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20代の終わりに再び会社員になってからは、木寺の住まいが帰り道にあったものだからちょいちょい寄っては駄弁った。 木寺はその頃、風呂なし・共同トイレの古いアパートに住んでいた。そんな物件は当時(2000年)としても珍しく、自分は何だか学生寮を思い出して、行くたびに懐かしい気分になっていた。 大学を出て以来、知らない土地へ行って一人で盆も正月もない生活をしてきたけれど、こういう学生時代の延長みたいな生活だってあり得たのだと思ったら不思議な心持ちがしたのを覚えている。 木
二十代の終わり頃、大阪で随分古いワンルームマンションに住んでいた。 1階に中華料理屋があって2階はその倉庫、3・4階が居住スペースだった。 4階廊下はコンクリート剥き出しだったが、3階の方はピータイルが貼られて幾分きれいだった。恐らく3階は間取りもワンルームではなかったろう。 建物全体が何だか薄暗く、初めて見た時には九龍城みたいだと思った。それが面白くてここに決めたのだけれど、引っ越しを手伝ってくれた池田君は「え、ここに住むんですか……」と随分感心したようだった。
学生時代に通った大学前の飲み屋を継ぐ話があって、それまで勤めていたパスタ屋を辞めた。任された新店が一区切り付いて、辞めるなら今だと思ったところへその話が来たから、深く考えずに辞めてしまった。 そうして大阪へ戻って店に立ち始めたまではよかったが、そこからがどうも上手くない。 元々 “大阪のおばちゃん” がお客を繋ぎ止めていたような店で、どうも自分の性格では上手く噛み合わない。じきにお客が離れて暇になった。 あの時おばちゃんと金銭面でどういう約束になっていたのかもう判然し
高一の時に、アメリカンレトロのイラストがプリントされた缶ペンケースを買った。随分気に入って、大学はもちろん、社会に出てからも使っていた。 最初の就職先では報告書を鉛筆書きしてコピーに捺印して提出することになっていたから、シャープペンシルの出番も多かった。それでこのペンケースに同じシャープペンシルを4本入れていた。 4本も入れる必要はないけれど、ノックボタンが本体の横についたのを何となく気に入ってしまい、見かけるたびに色違いを1本ずつ買って段々増えた。終いにペンケースに
30年ばかり前、横浜へ引っ越して最初の休みに渋谷へ行ってみた。 ちょうど渋谷系が流行っていた頃でもあり、どれほどお洒落な街かと思っていたけれど存外普通の街だった。ことによると自分のような田舎者が行くと警報が鳴るんじゃないか知らんと構えていたから安堵したのを覚えている。 109に入ってたまたま目に付いた店で青いシャツを買った。それからどこかの雑貨店で青いガラスの灰皿を買い、タワーレコードで好きなバンドのCDを買って帰った。 帰りに電車の中で、全部渋谷まで行かなくたって
祖父は二人とも自分が小学生の間に亡くなった。 どちらも通夜と葬儀は自宅でやった。通夜の際には親類縁者が自宅へやって来たし、葬儀の時には近所の人たちも参列してくれた。 母方の祖父は教師をしていたから、教え子だった人たちが通夜に来て「先生!」と棺に縋りつきながら泣いたのを覚えている。中には終戦直後に家で面倒を見ていたという人もいた。母と叔母はその人を「お姉さん」と呼んで、再会に何とも云えない顔をしていた。 祖母はどちらも自分が大人になってから亡くなった。通夜も葬儀も外で
二十代の頃、何度か酒を持って叔父の家を訪れたことがある。 叔父一家は祖母(叔父の母)と同居していた。 奥さんはゴリラのような人だった。初めて会った時はそれほどでもなかったが、年を経るにつれて段々そうなった。叔父の娘は部屋に篭って顔を出さない。自分にとっては一番年若の従妹だが、いまだに名前も知らない。別段興味もないからそのままにしている。 ある時、不意に行ったら叔父はまだ帰っていなかった。それでテレビを観ながら待っていると、祖母が思い出したようにこんなことを云いだした
祖父の家にはゴンという白猫がいた。自分が生まれる前からいたらしい。 ずっと外にいて家に入れることはなかったけれど、庭で休み、腹が減ると勝手口でニャァと云って祖母から餌をもらっていたから一応飼い猫だったのだろう——猫のこういう飼い方はあの時分には別段珍しくなかった——。 何だか気性の荒いやつだと聞いていたからあんまり手を出さないようにしていたが、機嫌を見ながら喉を撫でてやったことは何度かある。喉を伸ばしきたので、きっと気持ち良かったのだと思う。 一度塀の上から、棒き
自分が子供だった頃には、小学校高学年からはみんな缶のペンケースを使っていた。今は使っている子を見かけないから、どうやら一時的な流行だったらしい。 小六のある日、いつも文具を買っていた『デパート・エコー』で、中森明菜と書かれた缶ペンケースを見つけた。 黒地に白文字で名前が書いてあるだけの甚だシンプルなもので、見ると他に松田聖子や田原俊彦、近藤真彦もある。全部同じ黒地に白文字で、書体も同じだから、何だかうさんくさい。きっとオフィシャルな製品ではないだろう。 一体、こんな
最初の就職先はチェーンのパスタ屋で、25の時に店長になった。まだ店のバイトと年が近かったから、大学の後輩に接するみたいな感覚で存外気楽だった。 ある時、新しく雇った女子高生に紅茶に入れるレモンをスライスさせた。ややあって、できましたと云うから見てみると、ほとんどが半月みたいな形になっている。まともに丸く切れたのがほとんどない。随分不器用な女子だと感心した。 「おい、まじかよ、丸く切ってくれよ」 「えー! 包丁が切れないんですよ」 「そういう問題じゃないだろう。何だ、こ
幼稚園の友達を自分は割と覚えている。 幼馴染のオサダ君に会った時にそんな話をしたら、彼はあんまり覚えていないらしい。幼稚園で何組だったかも覚えていないと云うから、自分と同じ黄組だと教えてやったら、「ふーん、そうなの?」と初めて聞くような感じだった。きっとまた忘れたろうと思う。 岩戸君も同じ黄組だった。あんまり一緒に遊んだ覚えはないけれど岩戸という名前は覚えている。顔は何だか岩石みたいだった。 同じ小学校にはいなかったようだから、どこかへ引っ越したのだろう。 24
妻が友人とコンサートに行っているから、晩は外で食べて帰るつもりで、何を食おうかと運転しながら考えた。 最初にフードコートが浮かんだけれど、これから行ってもすぐに蛍の光が流れてきそうだ。閉店を気にしながら食事したってつまらない。 昔勤めていたパスタ屋が隣町にできたらしいから行ってみようかと思ったが、金曜の晩におっさんが一人でパスタ屋に入るのも違和感がある。 それで結局、ラーメン横綱に決めた。 横綱は味も好きだし、店の感じも好きだ。看板も店内も無闇に明るくて、70年代の
農家の友人が米と餅を送ってくれたので、お礼に広島の牡蠣を送るよう手配した。 こういう場合、以前は殻付きのを送ったけれど最近は大抵剥き身を選ぶ。殻付きの方がインパクトは強いが、よほど愛好家でもない限り一々開けるのが面倒だろう。だから初めての相手にはガツンと殻付きを送り、二回目からは剥き身を送るようにしている。 十年ばかり前、家を建てた時に友人らを招いて殻付き牡蠣をカセットコンロで焼いたら、随分好評だった。カセットのガスが切れかけていて焼くのに甚だ時間がかかったから、待た
Googleドキュメントで1月1日から12月31日まで365個のファイルを作って、毎年同じ日の日記を書き足していくということを2019年からやっている。去年の今日はどんなことがあったというのが見えて面白い。 日記といえば、学生時代に書いた日記帳があまりにもあんまりな内容と体裁で猛毒文書になっている。 ずっと処分に困ってきたのだけれど、いつまで持て余していたって一度書いたものはなくならない。だから比較的毒素の薄い部分だけを上述のGoogle日記に転記して、原本は神社でお