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仕事旅日記

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前職の仕事で訪れた日本各地での体験や旅情を、思い出しながらテキストにしたためています。
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#短篇小説

生まれた町で

「あんた、荒川さんで産まれたの?」 その人は、目を丸くして言った。 「おい、この人、荒川さんで産まれたんだって」 「ええ!」 大きな瞳の奥さんが、ますます目を大きくしながらこちらにやってきた。 ぼくは今、新潟市内のとある民家にいる。 畳張りの部屋の中央に、大木を輪切りにして作ったような分厚い天板の立派な座卓が鎮座しており、ぼくはその巨大な年輪の前で正座している。 実は、この数キロ先に母方の叔父の家があり、そこにもよく似た年輪の大きな座卓があった。 長らく、これは叔父の趣味だと

郡山市の夜

夜になった。 今夜はホテルで1泊して、明日の朝、2件目の客先へ向かう事になっている。 普段は日帰りばかりなので、こういうホテルでの過ごし方がわからない。 とりあえず夕飯は外で食べようと決め、夜の街へ出ることにした。 …と言うと、新宿のようなきらびやかなネオン街へ行くことを思い浮かべがちだが、郡山駅前の商店街はほとんどシャッター街と言ってよい状況で、開いている店の数は限られている。 そのかわり、いわゆる「夜の店」の客引きの男たちが暗い路地の上に何人も立っていた。 僕は、普通の定

郡山市のタクシー

福島県郡山市。 東北地方では仙台に次ぐ規模の中核都市であり、新幹線やまびこに乗れば東京から1時間少々で来れてしまう。 東京駅から気楽に遠出するなら有望な選択肢の一つだが、ぼくの場合はあくまで仕事である。 この日、ぼくは午前中は東京の社内で雑務をこなし、16時から始まる郡山市での打ち合わせに間に合うよう、東京駅から新幹線に乗った。 余裕を持たせて、郡山駅15時前後着を目標にしたとしても、13時半に東京駅にいればほぼ間に合う。 東北地方であるにも関わらず、東京駅から2時間半

伊豆の和菓子

仕事柄、片道2~3時間程度の移動は珍しくない。 ほとんどの場合、電車に乗れば黙っていても現地に着くので、行程の大部分は寝ているだけである。大した苦でもない。 ぼくは、いつものように新しく担当する顧客について調べていた。 現地の住所を地図に出して行き方を調べるのだが、周辺地図を隅々まで見た後、首を傾げた。 駅がない。 地図が間違っているのかと思い、別の地図サービスで同じ場所を調べてみたが、やはり、ない。 場所は、伊豆半島の先端より少し上の西側である。 縮尺を変更し、伊豆半島の半

山の画商

「山下清、知らないの」 初老の画商が、驚きとも残念とも取れる声を上げた。 「すみません」 ぼくは心底済まない気持ちで言った。 「テレビドラマもやってたんだけどなぁ」 「不勉強なもので」 「じゃあこの人知ってる?千住博」 画商はまた別の絵を見せてくれた。 「この人、絶対来ると思うんだよ。知ってる?」 「いえ、すみません」 ぼくは美術の学校を卒業している。 そこで美術史やデザイン史は一通り学んできていた。だが、画家の名前、それも日本の画家となると、ほとんど知らない。 つくづく、勉

松本城の話

松本に来ている。 新宿から特急あずさで2時間半のこの町は、観光地としても有名だ。 この日、思ったよりも早く用事が済んだ。 すぐ帰ってもよいが、松本まで来ることはあまりないので、少し勿体無い気もする。 せっかくなので、松本城に行ってみることにした。 多少、時代小説は読むものの、攻城戦の時代は守備範囲から外れており、当然城マニアでもない。どこまで楽しめるかはわからなかった。 橋を渡って券売場で観覧券を購入し、敷地に入るとまずは立派な構えの黒門に迎えられる。 隅々まで綺麗に保たれて

上諏訪駅の足湯

中央本線上諏訪駅。 JR新宿駅から全席指定の特急あずさに乗っておよそ2時間ほど揺られると、この鄙びた駅で停車する。 地方の駅はどこもかしこも似たり寄ったりで、駅の構造だけで言えば、大した個性などない。 ただ、この上諏訪駅に限って言えば、ホームに足湯があるという点が他と大きく異なる。 ホームの端に赤紫ののれんが下がり、白い文字で「足湯」と大書されている。 無人である。そこだけ岩石を積んだ雰囲気のある施工になっており、それがむしろ駅のホームとの場違いさを際立たせている。 乗客は無

飯田市というところ

長野県南部に、飯田市という場所がある。 静岡県との県境に位置し、人口は推計10万人前後。 ウィキペディアには、経済的には愛知県各都市との結びつきが強い、とある。 ようするに、関東甲信越の枠組からは外れた場所なのである。 東京駅からの交通の便として鉄路を使おうとすると、なんと最短で4時間かかる。 自宅から東京駅までの時間を考えると、ドア・ツー・ドアで5時間強かかる計算だ。 こんな場所に日帰りで行くのは狂気の沙汰だが、仕事の都合上、それを強行しなければならないケースもある。 その

外房線

千葉駅周辺はかつて住んでいた街ということもあって、若干の土地勘がある。 しかし、駅構内となるとあまり馴染みがない。特に県の内陸部へ向かうホームは上がった事すらなかった。 この日、初めて外房線に乗った。 ぼくは、初めて乗る電車ではできるだけ眠らないようにしている。 かと言って、到着までする事もない。 仕事を始めたばかりの頃は小さなメモ帳にクロッキーをしていたが、次第にそれもやらなくなり、結局子供のように窓を眺めるだけに落ち着いた。 この日の外房線でも、進行方向左側の車窓を眺めて

単線2両の列車が、霧の山中を行く。 八王子から高崎までを結ぶ八高線は、乗り慣れない乗客にとっては敷居が高い。 まず、乗り場からして変わっている。八王子駅から八高線に乗るには、1、2番ホームまで降り、そこから100メートルほど歩いた先にある一番端の3番ホームまで行く必要がある。 それも1時間に1本という閑線だから、絶対に遅れられない。 他の路線であれば、一本逃しても別の経路を検討する余地があるが、八高線の途中駅へは八高線でしか行けない。 そういう理由で、この路線を使う時は普段以

あるいは

「こんな田舎まですみません」 母親ほどの年の婦人が、慇懃に頭を下げた。 「とんでもない」 慌ててぼくも頭を下げた。 「タクシー呼びましたから、あと何分かで来ると思います」 「ありがとうございます。失礼します」 最後にもう一度頭を下げて、ぼくは洋品店の外に出た。 すっかり暗くなった通りは、一見、自宅のそばの住宅地のようにも見える。 しかし実際には、生まれて初めて来た町だった。 「寒いですね」 いつのまにか、婦人の娘さんが隣に来ていた。 年はぼくと同じくらいに見える。 来た時から

境界

客先からの帰り道、もう少しで駅に着くというところで、踏切の警報が鳴り始めた。 えっ、と声が出た。事前に調べた時刻表では、まだ電車は来ないはずだ。だが、間違いがあったのかもしれない。ぼくは慌てて走り出した。 閑静な住宅地の最後の角を曲がると、唐突に単線の駅舎が現れる。 面倒なことに、改札が踏切の向こう側にしかないので、一度遮断機が降りてしまうと駅には入れない。 そして、電車は1時間に1本しか止まらない。逃してしまうと、後の予定が大幅に狂ってしまう。 ぼくは息を切らせながら、なん

黄色い地平線

目を覚ますと、列車は黄色い四角形の上を走っていた。 見晴らしが良い。ゴッホが筆を入れたような橙の地平線に、新建材の住宅が横一列に並んでおり、そこまでひたすら黄金色の稲穂が続く。風が吹くと稲がしなって、誰かが田の中をかき分けて走っているようにも見えた。 ぼくは伸びを一つすると、列車の中を見渡した。旧型の車両である。次の駅を示すLEDもない。 今日は日帰りで帰京する。この先の燕三条から新幹線に乗る予定だが、この鈍行は、燕三条に向かっているのか、寝過ごしたせいで反転し逆方向に向かっ