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異世界アパート

 20代の終わりに再び会社員になってからは、木寺の住まいが帰り道にあったものだからちょいちょい寄っては駄弁った。
 木寺はその頃、風呂なし・共同トイレの古いアパートに住んでいた。そんな物件は当時(2000年)としても珍しく、自分は何だか学生寮を思い出して、行くたびに懐かしい気分になっていた。
 大学を出て以来、知らない土地へ行って一人で盆も正月もない生活をしてきたけれど、こういう学生時代の延長みたいな生活だってあり得たのだと思ったら不思議な心持ちがしたのを覚えている。

 木寺荘の隣にはローソンがあったから、訪れる際には大抵そこでパンと缶コーヒーを買って行った。
 ある時、そうして「おう」と言いながら入ったら井本がいた。井本は浅草で人力車夫をしていて、この時はたまたま大阪へ帰って来ていたらしい。
 井本の話を聞きながら、持参したパンを開けたら「ここはお前の家か」と井本が笑い出した。「こいつはいつもこうなんや」と木寺が言った。
 改めて考えてみたら、他人の住まいを訪問するのに自分のパンだけ持参して食うという法はない。言われて急にきまりが悪くなったが、一口齧っただけで鞄に仕舞うのもおかしいので、そのまま全部食った。

 木寺荘へは結構行ったけれど、他の住人を見たことが一度もない。
 少し前まで2階に住んでいた中国人らが退去したら、壁をぶち抜いて2部屋をつなげていたとわかって大家さんが随分怒ったという話を木寺から聞いた気がするが、それはネットで読んだよその話だったような気もする。どっちでも構わないから木寺に確認はしていない。


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