見出し画像

上諏訪駅の足湯


中央本線上諏訪駅。
JR新宿駅から全席指定の特急あずさに乗っておよそ2時間ほど揺られると、この鄙びた駅で停車する。
地方の駅はどこもかしこも似たり寄ったりで、駅の構造だけで言えば、大した個性などない。
ただ、この上諏訪駅に限って言えば、ホームに足湯があるという点が他と大きく異なる。
ホームの端に赤紫ののれんが下がり、白い文字で「足湯」と大書されている。
無人である。そこだけ岩石を積んだ雰囲気のある施工になっており、それがむしろ駅のホームとの場違いさを際立たせている。
乗客は無料で使って良いらしい。
「昔はね、温泉のお風呂があったんだよ」
中で老人の声がした。
「だけど、誰も使わねえからって、足湯に直されたのよ。あれはあれで、良かったけどね」
地元の人だろうか。3、4人が談笑しながら足を湯に浸けている。
電車の利用客でなくても、入場券があれば入れるそうだ。
こんな場所が近所にあるとは羨ましい。
約束の時間まで多少の余裕はあったが、足湯とはいえ温泉である。
入る以上は、時間を気にせずゆっくり楽しみたい。
そういうわけで、一旦は足湯を諦め、仕事の準備に集中することにした。
そのあと、打ち合わせを終え、上諏訪駅に戻ってきたのが午後4時頃である。
日が陰りはじめた構内は、ぼく一人の貸し切り状態だった。
乗車する予定の電車が来るまで、あと小一時間ほどある。
ぼくは靴を脱いで下駄箱に入れ、靴下も脱いだ。
変な気分である。駅のホームで靴下まで脱ぐことなど、人生で何回あるかわからない。
スラックスの裾をまくって、ゆっくり足を差し入れた。
期待していたよりぬるい。
露天風呂は外気で冷やされて温度が下がりやすいから、これは仕方がない。
それでも、両足を入れてじっとしていると、徐々に全身が温まり、数分後には少し汗ばむくらいになった。
11月末の冷え込む信州である。こんな体験ができるのは、何よりうれしい誤算だ。
このまま暗くなる駅舎を眺めながら、足元の温みを楽しむのも悪くない。
そう思っていたところに、遠くからかすかに踏切の警報音が聞こえてきた。
電車が来るらしい。
時刻表ではもう少し入っていられるはずだったが、田舎の駅の時刻表は更新されていない場合があるため、油断はできない。
ぼくは湯から上がると、運良く持っていたタオル地のハンカチで足の水気をふき取り、靴下を穿いた。
革靴を突っ掛けてのれんの外に出ると、ちょうど同じタイミングで、松本行きのあずさがホームへ入ってきた。逆方向である。
なんだ。
やっぱりもう10分は入っていられたのだ。
かといってもう一度裸足になって入るわけにもいかない。
数分の差だが、東京行きのあずさが来る頃には、先ほどまでの温みをすっかり失っていた。
しかし、長野には頻繁に来ている。今日のように都合がつけば、また足湯を楽しんで帰る日が近々あるだろう。
その次の機会を楽しみに、ぼくは上諏訪を後にした。

残念ながら、「次の機会」は訪れなかった。
下諏訪や茅野に行くことはあったが、その真ん中の上諏訪では降りる機会がないまま、ぼくは異動で内勤となった。
今まで様々な場所を飛び回るのが当然だったから、「いつかは行けるだろう」と楽観していたが、それは間違いだった。
内勤になってみると、当たり前だがまったく外に出ない。身体的には楽になったが、旅する楽しみがなくなったことは寂しくもあった。
今でも、いつかまたあの足湯に……と心のどこかで思っているが、実現するかはわからない。
別にセンチメンタルになっているわけではない。
駅の足湯のためだけにあずさの特急料金を払うのもなあ、と思うと、踏み切れないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?