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透明人間

自分の輪郭が世界に溶け出していく。
初めてそう思ったのはもう10年以上も前のことだ。今ではすっかり自分の姿は透明になってしまって、他人からは見えなくなってしまった。自分ですら、何年も自分の姿を見ていない。駅のトイレの大きな鏡にも、雨上がりの水溜りにも、自分の姿を見ることはない。

原因は分かっている。

中学校のころだ。クラスメイトには幼いころから仲のいい友人がたくさんいた。でもいつからか、僕らの価値観はいくつにも分岐した。目には見えない「あの人たち」がいくつかできて、力関係が生まれた。
自分も「あの人たち」のひとつに埋没した。そのえもいわれぬ空気感に気持ち悪さを覚えながら。

人は変わっていく生き物だ。それ自体を否定することはない。むしろ喜ばしいことだ。ただ僕は、それぞれの価値観を尊重する世界で生きていたかったのだ。

このとき僕は、自分の何かを閉じた。心にさざ波を立てないように。
誰かに否定されたり、誰かを否定しないように、誰にも気づかれぬようそっと目を背けた。

次の日の朝、ふと目を覚ますと、右腕が透け始めていた。
それから今日まで、ゆっくりゆっくりと身体が透けていき、遂には自分ですら自分が見えなくなってしまったのだ。

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昨日の出来事だ。何気なくニュース番組を見ていると速報が流れた。著名人が亡くなった。自殺のようだった。自宅マンションで意識不明の状態で見つかったそうだ。恵まれた才能、周りが羨む成功があって、何が彼にそうさせたのか。

ふいに頭をよぎった。きっと彼は、自らの理想の追求の末に、自らとの対話の末に、人生の絶望を知ってしまったのだ。才能や成功などとは全く別次元の世界で。
これは、いつ誰の身に起きてもおかしくない話。明日自分にも起こりうる話。

生と死は対極にあるものではない。常に背中合わせなのだ。感情の揺らぎひとつで簡単に境界線を越えてしまう。本来、人間は不確かな存在である。


ふと我に返った。

そもそも自分は今、本当にこの世に存在しているのだろうか。
透明になった自分は、他人から認識されなくなった自分は、生きているといえるのだろうか。

肉体的な死ではない ”死” がこの世には確かにある。

他人と接することではじめて、自分の輪郭が形作られていくというのに。
涙が伝う自分の顔さえも、今はもう、見えないのだ。

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