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52ヘルツのクジラの海外旅行依存

2020年までの私は狂おしいほど台湾に飢えていた。

決して潤うことのない砂漠の大地のように、常に台湾を欲していた。
常に台湾に行きたかったし、定期的にいかないと煮詰まっていた。
台湾で何をするかと言えば、ただただ市場で働き、会話をする人々の日常を眺めたり、ただただ古跡や緑の中でぼおっとするだけだったのだけど、現地の人とのなにげない会話や表情に癒され、台湾にいるときだけが体の力を抜けると感じていた。

月日が流れ、2024年。
私は会社を辞め、学生に戻り、卒業。
久々に長期で台湾に行ってみようと航空券をとった。

SIMカードや宿、移動時間や乗り継ぎ、保険、訪問先の情報、普段から飲んでいる薬や化粧品の持ち込みの可否や気温など細々と調べものをするうち、動悸がするのを感じた。そしてその夜、何度も何度も寝返りを打ちながら、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまった。

どうして?おかしいな…。力の抜き方が分からない。

さも起き抜けのようなふるまいをしようと思っても、顔が固くなって動かない。おかしいな?自然な表情ってどうやるんだっけ?

改めてその時の自分を観察するとワクワクよりも不安、自分の気持ちよりも周囲へのあれこれの為に「行かないと」という思いのほうが勝っているのでは?との疑問が湧いてきて、急遽フライトをキャンセルした。

残念な気持ち10%、ほっとした気持ち90%。でもその自分の反応を見て「あぁ、自覚している以上に負担だったんだな」と思い、キャンセルを決めた自分の決断は良かったのだなと感じた。

ただどこかに自分の能力が下がったような思いもあり、悲しくもあった。とりあえず一人になりたい。戸惑いの中、自室に戻り最近買った本に手を伸ばした。

『52ヘルツのクジラたち』。
虐待シーンを読みながら会社員時代の光景が頭の中によみがえる。

当時、私は上司が流したデマにより、社内で透明人間と化していた。挨拶をしても、何をしても私から発した言葉はその空間に吸い込まれて消えていく。私は、無視をされている事への怒りというより、自分がまるでこの世に存在していない事に自分で気づけていないのではないか?という不安に駆られていた。

この世に存在していることを土下座で謝罪するよう求められ、連日会議室で上司に向かって灰色のカーペットに頭をこすりつけた日々。

そんな中で上司が見せてきた古い写真。写真の中には涙やよだれや吹き付けられた消化器の中身でボロボロになって膝から崩れ落ちている1人の少年とその周りで複数の綺麗な学ランのまま勝ち誇った笑顔でおさまる少年たちが収まっていた。その笑顔の少年たち中に見慣れた顔があり、それは当時まだ高校生だった上司だった。

写真を見せてきた意図は「ヤンチャな俺、格好良いだろ?」だったのか?それとも「俺に逆らうとこうなるぞ」だったのか、その真相は永遠に分からないし、分かる必要もない。

とは言えあのシュールすぎる毎日の中、最初は「土下座は形だけ」と自分に言い聞かせて形式的にやりすごそうとしていたのが、連日続くうちに、段々本当に「私が存在している事が申し訳ない」と思うようになり、言われるがまま「消えなくちゃ」「もうこんな日々から逃れられるのなら消えてしまいたい」との思いでいっぱいになり、頻繁に「痛くない死に方」のキーワードで検索するようになっていった。

確かに当時の私は食事ものどを通らず体調も最悪で、通勤中に頻繁に倒れていたから、その意識を失ったタイミングで自分の知らない間に死んでしまって、周囲から物理的に見えていないという可能性も無くはなかった。

時は流れコロナ禍を経て会社を辞めて心身の調子が戻る中、いざ改めて渡台しようとした途端訪れた異変。それは台湾に対する距離感のバグの調整だったように思う。

幸い、異変はその後家族とのなにげない日々の中で治り、身体に柔らかさも戻った。

改めて考えると、会社員時代、私は全ての時間を仕事に意識を注ぎながら、合わない社風の中で人間的なものに飢えていた。日本語という共通言語を使っているのに嚙み合わない会話。そんな時間にまみれる中で、たとえ片言の外国語でも台湾で交わす本質的で人間らしい会話と人間らしい生活に飢えていた私にとって、その供給源が台湾だったのだと思う。

噓のうわさが蔓延し人間不信の中、どう立ち回るのか。どうすれば誤解は解けるのかを考え続ける日々は緊張感が高く、相対的に文化の異なる外国で過ごす時間のほうがまだ緊張感が低いと感じていた。そんなバグがこの4年の穏やかな生活の中で修正され、捉え方の変化により旅行の準備が気づけない負担となり、あのような異変が起きたのだと思う。

数時間後、読了した本を置く。

この4年の間に鳴き声の周波数が変わった。
人生の第2章の終わりと第3章の始まり。
『52ヘルツのくじらたち』的に言えばそういうことが起きたのかもしれない。

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