見出し画像

境界

客先からの帰り道、もう少しで駅に着くというところで、踏切の警報が鳴り始めた。
えっ、と声が出た。事前に調べた時刻表では、まだ電車は来ないはずだ。だが、間違いがあったのかもしれない。ぼくは慌てて走り出した。
閑静な住宅地の最後の角を曲がると、唐突に単線の駅舎が現れる。
面倒なことに、改札が踏切の向こう側にしかないので、一度遮断機が降りてしまうと駅には入れない。
そして、電車は1時間に1本しか止まらない。逃してしまうと、後の予定が大幅に狂ってしまう。
ぼくは息を切らせながら、なんとか遮断機が降りる前に踏切へ入った。
しかし、線路を横断するちょうど真ん中でレールの段差に靴が引っかかり、子供のように盛大に転んでしまった。
運の悪いことに、鞄を閉じていなかった。黒いブリーフケースからペンや書類が線路の上に散らばった。
ほぼ同時に、頭上で遮断機がゆっくりと降り始める。
近くには人がいない。
警報音は無情に鳴り続けている。
まずい。死ぬ。
無我夢中でペンと書類を鞄に詰めると、転がるように遮断機をくぐり、なんとか改札側の道へ出た。
心臓の音が聞こえるほどに心拍数が上がり、気分が悪くなってその場でへたり込んでしまった。情けないことだが、腰が抜けたのかもしれない。
警報はしばらく鳴っていた。10秒以上は鳴り止まなかったと思う。
なんだ、何も来ないのか。
ぼくは息を整えながら、少しほっとしたような気になっていた。
事情はわからないが、田舎ではこういうことがたまにある。
今回もそうだったのかと思いかけたところで、わっ、と薄紫の特急が猛スピードで通過して行った。
思わず、さっきまで自分の身体があった場所を見てしまった。
やがて警報が止み、遮断機も上がって静けさが戻った。
事前に調べた時刻表に間違いはなかった。確かに、通過する特急のことまで時刻表には書いていない。
駅の改札に入るところで、初めて掌を擦り剥いていることに気がついた。
全く必要のないところで、生死の境界に触れてしまった。それも、こんな平和を絵に描いたような住宅地でだ。
もしかすると、こういう境目は普段からすぐ側にあって、たまたま運良く触れずに済んでいるだけなのかもしれない。不注意で、今日はその境目に一瞬手が触れたのだ。
空は底抜けの晴天だった。なんだか救われるような気がしたが、もしこれが雨で、踏切で滑ったりしていたら、本当に死んでいたかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?