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ルポ【パレスチナ難民キャンプ① [初めての難民キャンプ訪問]】

皆様こんにちは。

今回からは予告していたとおり、バカアパレスチナ難民キャンプでの体験や現地の人々の声を記録として残しておりましたので、それをルポルタージュのような形で今後掲載していきます。

まず、私がそこで務めるに至ったきっかけですが、本来の配属先の同僚で、パレスチナ人のムハンマドさんから「毎週土曜日に学校でサッカークラブが開かれるからそこでのコーチをお願いしたい」という誘いを受けたことが始まりです。

ヨルダンへの派遣が決まり、当初の自身の関心事の一つとして挙げていたのが難民キャンプでの生活の実態や現在に至るまでの背景です。日本のメディアではなかなか報じられないこの実態を、現地でのフィールドワークを通じて実際に見て、聞いて、感じてみたいと思っていました。
貴重な休日を割く形にはなりますが「この機を逃したら後悔する」という思いから、要請を引き受ける旨をムハンマドさんに二つ返事で伝えました。

バカアキャンプでの活動を始めることを同僚の一人に伝えたところ、「あそこには必ず一人では行かずムハンマドと行動を共にしなさい。夜は絶対に出歩かず、自分の身から荷物は離さないで、お金も最低限のものだけにしなさい」と注意を受けました。その話しぶりから、単なる興味本位で行くような場所ではない様子が窺えました。
こうして期待と不安の入り混じった感情で初日を迎えることになります。

【2018年10月13日(土) 活動初日】

6:30に家を出て、閑散としたバスに乗り込んだ。乗客がある程度そろうまで出発せず、ドライバーの裁量でタイミングが決まるのがヨルダン式である。事前に終点であるバカアのターミナルの位置は調べていたが、こうしたバス事情に加えて、初めてのキャンプ訪問ということでどの程度時間がかかるのか見通しが立たない。

空席が徐々に埋まっていき、私が乗車してから10分後には出発した。早朝ということで渋滞もなくスイスイ進んでいく。
大きな遅れもなく、7:45にバカアのターミナルへと到着した。
しかし、そこに降り立った瞬間、今までヨルダン国内で味わったことのないような空気を感じ取った。ゴミや汚水がそこら中に撒き散らされており、特に何をするでもない男達が座り込んで、その地では稀有な存在であろうアジア人に目を向けている。
ほぼ約束の時間通りに、職場の同僚であるムハンマドさんが車でやってきて、サッカークラブの会場となる学校へと向かうべく車を走らせた。車内にはドライバー、ムハンマドさん、彼の長男、次男、そして彼の古くからの友人であるマフムードさんと私の6人が同乗している。

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(難民キャンプから離れた、山の麓にあるシリア難民が通う学校)

てっきり活動場所はキャンプ内かと思いきや、キャンプから車で10分ほど離れたところにその学校はあった。
ムハンマドさんに促され事務所へ入ると、休日にも関わらず数名の先生方が控えており、そこで挨拶を交わした。事務所では中国語で書かれた寄贈品がいくつか見受けられた。のちに聞いたことだが、台湾からのボランティア団体がこちらの学校の支援を行っており、時々学校に来ては台湾語教室などを行っているという。

この学校はバカアの地区内ではあるが難民キャンプの外にあり、平日はシリア難民の子どもが通っている。パレスチナ人の学校はというと、キャンプ内にあるUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が支援する学校へ通っている。バカアという地区に難民キャンプがあり、そこに住んでいるのはパレスチナ人だが、キャンプの外にはヨルダン人やシリア人も住んでいる。
そして土曜日にはシリア人の子どもと、キャンプ内に住むパレスチナ人の子どもが集まってサッカーを興じている、というわけである。
今後活動を続けていくなかで、のちにパレスチナ人だけでなくシリア人との繋がりもでき、シリア在住時や難民として逃れてきた経緯なども知ることになる。

8:30過ぎからサッカーの指導は始まった。全体の指揮はムハンマドさんが執り、彼の息子マフムードと私がコーチのような形で子どもの活動をフォローした。
この日のメニューは、最初に簡単なウォーミングアップをした後に基礎練習へと移り、最後に男女毎に試合をしてこの日は終了した。子ども達の実力には大きな開きがあり、一部の男児と大半の女児はサッカーのルールを把握していなかったが、トラブル等に発展することはなく純粋にサッカーを楽しんでいた。

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(サッカークラブでの活動風景)

サッカーが終わり、子ども達に別れを告げた後は学校の中へと移動し、事務所で職員同士の話し合いのような時間が設けられた。会話のすべてを理解することはできなかったが、学校での教育や活動に対して真面目に向き合い、熱い議論を交わしていた。
学校を後にしてからは、行きの車で同乗していたムハンマドさんの古くからの友人であり先ほどの学校で英語の教鞭を執っているマフムードさん宅にお邪魔し、昼食を頂いた。そこで会話をするなかで、彼自身もパレスチナ難民としてバカアキャンプへ移ってきたことを知った。

「私は1967年の第三次中東戦争の際にヨルダンに移ってきた。車なんてなかったからパレスチナから家族と一緒に歩いて逃げてきたんだ。当時のバカアは、今とは違って家も店も全くないまっさらな土地だった」

「この地区での生活は簡単ではない。1km四方の区画に25万もの人が暮らしていて、人口がとても多く、家同士の距離も近いから落ち着いた生活が送れない」

たしかにこの家に辿り着くまでの道中、徒歩5分程度の間で多くの住民(圧倒的に子どもが多い)を見かけた。街は碁盤状に狭い路地が入り組んでおり、間を住居がひしめき合っているような造りで、ゴミや排水が至る所に撒き散らされていた。それは決して良好な環境とはいえないものだった。
この日はまだ知り合って間もないことから深い質問は差し控えたが、住民の失業率や一般的な収入についてものちに聞くことになる。

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(国内最大規模のパレスチナ難民キャンプであることから、奥部に一人で入り込んだら何が起こるか分からない)

昼食を頂いたあとは、二人が土曜日の午後に活動している土曜塾に行って授業の様子を見学させてもらった。マフムードさんは英語の授業、ムハンマドさんはアラビア語の授業をそれぞれ行い、私はアラビア語クラスの見学兼副担任のような立場で滞在させてもらった。
この日来ていたアラビア語クラスの子どもは全部で6人、うち1人は足に障害を抱えており、知的にも軽度の障害も抱えている様子であった。その日の授業の様子を見て、識字のレベルが一般的な子どもと比較しても低いように感じられた。小学校4年生、6年生の子でもアラビア語の読み書きが十分にできず、1年生、2年生と同じ内容の授業を受けている。
授業が終わり、子ども達が帰った後にその疑問をムハンマドさんに訊ねてみた。

「キャンプ内の子どもはアラビア語を話すことはできても、読み書きができない子どもが一定数存在する。だからそういった子どものために土曜日に授業を開いている」

ヨルダン国内の就学率は91パーセントで、低位中所得国の平均が83パーセントであるのに対して、高い数字を示している。また、15歳以上の識字率は91パーセントを記録しており、一般的にヨルダンの教育レベルは近隣諸国と比較しても高いと言われている。
しかし、数字が示すようにそこから漏れる人も当然存在する。そういった困難を抱えている子どものために、見返りを求めず尽力している先生方の姿勢に感服させられた。

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(ムハンマドさんの手作り教材。ちなみにこの単語は「自由」という意味。)

15:00過ぎに土曜塾での活動が終わり、この日の全日程が終了した。
初めて赴いた難民キャンプでの一日は、あっという間に過ぎ去っていった。帰りのバス内でも、帰宅後も、この日の体験や住民の言葉が脳内を駆け巡っていた。
一日を通して特に印象に残っているのは、難民キャンプというとテントやプレハブが林立しているイメージを当初は持っていたが、実際には家屋や店がひしめきあっていて完全に一つの街を形成していたことである。インターネットで「baqaa camp」と画像の検索してみると、最近撮影したであろう画像から、昔のテントが軒連なっているようなものまで散見できる。

首都アンマンの中心地から30分ほど車を走らせた場所では、故郷への思いを馳せた難民達が過酷な環境下での生活を余儀なくされている。
1967年の離散から50年以上もの歳月を経て、彼らはどのような思いを抱えながら難民キャンプでの生活を維持しているのだろうか。

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