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障害者支援の闇とこれから必要な事を考えてみた

以前勤めていた就労継続支援の施設は、もともとはご自身が発達障害を持つ方から、「身内が就労継続支援施設を立ち上げて経験者を募集をしているからおいでよ」とのことでの紹介だった。

しかしいざ蓋をあけてみると、そこでは利用者の権利擁護に関する法令や実践に関する知識もなく、実際は名義貸しによる素人集団なのに、知識や実践方法を身につける気もなく、完全に私1人に対人支援や外部との接触を丸投げする形での人員配置が行われていた。

同時に男尊女卑の考えも非常に強く、その空気感の中で長年勤める事は難しいとの判断から、私は早々に退職を決意するに至った。

それで、退職の際、入社にあたり声をかけてくださった方にも事前にお話をすべきだと考え、連絡をとった。

結果、なんとなくモヤっとした気分に陥った。でもそもそも楽しい話題ではないわけで、それなりの覚悟をもって電話していたこともあり、その時は「まぁそりゃモヤっとするわな」程度の認識で、リアルタイムにモヤりの本質を言語化はできるほど、客観的に分析できていなかった。

✨でも最近、あの退職時に感じたモヤモヤの正体について少し気づいたことがある。✨

もともとその仕事を紹介してくれた方とは、ファシリテーションのワークショップで知り合って、私は生徒、その方は講師という関係性だった。

その方はご自身も発達障害である事を生かして、ピアサポートの立場から障害者の権利擁護の活動や大学院での研究もされていた。

そしてその方の主張は「自身も発達障害で、他人の気持ちをおもんばかることができない。健常者はそういった障害者の特性を理解した上で、障害者だからといって特別視をせず、障害者一人ひとりの個性を見て、個別に配慮をし、存在を丸ごと個性として認め、生かせる環境を提供しつつ、差別をせずに接するのがインクルージョンである。このインクルージョンを数少ない論理的に話せるピアサポーターとして、もっとこのインクルージョンを世に浸透させるべく活動せねば」という考え方に基づいていた。

そういう考え方や活動に関して、私も一部違和感がありつつも「当事者の視点からすると、なるほどそう考えるのね」とそれなりに理解もできたし、時間外で無給でも大学院のゼミに参加するよう言われれば、指示だし、時間の都合もついたし、大学院のゼミにも興味があったので、知的好奇心も満たせるサービス残業として参加していた。でもそれはあくまでも私の場合。

本音の一般論としては、例え支援者であったとしても、人間である以上、快不快の感情は自然に湧いてくる。支援をする過程において、例え嫌な気持ちになってもそれは障害のせいで人格のせいではないと頭で理解していても、気持ちの上ではモヤモヤする事は当然ある。それは自然な事だと思う。

だからそのモヤモヤする事は否定されるべきでは無い。寧ろ否定される事で、更にモヤモヤしている支援者が私が知るだけでも両手以上居る。「あぁ、モヤモヤしているなぁ」というモヤモヤの存在を許される場である事。それが支援者の心理的安全にとってとても大事だと私は感じている。

障害だからできない事はある。そこを補うのは当然だ。でもそれ以外は同等に扱い、上下関係を作らない。そして個性や資質が一人一人異なるのは、障害者だけの特権などではなく、本来なら全ての人が当たり前に尊重されるべき人権と同義。このことはとても重要な観点だと私は思う。

障害が免罪符として機能して、障害者が誰かの心や身体を傷つけたり、支援に対し金銭を求めるのは不謹慎だと主張したり、ボランティア精神を逆手にとるなど、周囲の人の時間を奪ったりや貰えるはずの賃金を出さなかったり「差別」を盾にとることで好き勝手に周囲を振り回したり、ぞんざいに扱ったり、過度な支援を求めることなどを肯定して良い理由にはならないと私は思う。

障害があるからといって、必ずしも善人とは限らない。健常者も時に悪人にも善人にもなりうるように、障害者も同じ。健常者で時々不倫する人がいるように、「五体不満足」の乙武洋匡さんだって、不倫した。ただそれだけの話なのだ。

私の考え方は、もしかしたら情が薄くてドライなのかもしれないけど、「障害者のわがままと必要な支援や権利擁護」、「ニーズとデマンド」「雇用者側の権力の行使と労働者の人権」との境界線はある程度守りたい。それこそ「障害者を一人前の人間として扱うこと」であり、本来あるべきインクルージョンだと考えている。

その辺の考え方が、私とその仕事を紹介してくださった発達障害当事者の方&その家族であるである雇用主の方との間で大きな認識の違いがあり、その溝を埋めきれないと直感的に感じたから退職を選んだのだ。

私が再び大学に入り直して心理学を専攻したり、職場におけるメンタルヘルスマネジメントや通信の専門学校生として精神福祉を学んでいる理由はまさにそこにある。

障害者本人の人権も守りながら、と同時に援助する側の心身の健康も当然守られるべきであると私は考えていて、今その部分がまさに手薄になっていると考えている。

実際、先日コーチングのワークショップでファシリテーターをした時、多くの障害者と、支援者の方が、私のブースにも訪れて下さった。その際に障害者の方の悩みも様々であると同時に、支援者の方々の心身の疲弊や仕事上の悩みの深さも強く印象に残った。

障害のある方が実現傾向を発揮する事は勿論目標となる。でもその過程で支援者が身を削るようでは支援は長くは続けられない。また、支援者が潰れて障害者になっていく支援のあり方は、どう考えてもおかしい。

福祉の現場が、一部の自己犠牲による陶酔や上から目線好きと、それ以外の人の情とボランティア精神と優しさと献身と責任感によってギリギリなんとか成立し、一部のオーナーだけがブクブクと私腹を肥やす。結果、現場で働く支援者は搾取され、金銭的にも精神的にも肉体的にも余裕がなくて、その皺寄せにより、支援者も障害者も傷つく。そういう現場のあり方には正直ちょっと違和感がある。

「福祉には大卒も勉強好きも要らない。要るのは体力」としばしば言われるが、そういう前時代的な意識が現場を不幸にしている面があると私は感じる。そりゃ勿論体力も必要。でももっと根本的に現場に足りないものは何か?それは知識と理性だと私は思う。

本物のインクルージョンとは何か。改めて考えてみたいと思っている。

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