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哀しみはあっていい。「哀しみはうつ病ではない」『いやな気分よ、さようなら』第九章

 九章です。今までの理論をつかって、今度は具体的かつ実践的に「現実的なうつ病」について触れていきたいと思います。もしあなたがうつ病なら、今までより自分におこっていることと近いところにクローズアップしていくはずです。

 歪んだ考え方がうつの原因だというのはわかりました。でも問題が現実的な場合はどうでしょうか?認知療法の講演で最も多い質問だそうです。うつを患う人の多くが同じように感じ「現実的」な問題を挙げてみましょう。

破産
老齢
慢性的な病気
末期的な病気
愛する人との死別…etc

まだまだありますが、実際このようなことが起こってはうつになっても仕方ないと思うのではないでしょうか?しかしそれは間違いなのです。

このようなことでは「現実的うつ病」にならないのです。

これ(↑)が今日のポイントです。

問題は好ましい嫌な感情と好ましくない同じような感情とをどう区別するかなのです。

「健全な哀しみ」とうつ病の違い?

 哀しみは当たり前の感情で、喪失や失望のような嫌な経験に対するごく当然の認知から起こってきます。

 しかしうつ病は病気であり、つねにいくらか歪んだ考え方になります。うつ病も哀しみも自分の大切なものを失ったときにおこるものです。

哀しみは歪んだ考え方ではありません。感情の流れであり、時とともに過ぎ去るもので、自己評価をさげるものではありません。もし純粋に嫌なことが起こったら、もっぱら考え方と認知から感情は沸いてくるのです。
この現実的問題もまた、それが原因でうつになるのではなく、そのことに対しての歪んだ認知がうつの症状を生んでいるといえるのです。その歪みをなくすことで現実的問題の苦痛もずっと少なくなるはずなのです。

だから、現実的問題を抱えた人間がうつ病を避けがたいとする考え方は非人間的でありナンセンスと言えます。いくつか実例を見てみましょう

生命の危機

本には末期のがんの女性患者の例がでています。彼女は医師に末期がんを告知されて以来、今までしていたことをすべてやめてしまいました。彼女のうつ病は避けられなかったのか?自動思考を見てみると、それは身体的には健康なうつ病患者とまるでかわらなかった。彼女のうつ病もまた歪んだ考え方の産物であったのです。バーンズは彼女に、生まれてから死ぬまでの自分の「価値」をグラフにすることを指示しました。すると

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 彼女は人間としての価値を年齢に関係なく一定に85としました。

 次に同じように生産性の評価グラフもつくってもらいました。

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彼女の生産性は三十歳をピークとして山型の曲線となりました。

ここで彼女は二つのことをひらめきます。

①病気で生産性がおちていても、自分と家族にわずかだが重要な方法で影響が与えられていること。「全か無か思考」が彼女を無力にしていた。

②自分の価値はどの年齢においても一定しているということ。つまり自分がどれだけのことを成しえたかと自分の価値には関係がないということがわかった。

 これによって彼女のうつ病は消えました。がんが治ったわけではありませんが自尊心を取り戻した彼女は今までの感じていた絶望的な世界を別のものに変えたのです。

身体の喪失

 身体的なハンディキャップもまた「現実的な問題」でしょう。これは夫の身体が病気のために不自由になった妻の例です。彼女は、自分たちにはできない、二人で歩いたり、プールや海で飛び跳ねているカップルを見ていると涙が出てくると訴えました。そんなことも私たちにはできないのだと。

 バーンズは当初これを現実的問題と考えました。なぜなら我々が何気なくしていることができないからです。

 どんなことにも限界はあるものです。ではそれで我々はみな悲惨な運命にあるのでしょうか?こう考えることでバーンズは彼女の認知の歪みに気が付きました。なんだかわかりますか?三章の認知の歪みを確認してみましょう。

彼女の認知の歪みは「心のフィルター」でした。自分にできないことを一つ一つ選びだしてくよくよしていたのです。

 バーンズは「夫と二人でできることをすべてリストアップすること」を彼女に課しました。

できないことに目を向けるより、できることに目を向けさせたのです。すると、彼女は30秒もしない間に6つも二人の楽しみを挙げたのです。こうして、彼女は回復していきました。

こんなことでよくなるわけないと思いますか?ならばまずは試してみることです。試してみてから効果的か否か判断すればよいのです。

失業

仕事で成功して初めて、その人の価値があるとの観念が広く受け入れられている世の中で資格をなくしたり失業したりすると、人はたいていひどく自信を無くすものです。失業もまた「現実的問題」といえるでしょう。

 この例に出てくる男性は、自分に厳しく他人には寛容な子持ちの55歳です。彼は勤めていた会社の経営をめぐって喧嘩別れするように会社を辞めました。それからというもの、いくつかの仕事に就いたものの満足な収入は得られませんでした。経済状況が苦しくなるにつれ彼の抑うつ気分はひどくなったというわけです。

 彼は、他人が商談に失敗しても「これで終わりじゃない。くよくよするな」という割に自分のこととなると、「僕は敗者だ」というのでした。つまり二重の基準をもっていたのです。

 後の章で出てきますが、仕事についての問題はうつとかなり関係が深いように思います。僕もこの男性と同じような二重の基準を持っていました。だからずっとつらかった。今もつらいです。でもこれをみてほんの少しですが楽になったというか、自分を許せた気がするのです。とにかくこの男性の言っていることに親近感がわきましたね。

 面接の中で彼は、自身の考えが「全か無か思考」による、非現実的な考え方であることを気づいていきます。

 バーンズは彼にダブルカラム法をつかって自分が無価値で情けない存在に感じるときに浮かぶ考えをかき出させ、それに対して合理的な反応を「他人」にいうように書き込ませました。彼は、自分を責めることはなんの生産性もないし、非現実的であることに気が付いていきます。

 彼は経済的にうまくいかなかった数年を経て自分に「敗者」のラベルを貼っても何の意味もないことに気が付きました。彼の無価値感は生活の悪い面ばかり見てしまう「心のフィルター」と、うまくいった多くのことを見落としてしまう「マイナス化思考」に基づいていた。「もっといろいろなことができたはずだ」と考えることで不必要に自分で腹を立てていることがわかり、経済価値は人間としての値打ちではないことに気が付いた。

 そうですよね?「もっといろいろできたはずだ」という言葉は、たとえあなたがビルゲイツや孫正義並みの大金持ちの実業家になっても言えることです。青天井の言葉なのです。

 彼が新しい仕事を探す間、次のような文章を毎日読むようにしていたそうです。実は一年前、無職になった僕もこの表を毎日読むようにしていました。その時はこれを読むことの意味なんてよくわからなかった。でも少し良くなった今は、この表の意味が分かるような気がしています。

なぜ自分が無価値ではないか

・自分と他人の健康に何か関与できれば無価値ではない。

・何か自分にできることが、良い結果になれば無価値ではない。

・生きていることが一人の人間にでも影響を与えれば無価値ではない・
(一人の人間というのが自分でも構わない。)

・愛情、理解、友好、激励、社交性、助言、慰安を与えれば無価値ではない。

・自分の意見、知性を尊重できれば無価値ではない。もし人が褒めてくれれば儲けものだ。

・自分の尊厳、威厳を保っていれば無価値ではない。

・従業員の家族の生活の助けになれば無価値ではない。

・自分の生産性や創造性を通して顧客の役に立つよう最善を尽くせれば無価値ではない。

・今の環境での私の存在が、他人に影響を与えるのならば無価値ではない。

・自分は無価値ではない。大変に価値があるんだ!

 本にはほかにも例がありますが、もう出す必要もないでしょう。なぜなら、どんな現実的問題の哀しみも、それが歪んだ認知からくるものか、健康的な哀しみかを区別できれば、たとえうつの症状がでても回復していくからです。もっと例を確認したい場合は実際にこの本を手に取ってみましょう。

 哀しみがないことに越したことはないかもしれません。しかし、哀しみはなくなりません。認知療法は哀しみを否定するものでも哀しみをなくすものでもありません。ある意味ありのままの健康的な哀しみを受け入れることで、人生を豊かにするものでさえあるのです。

以上九章でした。

まとめ

どこまで話がすすんでも、結局は認知の歪みに帰っていくという論法なのです、この本は。徹底的に考え、自分を見つめなおす。その歪みを正していくものなのです。自殺するということはその拒否なのかもしれないなと、ふと思いました。

 次回は「憂うつの根本的原因」についてです。


最近、具体例などがでて、まとめるのが難しく、ちょっと記事がとっ散らかっているのを自覚しているので、全部紹介した後で少しずつブラッシュアップしていかないと・・・いや、いけたらいいなぁとおもうのでした。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')