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台湾の旅-台湾の歴史を考える-

2泊3日で台湾に行ってきました。コロナ前から海外に行っていなかったので、なんと5年ぶり!!久しぶりの海外にわくわくしました。


台湾の旅の流れ

飛行機で2本から3時間、時差1時間と、思った以上に近いなと思いました。
訪れたのは、パワースポットである「龍安寺」、「台湾総督府」、中華民国初代総統の蒋介石に対する哀悼の意を込めて建てられた「中正紀念堂」、千と千尋の舞台として有名になった「九扮」などに行きました。

おいしいものを食べ、足つぼマッサージを2回受け、ぐるぐる歩き回り、とても充実した旅になりました。

蒋介石と憲兵
中正紀念堂
自由を求めた人々
九扮

台湾の食事

今までいったところの中で、一番おいしかったです。
出汁もでていて、生姜など身体があたたまる体によい食材をつかっていて、最高でした。
100年以上つづく漢方薬局に行き、なつめを大量に購入し、毎日食べてます!(目指せ楊貴妃!笑)

飲んだ中で一番、タピオカミルクティ
出汁のきいたホルモン入りの細麺
絶景で楽しむ茶菓子
朝ごはん
小籠包と台湾ビール
小籠包

台湾とは?

台湾の地図

台湾の基礎情報


人口 約2300万人
面積 3万6千平方キロメートル(九州よりやや小さい)
言語 中国語、台湾語、客家語等
中国語とは異なる「台湾語」は、福建省の方言から始まって、その後日本の統治時代など長い歴史の中で少しずつ人びとの生活にあわせて変化していった言語。
原住民の言語、客家(はっか)と呼ばれる人たちの言語など多様な言語がある。

台湾は「国」なのか?

台湾には「中華民国」という政府があり、その政府の下で中国とは違う政治の仕組みがあります。通貨やパスポートも自分たちのものを持っています。

国家の資格要件は、「国民」「領土」「政府」、そして「他の国家と関係を結ぶ能力」の4つ。台湾には、「領土」や独自の「政府」があり、その領土内に暮らす人、要は「国民」もいます。ただ、台湾こと中華民国は1971年に国際連合を脱退しました。政府レベルの外交関係がある国も12カ国しかありません。つまり、台湾は、「他の国家と関係を結ぶ能力」が不足しています。このような状態の国は「未承認国家」となります。

外交関係のある国(計12か国)
大洋州(3か国) ツバル、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国
欧州(1か国) バチカン
中南米・カリブ(7か国) グアテマラ、パラグアイ、ハイチ、ベリーズ、セントビンセント、セントクリストファー・ネーヴィス、セントルシア
アフリカ(1か国) エスワティニ

台湾の政府の名前は「中華民国政府」で、台湾の憲法は「中華民国憲法」です。台湾でみんなが国旗や国歌と呼んでいるものは中華民国が中国大陸時代から持ってきたものです。

台湾(中華民国政府)の国旗

台湾の歴史

台湾については、よく知りませんでした。

「台湾は国なのか?なぜ日本は認めていないのか?」「そもそも中国と台湾の違いは?」

などいろんな疑問を持っていましたが、しっかりと調べたことがありませんでした。

社会の授業の中では、「中国の内戦が終わり、勝った共産党が中華人民共和国、負けた国民党が台湾に逃れた」という簡単な説明をしたのみで、ほとんど触れていませんでした。

日本も大きく関わっていた、現在もかかわりが深くあるにも関わらず、歴史を知らず恥ずかしく思いました。

日本の統治前

かつてポルトガル語で「麗しの島(フォルモサ/Formosa)」として知られていた台湾島にはマレーポリネシア系の台湾「原住民」が住んでいました。

17世紀になると台湾に漢民族が移住し始めます。このころ、台湾島はオランダやスペインによる植民地となり、後に清国が併合しました。

その後、清国と日本の間で行われた日清戦争で日本が勝ったことで、台湾は第二次世界大戦終結まで日本領となりました。
このときまでも台湾に住む居住者のほとんどが台湾原住民だったと言われています。

日本の統治時代

まず、「台湾総督府」を設置しました。
台湾総督府:1895年台北に設置。台湾統治のために置かれた官庁のこと

台湾総督府

日本から派遣される台湾総督を最高権力者として、統治を始めます。台湾の住民は、日本の植民地支配に対して大々的に抵抗運動を展開しました。こうした動きに日本は軍の力を用いて制圧します。

植民地政策において最も力を注いだのが、同化政策でした。日本式の神社を建造、日本語教育も行い、日本での教育と同じように「天皇を元首とする日本臣民」という意識を植え付けます。当時の教育を受けてご健在の台湾人は、日本語を流暢に話すことができます。「皇民化政策」は歴史の授業で扱いました。

外来政権である中華民国の占領

中国大陸は1644年から清国が支配していました。その後、漢民族の革命勢力(孫文)によって内部崩壊し、1912年に中国の南京に「中華民国」が樹立され、国名が「清」から「中華民国」になりました。

第二次世界大戦後、中華民国では「中国国民党」「中国共産党」の2つの政党が国内統一をめぐって内戦を繰り広げるようになります。
負けた国民党は台湾に逃れ、中国大陸への攻撃をつづけました。

1949年10月1日「中華民国」に代わる中国の国家として「中華人民共和国」を樹立し、中国国民党による「南京国民政府」は崩壊しました。

その後も「中華民国」の中央政府を自任する「台湾国民政府」と「中華人民共和国」の対立は続き、本格的な武力衝突は1955年まで行われ、その後も散発的な砲撃戦が起こっていました。

「台湾国民政府」樹立後も、「中華民国(台湾)」は、国際連合における「中国の代表権」を維持し続け「中国の国家」としての国際承認を得ていましたが、1971年のアルバニア決議によって、国連から正式な国家と認められなくなってしまったのです。

1972年以降、日本国政府は中華民国を国家として認めていません。しかし、台湾がどの国に属するかについても言明していない、つまり台湾が中国に属するとも言っていないわけです。現在も国交がありません。

自由を求めて

内戦をし、敗れた蒋介石率いる国民党は台湾に逃れ、中華民国という外来政権が正式な手続きをとらず勝手に統治するようになりました。

台湾人からしたら、いきなり中国のひとつの政権がわけもわからないまま、統治するようになるし、蒋介石は独裁で、激しい言論統制や弾圧、拷問、処刑など恐ろしいやり方で人々の自由を奪うという。
私が生まれたくらいまで続いていたとは信じられないです。
二・二八事件など、信じられないことが戦後に、日本の近くでおこり、どれだけ多くの方が命を落としたのか。怒りが込み上げました。


ニ・二八事件
1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、中華民国国民政府中国本土から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。  【Wikipediaより抜粋】


ですが、蒋介石に対する哀悼の意を込めて建てられた「中正紀念堂」にいくと、人々の戦いの歴史も詳しく書いてあった一方で、蒋介石をめちゃくちゃたたえてたし、でかすぎる銅像を憲兵が微動だにせず、四六時中守っていたし、、不思議でした。

台湾の人々は、自由を求めて命をかけてまで戦い、自由を勝ちとってきたのだと、、自由って尊すぎると思いました。
民進党に変わったからといって、中華民国政府が統治しているのは変わらないから、台湾独立運動が続いているのですね。いろんな考え方があるから一概にはいえませんが、、、

自由を求めて

旅のまとめ

おいしいごはんが食べたい!台湾近いし、面白そう!と軽い気持ちで行った台湾でしたが、行ってみて好きになりましたし、いろんなことを考えるきっかけになりました。

台湾有事や熊本にできた台湾のTSMCという半導体の会社により、バブルのようなことが起きているなど、台湾との関わりは日本にとって大きいからこそ、知る必要があると思いました。
ニュースに関心をもち、注目していきたいです。

改めて、海外に行きたい欲が湧いてきたので、今年からがもっと海外に足を延ばそうと思います!
週末海外もありかもしれません。まずは韓国からかな?楽しみです。

歴史については、私が学んだことを書いたので、もし違うことがあれば教えてください。すみません。

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