマに違和感を感じた。

この"嘘"をつくようになって、同僚からモノをねだられることはなくなり、お金をくれるひとではなく"ボランティア"としてともに働くスタッフとして認識してくれるようになった。

看護師もクリニカルオフィサーも資格をとるには12年間学校に通ったあと、3年間の高等教育を受ける必要がある。

就学率が決して高くないこの国で高等教育を受けられるひとはほんの一握りで、かなり恵まれた環境に生まれたひとたちだけ。そして資格を取っても、財政が不安定なこの国で公務員として正規雇用になるのは順番待ちの状況で、なかにはボランティアとして無給で働く有資格者もいる。

資格をとって、さらに正規雇用で働いてる同僚たちはかなりのエリート層に位置付けられる。

それでも同僚は時々、お金がないと嘆いている。

先月もお給料日前にお金が底をついたというので訳を聞いてみると、妹や姪の学費を振り込んだらお金がなくなってしまったと言う。

彼女は30代、最近婚約したばかりで子どもはいない。けれど、妹や姪を養っている。収入があるものが他の家族の面倒をみる、拡大家族のシステムがあるらしい。

働いて収入を得ても、すべてを自分のために使えるわけではないし、頑張って働いたからといって報酬が上がるわけでも評価されるわけでもない。生きるために仕事をする。それが彼女の人生だ。

たとえば自分が弟を養わなければいけない状況だったら今頃どんな人生だっただろうか、と想像する。

20代で大人ふたりの生活費と、弟の学費を捻出できただろうか。もしそんなことが決められた人生だったら、将来に展望を持って時間を過ごせただろうか。

きっと将来を描いて職業選択をすることはなかったし、向上心も好奇心も芽生えなかっただろうなと思う。

職業観とか仕事に対する姿勢とか、つい日本と比べて批判したくなってしまう場面がたくさんある。
でも彼女たちの生きる環境と、自分が置かれてきた環境は根本的に違うところが多すぎる。自分と彼女たちが違うんじゃない。彼女たちだって、日本に生まれて子どもの頃からたくさんの選択肢があって、自分の意思で自分の人生を歩めたら、きっとなにもかもが違っていたはず。

そう思うと私に彼女たちを否定したり、なにかを変えたりする資格はないなと思ってしまう。

それと同時に自分がいかに幸運とチャンスに恵まれていて、それが世界のなかでみたらほんの一握りのひとにしか与えられないチャンスだってことを強く実感する。

もうひとつこの会話のなかでハッとさせられたことは、学生が公務員として働くことよりもNGOへの就職を望んででいたこと。

彼らも私の同僚と同じくこの国のなかでのエリート層の学生だ。医療水準が低いこの国で、貴重な医療の担い手としての将来が期待されているはず。それでも彼らは公務員として公共の医療機関で働くことは望まないとはっきり言った。

僻地への配属、財政不安、限られた医療資材や薬剤、そんな環境で働くよりもお金やモノが潤沢なNGOのほうが彼らにとっては魅力的らしい。

保険制度の整っていないこの国では、お金に余裕のあるほんの一部の富裕層以外は公的な医療へのアクセスが基本になる。国民のほとんどが公的な医療サービスを必要としている。

それなのに若手の医療人材はそれ以外のところへ就職を望んでいる。

こんな矛盾、ほんとうはあってはいけないはずなのに...

この国で活動して1年がたって、さまざまな課題や問題が見えてきた。そしてその課題や問題を解決したいと思って、根本を突き詰めていくといつも最後にたどり着くのは医療政策や行政の問題で、ボランティアの分際で手が及ぶ問題ではないことが大半だった。

その一方で、新しい取り組みや仕組みの導入の現場にも立ち会ってきた。

傍観者だった1年前は、そんな新しい物事に感心していたのかもしれない。でも一スタッフとして物事をとらえるようになったいまは、空っぽの箱をどんどん積み上げているように思えてならない。

新しい箱を積み上げるよりも、今ある箱に中身を詰めることのほうがよっぽど大事に思えてくる。

手が届かない課題ばかりに目がついて、あきらめてしまいたくなるけれど意識的に足元をよくみて自分ができる範囲でできることをコツコツとやること。

それが残りの1年で自分が自分に課したこと。

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