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【#コーヒーを飲みながら】#4 社会人として当たり前、なことについて考える

今日は一段と暑い日でしたね!お疲れ様です。

社会人として当たり前っていう言葉について
思い出すことがあったので、今日はその当たり前について語りたいと思います。



「社会人としてあたりまえでしょ」


この言葉になんど踊らされたことか!


まだ社会に出てまもない新人の頃、
社会人として当たり前、かどうか自分で自分をどこか確かめているところがあった。

仕事で辛いことがあっても、社会人としてできてない自分が悪い、とか思って自分を矯正しようとしていたものだ。


仕事で辛いことがあって誰かに相談すると、「その職場やばい」と言われたこともあったが、だからと言って違う職場を選ぶという選択まできなかった。

「社会人として当たり前なことが、うまくできないのは、あなたの問題」

という言葉が、なぜか浮かんでは消えて頭の隅にこびりついていたし
完璧な自分でありたい、とその頃は強く思っていたからだ。社会に認められたかったからね。


だけど、最近になってそんなことはないと思えるようになった。

たとえば、当たり前ではないこと:

・部下からの報告がないことに苛立ち、バインダーをこれみよがしにキーボードに叩きつけてる上司
・女性が当たり前のようにコーヒーを入れる文化がある。男性は絶対やらない。
・自分のデスクの引き出しが開いてた、ということを知らせるために、わざわざデジカメでこっそり撮って自分の部下を通して注意してくる上司
・退職の引き止めに7時間かける上司
・カラスがたとえ黒くても、上司が「白」と言ったら「白」というという言説


いま思えば当たり前、ではないことがたくさんあったが、二十代のときは当たり前、と思い込むようにしていた。

けど、そんな社会で働くことを心底嫌だ、と思っている自分もいた。

頭では違和感とか変な価値観と思っていることでも、うまく線引きができずに自分の一部に無理やりしようとしている自分がいた。

結果的に、なんでこんなことが許されてる社会なんだろう。と自分の世界が恐ろしく殺伐としているように思えた。


だけど、その反動は体にでてしまい、私はしばらく働けなくなった。

復帰する過程で、

・自分の感覚を信じること
・自分の目でしっかり物事を見て意見を持つこと

主にこの二つの価値観を大切にする生活を送ってみたら、案外自分で物事の価値や良し悪しを自分で決めることができるとわかったし、どんなに現実、ありえないことがたくさんあっても、自分の世界は自分で作ることができると最近になって気づいた。


新人のころの自分は、まだうまくやっていけるか不安で、周りから○がもらえることを一番にして生きてたんだよね。

だから完璧であろうとしたのかも。


今は、自分から○が出るかどうかを大切にしている。


この視点をもっているだけで、案外過酷な環境下でも自分を携えて生きていける。


そうすれば仕事をやめずに転職もできるし、案外粘り勝ちで同じ会社でも自分の快適な環境が手に入ったりするものだ。


当時の当たり前の世界とは離れたところにいるけれど、今の方が何倍も幸福感は高い気がする。

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