マガジンのカバー画像

短文

378
創作 随想 回想 コラム その他 短文を集めています
運営しているクリエイター

2020年11月の記事一覧

姉と金縛り

姉と金縛り こっぴどく相場にやられて、落ち込んだとしても何も事態は変わらない。なぜ負けたのか、書き記してみたが、それを読み返して轍とできるか、それもよくわからない。 空気ががらりと変わる。相場ではよくあることだが、短期でここまでするすると相場が上がる(日経について)はあまり経験がない。逆はよくある。こつこつとあがってきたものがズドンと下がって、もう下がらないだろう、と思ったところでまた一段下に下がっていく。恐怖で身動きがとれない。 今は、相場が上がることによってその金縛

私園

私園 マンションの敷地に公園がある。というか、おそらく、マンションの住人以外に開かれた場所ではないので、公園ではなく、私園とでも言うべきか。 たまに、子供たちが遊んでいる声が聞こえる。私たちも、子供が小さい頃は何度かゴンドラ型のブランコに一緒に乗ったり、滑り台を下りたりした。 また、四十にさしかかったあたりで太りすぎたので、運動でもしようと縄跳びを何跳びかしてみたが、建物に反響して思いの外音が出たためにほかでやることにした。はじめは五十回で心臓が飛び出しそうだったが、続

三十年ふたたび

三十年ふたたび 三十年という時間の重さは人によっても意味が違うだろうが、たいていのことが無になるのがそのくらいの時間の経過ではないだろうか。三十年前のことはたいてい忘れているし、そもそも三十年前に想いを馳せようと言うのも五十年程度生きてからのことだろう。 そこからは三十年前が順送りされて三十の時、四十の時、と思い出も薄れ、ましてや五十での三十年前のことなどもはや夢物語に属する記憶となり、覚えていること自体もう本当のことかわからない。 そのような年代に当時の仲間にあったと

逃げる

逃げる きつくて何度も逃げたくなった。そのとき思いとどまったのは、逃げたら、この先も何かある度に逃げ出す人間になってしまう、という恐怖からだった。 みんなができていることがなぜできないのか、逃げたところで何も解決するものではないと思っていた。 しかし、本当に無責任にアドバイスをするならば、逃げたくなったら逃げればいい。 逃げると今までの環境は完全にリセットされる。もう、逃げてしまったのだから後のことは考えなくていい、というより考えても仕方ない。 逃げるということは今

リブル

市川リブル 日曜日の午後 自転車にのって江戸川の土手づたいに坂を下りていくと 千葉街道に抜ける 市川広小路から路地に入ったところ 洋食屋などが軒を並べる小さい間口の立ち並び そのうちのひとつ隠れて 一階は喫茶店 モノクロ線描のケルト図柄のような 無名画家の作品が 2万円程度で展示即売されている 薄い茶色の透かしガラスの向こうに 自転車や 親子連れの往来が見える すこし音の割れた リバーブのきいた トレブリーな明るくちゃちいギターのアルペジオ へなへなと反復される つぶれたドラ

何もなかったかのような

何もなかったかのような なにもなかったようになっているけど、私はしっかり覚えている。 何食わぬ顔して大層なことをおっしゃったとしても、あのときのことはしっかり覚えている。 おそらく、聞けば誰もがそれを覚えて居るはずだ。忘れた振りをしているだけだ。 どうして、そのままにされているのか知らないが、実際、あの件に関してはあなたに原因があって、しかし無かったことにされている。 それを蒸し返されないで逃げおおせようとしても、たとえ、逃げおおせられたとしても、私はおそらくいつま

いい夫婦の日

いい夫婦の日 11月11日はベースの日で、11月22日はいい夫婦の日だそうだ。 ベースの日については1が四本でベース弦を表しているらしい。最近、五弦、六弦のベースも出てきたが、そこはまあ、ご愛敬ということで。 ベースもなかなか弾いていて楽しい楽器だ。小指がいつの間にか使えるようになってかなり弾けるようになった。ところで、ポールマッカートニーのベースは超絶変則ベースだ。良く聞くと何でここにこの音? というセオリー無視の音飛びのようなラインが沢山出てくる。ポールを聞いていな

裏庭

裏庭 ネットオークションでよく詩集を物色している。先日は吉岡実の「サフラン摘み」初版帯付を安価に手に入れた。すでに持っている本だが、詩集としてはかなり売れたようで重版の物だった。特に初版信仰でもないのだができれば初版も持っていたい。全集で読むのと、単行本で読むのとはどこかが違う。単なる趣の問題なのだが、できればそのときに編まれた単行本として読んだ方がより作品の根本に近づける気がする。その意味では松浦寿輝の「うさぎのダンス」を競り逃したのは痛かった。 とオークションパトロー

大学祭

大学祭 近所の大学の学園祭を散歩した。 キャンパスのごく一部でこじんまりと行われている盛り上がりに欠けるお祭りだ。年々何というか、しょぼくなっている。以前は、出店で買った焼きそばなどを食べるテーブルが用意されたりしていたが今はない。ステージで、バンドの生演奏などもされていたが今はない。片づけが大変だからだろうか。それとも、別に来客のことなどどうでもいいと言うことだろうか。 まあ、大学祭は自分が楽しむための物と言われればその通りだが、昔は、準備片づけも込みで思い切り楽しん

文は人なり

文は人なり 短文を書いて五百を数えた。先日数えて判明した。 自分としては随筆、コラム、詩などを意識しながら、一日三編を自分に課して、誰のためにでもなく書き溜めているわけだが、少し分かってきたことがある。 昔からさんざん言われてきたことなのだが、自分で実際に書くことを少なからず行うことで実感として感じ始めた。今更ではあるが「文は人なり」と言うことだ。 人が書く文章にはその人の中身がにじみ出る。一編や二編ではなかなか出てこない人間性が、何編も書くことにより透かしのように浮

不意

不意 疚しさなどひとかけらもなく、しかし、長年の猫背は直らず。それを指摘されたのはもうずいぶんと前のこと。何故、西の隣に東がないのか、くってかかってきた理不尽な攻撃性をそのころは好まなくなっていて、すっかり愛想を尽かしかけたとき君は、不意に姿を消してしまった。 当局からいろいろと事情を聞かれ、幽閉され、あからさまに疑ってかかってこられたのでわざと挑発的な返答を返していたら、冬はいつの間にかおわっていた。 証拠もなく、手がかりもなく、つまり何もなあんにもなかった私にはそも

秋、たき火

秋、たき火 秋、たき火をしたい。町場ではたき火はできなくなった。以前は、段ボールや雑誌まで燃してしまったものだが、ダイオキシンがでるらしい、今では刈り取った草木すら燃せない。煙が洗濯物をいぶしてしまい、においがついてしまうという住宅事情もある。 たき火をするには、たき火をできるところへ行かなければいけない。しかも、燃やせる物も決まっている。この際だから、と段ボールなんか持って行ってはいけない。たき火ができるキャンプ場、というのが一番無難なところだろう。 しかし、そんなと

ギガ資源

ギガ資源 記憶はいつか消える、だから、ネット空間に残しておかなければ、と思って、思い出や想念を躍起に書き残しているのだが待てよ、と考えた。ネットの空間にある記憶の容量は資源の様に枯渇することはないのだろうか。理論上は記憶装置を繋いでいけば事足りるのだろうと思うが、それでも素材、空間、容量、電力、様々な要素により枯渇してしまうことはないのだろうか。その答えはおそらく誰かが知っているし、私の生存中にその枯渇が発生する確率はそれほど高くないだろう。ただ、答えを知っているひとの答え

早めし癖

早めし癖 早めし癖が抜けない。いつから早めしをしていたのだろうか。高校三年の時は三時間目の終わりの小休みに弁当を食べてしまっていた。昼休みを有効に使うためだ、と、どのように使ったか全く覚えていない。寝ていたか。 大学の学食では、向かい合った友人の、一口のほおばる量が多く、食事が早いのに驚いた。 その後、昼食の回数は数え切れないが、ほぼ、十五分以内に完食していることが多い。早ければ弁当は五分でいける。今ここで、以前にもそんなことを書いたような既視感を感じた。弁当などは早く