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文は人なり

文は人なり

短文を書いて五百を数えた。先日数えて判明した。

自分としては随筆、コラム、詩などを意識しながら、一日三編を自分に課して、誰のためにでもなく書き溜めているわけだが、少し分かってきたことがある。

昔からさんざん言われてきたことなのだが、自分で実際に書くことを少なからず行うことで実感として感じ始めた。今更ではあるが「文は人なり」と言うことだ。

人が書く文章にはその人の中身がにじみ出る。一編や二編ではなかなか出てこない人間性が、何編も書くことにより透かしのように浮かび上がる。まず、普通の人ならば何百も文を認めようとは思わないだろうし、そんな暇もない。

文を書くということを続けているのは文を書くのが好きか、得意か、何らかのメリットを求めているのか、排泄のように溜まったものを吐き出しているのか。いずれにしても一般的な習慣ではないような気がする。

そんな中でも、書き手が書かれる対象にどのようなまなざしを向けているのか、文章にそれは必ず出てくる。

程度の差はあるかもしれない。だが、本心を隠して全く思ってもいないことを書いたとしても、それが束になれば読み手にはその人が必ず伝わる。私にはそう思われる。

美しい文書の書き手が実は世界全体を呪詛しているような瞬間がかいま見えるとき、その文は最高にエキサイティングなものとなるのではないか。その精神のありよう、その暗黒。そういうものに強く惹かれる。

私はといえば、常識的な凡庸な視線を少しだけ斜にすることで独自のものに仕立てようとするセコい、下司な根性が滲みだし、小上手く纏まろうとする粒の小ささも意識され、希有壮大な宇宙を生み出せる器の大きさとはほど遠いことを思い知らされ、しかし、これが私と仕方なく開き直っている自分が痛々しくもわずかに愛しい。

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