見出し画像

「男らしさ」から降りたいのに降りられない

「男らしさにしがみつくのに疲れた」と心中でため息をついた瞬間があった。

この頃、前の記事で愚痴のように書いた通り、とても疲れている。仕事をまともに出来る精神状態ではなくなりしばらく休みをいただいた。おそらくこのまましばらく休職することになろうという局面にいる。

前の記事では、とても平たく言ってしまえば「女性属性にいても女性らしく振る舞えない自分は、それだけで客を不快にする存在なのではないか」という話をした。
今回はその記事で「男らしさに縋らないと男でないとみなされるにとどまらず女性とみなされる構図にも疲れた」と書いたことについて、掘り下げて愚痴りたい。今回も前の記事同様、構成などまともに考えずに書き散らすわけだが、今の自分にとってはその程度の書き方が限界であり、しかし言語化することが非常に重要でもある局面なのでお許し願いたい。

「男らしさ」というものは、男性として生活している人の一定数にとっては、無いとみなされると「男らしくない/女々しい」と認識されることがあり、そういった認識を受けることを恐れてしがみつくものである。
なんとも窮屈なものだと感じながら、一方で俺から見ればその構図は「男らしさを持たなくとも「男でない」とは言われないのが羨ましい」とも感じてしまう。 

何故か。俺は不本意に女とみなされて社会生活を送っている人間だからだ。自認が女でないことを口頭で伝えるだけでは誰もそのようには扱ってくれない。行動で示す、つまり「男らしさ」を身につけて主張していくことで、初めて一部の人からのみ自認通りに扱ってもらえるのである。大半の人は相変わらず女として扱ってくるが、それでも「女らしくない女」と認識されるなら多少はマシである。
もし「男らしさ」を身につけなければ、自分の場合は「男らしくない/女々しい」ではなく「女である」というレッテルを貼られる。一般に「女々しい」とされる行動を避け必死になる行為は、きっと「男らしさ」に必死にしがみつく男性と同様なのだろう。が、上手くしがみつけなかった時に落ちる場所がまるで違う。否定は否定でも、俺のような立場の人間は、自分の地位や権力どころか存在そのものを無にされるのである。

「女である」ことが出来ないから、やむなく「男らしさ」にしがみついて男社会で仕事をしてきた。本当は、社会で女とみなされる立場にいるならば女らしい振る舞いをすると、誰の神経を逆撫ですることもなく仕事が回る。そんなことは重々わかっている。
接客を伴う仕事の中では男は、必ずしも男らしくなくて良く、むしろ男らしくない方が優しいと言われ高評価を得ることもある。無論「男らしさ」が行き過ぎてあまりに乱暴なのはいただけないにしても、男には女と比べればずいぶんと多様なバリエーションが許されて、バリエーションの中のどこにいても男でいられる。
女は優しく穏やかで出過ぎないのがデフォルトで、そこから外れると叩かれる。許容される像の広さが、男女で圧倒的に違いすぎる。

前の記事で触れたことと重なるが、元々は優しい接客をしたかった俺なのに、ただ人として優しくあろうとしただけで「女らしさ」ゆえの優しさと錯覚され、悪い客に良いカモと認識されてサンドバックにされる。方針転換をし「女らしさ」の象徴である「優しさ」を前面に出すことを止めれば、俺をむやみに女の枠に押さえ込みたい層から高圧的に絡まれるトラブルが多く発生する。

どんどん疲れていく中でちょうど読んだ本があった。それが、グレイソン・ペリー著『男らしさの終焉』である。https://www.instagram.com/p/Ck8ZC8FvtVZ/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

読書記録をしている自分のインスタ投稿を貼ってみた。投稿中の本の感想が半分くらい自分の話で占められているのが申し訳ないのだが、この本のおかげで自分の苦しさの所以が見えてきた。

それで初めて「男らしさにしがみつくのに疲れた」と自覚した。
「男らしさ」から降りて等身大で生きていたいのに、そうはできないから苦しくなっていることを自覚した。

もう一刻も早く「男らしさ」という概念も「女らしさ」という概念も消え去ってほしい。とは常々思ってきたが、本書を読んだ後だと、もし「男らしさ」の内容が多様になり現状「女らしさ」と呼ばれるものまで含まれていけば、相対的に「男らしさ」も「女らしさ」も消えていって良いのかもしれないとも思う。
どちらのアプローチにせよ、現状の「男らしさ」は本当にとっとと終焉してほしい。そうしないと俺は「男らしさ」から降りられない。

しかし「男らしさ」を利用している人間が他力本願でいるのもおかしい。まずは自分で降りるのが筋ではないかという声が頭をよぎる。
だが自分は先陣を切って降りてしまおうとすると、女でいなくてはいけなくなるのだ。元よりこれが耐えられないからやむなく「男らしさ」にしがみついているというのに。
それに俺が降りたところで、この社会の中の認識ではノーマルな女になった人間が増えるだけで、決して「男らしさ」に囚われない男が増えるわけではない。全然戦力になれないじゃないか。

だからやはり、既存の「男らしさ」に基づいた男社会の中で先陣を切っている人が降りていくのが一番効果的だし、そんなことはよほど非現実的だから、先陣を切っている人たちを残して他の男性陣が多数で降りていくのも良い手かもしれない。
とにかく等身大で生きていたい。男性陣もみんなで降りれば怖くない。降りるという考え方が怖いなら、新たな「男らしさ」に乗り換えたらいい。新たな「男らしさ」としてグレイソン・ペリーは「優しさ」を推していた。みんなで等身大の生き方をしようよ。

……はぁ。気づけば愚痴が男性陣への呼び掛け文になってしまっていた。
こんなに苦しいのに、苦しさから解放されるために自ら動くことは出来ないのだろうか。

自ら動くことが出来ないから苦しいんだよな。
社会の認識が変わってくれるのを待つしかないんだよな。そう簡単に変わるわけないのにな。だから休職するくらいには辛さが積もり積もるんだ。

せめてこの記事を公開して、1人でも多くの賛同者が現れてくれることを願うこととしよう。


現状、自分の生き様や思考を晒しているだけなので全記事無料です。生き様や思考に自ら価値はつけないという意志の表れ。 でも、もし記事に価値を感じていただけたなら、スキかサポートをいただけるとモチベーションがめちゃくちゃアップします。体か心か頭の栄養にしますヾ(*´∀`*)ノ