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狼心狗肺ーー必ずしも人間になれないから、赤子を「可愛い」と思えない

(966字・この記事を読む所要時間:約2分 ※1分あたり400字で計算)

【狼心狗肺】

[日:狼心狗肺(ろうしんこうはい、ろうしんくはい)]

ピンイン:láng xīn gǒu fèi
意味:人が狼の心と犬の肺を持っているかのように残忍であること。

『必ずしも人間になれないから、赤子を「可愛い」と思えない』

 多分、私の心は歪んでいると思う。

 子猫や子犬、鳥の雛や稚魚、植物の芽を見た時でさえ「可愛い」と思えるのに、人間の赤ちゃんや子供を見てもそのような感情がわいてこないのだ。

 自己分析の結果、こうなってしまったのは一種の「不安」があるからという結論にたどり着いた。


 子猫は成長したら、猫になる。 
 子犬も大きくなったら、犬になる。

 鳥の雛は鳥に、稚魚は魚に。
 芽は伸びて、大きな木に。


 でも人間だけは、育ったら必ずしも人間にはならない。

 私はこの不確定性に対する怯えより、どうしても赤子を「可愛い」存在として見られないのだ。


 うわべだけで「人の形」をしていれば人間と呼べるのなら、人間の赤子も動物や植物同様、育てばそのまま大人の人間になっていく。

 ただ、それだけでは完全な人間と言えないのではないか。

 人間である為には、「人の形」だけでなく「人の心」も備わっていなければならないのではないか。


 中国語に「畜生不如」という言葉がある。

 人を見下す際に言う言葉であり、主に卑劣な行為をした相手を「人でなし」と貶す時に多く使われる。

 「畜生」というのは、文字通り「獣」のこと。
 「不如」は「~にも勝らない」という意味だ。

 生まれた時は人間の姿であっても、成長するにつれて「畜生不如」な「非人」になってしまうことだってある。


 だから「油断してはいけない」と思ってしまうのか、私は赤ちゃんや子供に対してもしっかり一端の人間として扱う。

 もちろん大人ではないので、子供一人一人の人生経験や知識に合った接し方はするが、冒頭で出てきたような「可愛い」的な感情は私には無い。

 人間に対するからには、幼子相手だとしてもただうわべで「可愛い」とだけ思うことにとどまってはいけないと思っている。
 その子の心を見つめ、内側を触れ、きちんと人間としての交流をしなければならない。


 「そんなに深く考えなくても」と言われそうだ。


 そうかもしれない。

 考え過ぎかもしれない。


 ただ、「どんな極悪非道な人でも、必ず赤子の時期があった」と思うと、心が締め付けられそうな気持ちになるのだ。

 だから今でも私は、赤子を「可愛い」と思えない。


 こんな私の心は、やはり歪んでいるのだろうか。

📚但し、広い意味で「人間は皆可愛い存在」だとも思っている


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