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伊豆の和菓子

仕事柄、片道2~3時間程度の移動は珍しくない。
ほとんどの場合、電車に乗れば黙っていても現地に着くので、行程の大部分は寝ているだけである。大した苦でもない。
ぼくは、いつものように新しく担当する顧客について調べていた。
現地の住所を地図に出して行き方を調べるのだが、周辺地図を隅々まで見た後、首を傾げた。
駅がない。
地図が間違っているのかと思い、別の地図サービスで同じ場所を調べてみたが、やはり、ない。
場所は、伊豆半島の先端より少し上の西側である。
縮尺を変更し、伊豆半島の半分を収める地図になって初めて「最寄りの駅」が現れた。
半島を挟んで東側である。
地図を見たまま、しばらく考え込んでしまった
いわゆる「電車で行けない案件」である。
千葉県内の一部など、少数ながら関東地方にも何か所かあり、公共交通機関だけで到達するのは難易度が高い。
どちらにせよ、ぼくはペーパードライバーなので、なるべくならば車は運転したくなかった。
幸い、伊豆急下田からバスが出ていることを知ったぼくは、下田からの時刻表を確認し、メモに残した。

当日。
ぼくは熱海駅で立ち尽くしていた。
伊豆急下田へ行くには、東京から新幹線こだまに乗り、熱海で特急へ乗り換える必要がある。
熱海から下田へ向かう特急は「踊り子」と「スーパービュー踊り子」の二種類がある。このうち、後者は全席指定である。
こういう特急は珍しくない。ただし、指定席券の購入は車内に入ってからも可能というケースがほとんどだ。
そのつもりで、特急券のみ購入して指定席券を買っていなかった。
ところが、スーパービュー踊り子の場合、乗り場入口に乗務員の女性が立っており、指定席券を持っていない場合、そもそも車内に入れてもらえなかったのだ。
「ここで買えませんか」
「買えませんね」
つれない返事である。
指定席券を駅改札横の窓口まで行って買って戻ってきて、という方法は出来なくもないが、やっているうちに列車はいなくなっているだろう。
ぼくは歯噛みしながら、ゆったりと発車する特急を見送った。
幸い、時間には多少の余裕があり、次の電車は自由席もある「踊り子」である。そこからしばらく、駅のベンチで時間をつぶすことになった。

…という経緯を経て、ぼくは訪問先最寄停留所でバスを降りた。
自宅からのすべての行程を含めると、4時間弱ほどかかった計算になる。
バスが走ってきた道は片側1車線と歩道の狭い道路だ。
遠景に緑の山々が連なり、その裾野から道路の境界に至るまで青々とした田園の平面が広がっている。
美しい光景だ。
これで雨が降っていなければな、と思いながらビニール傘を開くと、傘越しに濡れた道路標識と、目的地の和菓子屋が見えた。
「下田からバスで来られたんですか」
担当の女性が目を丸くして言った。
「てっきりお車でいらっしゃったんだと思ってました、遠くからわざわざ、ありがとうございます」
その人は、ぼくが電車とバスで来た事が一大事のように言ってくれた。
「バスの時刻表あるかしら?帰りの時間も決まってますよね、じゃあ早く終わらせちゃいましょう」
気を使ってくれたのだろう。打ち合わせはとんとん拍子に進んで、あっという間に終わった。
次のバスまでの時間、店内も見せてもらった。ガラスのショーケースには、工芸品のように繊細な和菓子が彩り豊かに並んでいる。
やはり車で来るべきだったかもなあ、と、ここに至るまでに見えた田園風景を反芻しながら思った。
風光明媚なワインディングロードを走った先の目的地がこんな小洒落た和菓子屋だったら、後々気の利いた思い出になるではないか。
少なくとも、全席指定の特急に乗車拒否されることはなかったはずだ。

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