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手塚治虫がタブーに迫った問題作「奇子」人間の狂気とエロスの衝撃!

今回は黒手塚の代表作「奇子」をご紹介いたします。

手塚作品の中でも最もヤバイと呼ばれることもある本作
ドス黒い大人の人間関係の中で純真無垢な汚れなき少女が
さらなる混沌へと導く禁断の物語
読者の価値観を容赦なく揺さぶる手塚治虫のストーリーテリングが炸裂した傑作をたっぷり解説いたしますのでぜひ最後までお付き合いください。



本作は1972年「ビッグコミック」にて連載
あらすじは終戦から4年後の昭和24年
青森県の四百年続く大地主、天外家に次男「仁朗」が復員してくるところから物語は始まります。

天外家では仁朗が戦争に行っている間に奇子という妹が誕生していました
「奇子」は天外家の当主、天外作右衛門と
作右衛門の長男「市朗」の奥さん「すえ」との間に誕生した子。
実は長男「市朗」が遺産相続することを引き換えに
父「作右衛門」に嫁を差し出してできた不儀の子でありました。

「作右衛門」とは天外家のすべての権力を握っており誰にも文句を言わせない独裁者。強欲で性欲の塊で長男の嫁の身体をむさぼるやりたい放題の超絶にムナクソ悪いゲス野郎です。
そんなゲス野郎の非道を黙認している長男「市朗」もゲスです。
己の私利私欲、遺産相続のために、父に妻の体を差し出すような男。
倫理観の欠落した超絶なゲスです。

戦争から帰ってきたばかりの次男「仁朗」
これらを平然と容認している狂った家族を軽蔑するのですが
彼もまた人に言えない秘密を抱えていました。



それはGHQのスパイ活動、秘密工作員でありました。
ある日とある男を線路の上に置き、
礫死体に見せ掛け殺害するという任務を全うします。

しかしその際に衣服についた血を証拠隠滅のためにこっそり洗濯をしているところを「お涼」に見られてしまいます。

このお涼とは父「作右衛門」が別の女性に手を出してできた知的障害のある子で仁朗は口封じのためお涼を亡き者にします

…がそれを幼い「奇子」に見られてしまいます。

天外家の家名が汚れることを恐れた天外一家はまだ幼子である奇子を口封じのために土蔵に閉じ込め死んだことにしてしまいます。
何の罪もない奇子は一家の秘密保持のために数十年もの間、
薄暗い地下の土蔵の中で監禁生活を送ることになるという
ゲス一家の超絶にゲスいお話であります。

ちなみに礫死体として殺害された男とは天外家の長女志子の彼氏であり
志子は共産主義に関わっていたとされ
後に天外家を勘当され家を出ていくことになります。

このように天外家とは非常におぞましいエゴまみれの淀みまくった凄まじい一家であり手塚先生は本作をドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をヒントに制作した言っております。

この時点ですでに
めちゃくちゃカラマーゾフ感が滲み出ているのが分かりますね。
強欲な親父筆頭にドロドロの人間関係、底なしのエゴと欲望
そして追い詰められた人間の精神の変容など
手塚先生の大好物の要素がふんだんに盛り込まれております。

そしてここから手塚版「カラマーゾフ」は地獄絵図な展開を迎えます。

あれから数年が経ち

監禁されていた奇子は土蔵の中で大人の女性へと成長していきます。
戸籍も抹消され社会から完全に隔絶された暗闇の世界で育った彼女は
世間を知らない一般社会のモラルを持たない純粋培養された女性へと成長していきます。

奇子が土蔵の中で暮らしている間、食事などを運んでいたのが三男「伺朗」で彼は正義感も強く次男の仁朗を告発しようとするくらいこの一家でまともな兄弟でした。
しかし奇子にとって唯一接点のある関係性というのが徐々に複雑な感情を生んでいきます。


エゴにまみれた天外家の中でひとり汚れなき存在だったはずが
浮世離れした奇子の美しさに惑わされ
ついに禁断の一線を超えてしまいます。

精神は子供だけど身体は成熟した女性という奇子のアンバランスなエロスに
あの伺朗も抗えず非道の道へ堕ちていきます。
奇子の唯一の会話相手という歪な関係性が彼の独占欲に火を点け
奇子の存在を我が物にしようとしていきます。

この抑えきれない性欲が暴走して狂っていく様は見事であります

とにかくこの奇子に潜むエロチシズムがハンパありません。
周囲を混乱させるほどのエロスを巻き散らす奇子ですが
他者との関係性を持たない奇子にとってはそれが普通なんです。
兄弟としか肉体関係がない異常性も肉体関係しか愛情表現を持たない彼女にとってはそれが無垢な故の行動なんです。
この非常に危うい精神構造が猛烈に本編の狂気さを際立たせています。

そして土地収用で土蔵が取り壊されるのをキッカケに
奇子が23年の時を経てついに社会へ出ることになります。
4歳から時が止まった美女が下界へ解き放たれるわけですが
その行動が無自覚に周囲を破滅に導いていきます。

欲にまみれた人間たちの醜いエゴまみれの渦が濁り散らすカオスな物語は
この後一体どのような展開になっていくのか
…という大枠のあらすじであります。

本作は手塚作品の中でも異色中の異色作でこれまでの手塚漫画とは明らかに毛色の異なる作品であります。その大きな理由は執筆時が手塚治虫のスランプ時期であったことが大きな要因です。

スランプと手塚治虫

1971年から1972年にかけての2年間は人生のどん底にあり
ひたすらに暗い作品を描いています。
時代のトレンドはまさに劇画時代。
これまでの丸っこい手塚タッチのマンガが片隅に追いやられ
「手塚治虫は終わった」
と囁かれ先生自身が悩みに悩んだ時期。
このまま多くの漫画家たちのように時代に淘汰されるのか…。

そこで手塚治虫の出した結論が余りにも予想外の「劇画」の挑戦でありました。神様が自らのスタイルを捨て立ち向かった「劇画」
数々の試練を乗り越え世間の反発がありながらも
生み出された異色作それが「奇子」なのです。

自らの身体に染みついたスタイルを変え
内容もこれまでのような正義のヒーローは誰一人として存在せず
講釈を垂れるような道徳観もなく
完全に倫理観のぶっ飛んだ破壊的なマンガを登場させました。
これはビビリます。
スランプの鬱憤を晴らすかのようなドス黒い世界観、
そして戦後の闇を暴くかのようなストレートな描写
ここまで自身の作風の振り幅を変えてくる作家もかなり珍しいと思います。

本作では本当に救いようのない、胸糞シーンがあります。
グロいと感じる表現もありますし目を覆いたくなるような描写もあります
しかしそれはただ闇雲に読者を刺激するだけの描写ではなく
戦後日本の占領下の閉塞感、敗戦によって強制的に価値観を塗り替えられていった日本人の姿を鮮烈に描写したとも言えます。

手塚先生はあとがきで
「戦後思想その混乱と葛藤を描き出したい」
と記述があるように
当時の国民の強烈な反感と嫌悪感を意図的に作品に組み込んでいます。
共産主義や労働運動などの政治的話題から因習にとらわれた人々の欲望、
村社会の封建的な風習の中で巻き起こる差別、暴力、近親相姦など
ブラックネタのオンパレードが絡み散らかしてきます。
これは現代の感覚で読むと凄まじく差別的に感じる部分もあるでしょう。

舞台となる昭和24年の日本は血なまぐさい政治的事件が乱発し本作でも
戦後最大の未解決ミステリー事件と呼ばれた「下山事件」がモデルとして描かれています。
初代国鉄総裁、下山総裁の亡くなった当日の行動がめちゃくちゃ史実に忠実にマンガ内で再現されており手塚先生は相当にこの事件について読み込んでいたことが分かります。

そうまでしてこの事件を本作と結び付けたかった理由は何だったのか。

あまりにも不自然な証拠が多いこのミステリー事件
GHQによる忙殺?それともGHQの圧力を受けたある機関の陰謀なのか
様々な憶測が飛び交いますが手塚先生はこの史実を巧みに作品と融合させ
当時の殺伐とした日本社会を描いています。


ちなみに浦沢直樹先生の「Billy Bat」でも「下山事件」出てきます。
人類史の闇に踏み込んだ壮大なミステリーマンガの中で「下山事件」を題材にした内容がありその中の登場人物に唐麻 雑風(からま ぞふう)ってキャラクターがいるのですがモデルはカラマーゾフです。
カラマーゾフと「下山事件」これ確信犯的に「奇子」意識していますね。
手塚先生を敬愛している浦沢先生らしいにくい演出ではないでしょうか。


はい、話を戻します
手塚先生は戦後の日本の閉塞感を「狭い空間」をモチーフとして表現されているのも注目ポイント。
閉鎖的な国、排他的な社会、旧家の村、そして土蔵
それぞれの閉じ込められた閉塞感の中で狂っていく群像劇を描いており
決して奇子だけが閉じ込められたキャラクターではありません。

この見事な描き方、演出ですよね。
まさに純文学にも匹敵する見事な構成力と言えます。
世界最高峰の文学作品「カラマーゾフの兄弟」をモデルにしているだけあってマンガでこのレベルに到達しうる作品は早々見当たりません。

これは本当にいくつかの飛躍から辿り着いた作品で
苦しまないと生み出せない、この時期の手塚先生の心境だからこそ生まれた傑作と言えます。
自身のスランプであった閉塞的な精神状態と題材である日本が抱えていた占領下の闇の部分が上手く化学反応が起き異様とも言える剥き出しのドス黒い作品世界を醸し出しています。間違いなくこの時代を通過したことで生まれた作品であるのは間違いありません。

そしてこの「奇子」の異質さは
その前に執筆していた作品群からも伺えます。
手塚先生が劇画路線に舵を切った1968年から
「地球を呑む」「I・L」「人間昆虫記」と続けて強い女性主人公を主体として描いておりとりわけ不幸な女性像が多い傾向にあります。

「地球を呑む」 金と女とお酒に溺れる男の性
「I・L」 狂気のド変態アダルトホラー!思い通りになる美女。
「人間昆虫記①」 手塚史上屈指の悪女エロティックサスペンス!


それは女性が本来持っている逞しさに美しさを感じる手塚先生らしい設定と言えますが続くこの「奇子」は女性主人公でありながら
これまでの系譜に当てはまらない異彩を放っています。
不幸は不幸なのですが、
決して「奇子」は主人公のようなヒロインではありません。
強くもありません。

奇子はあくまでも天外一族の一員としてのキャラクターであり
主役はあくまでもストーリー、登場人物全員が自己中心的で欲望むき出しでグイグイとストーリーを引っ張っていきます。
その点でも明らかに他の作品と異なっているのが分かるかと思います。

悪意、欲望、出世欲、嫉妬心など
人間のあらゆる黒い面がぶつかり合う超絶な展開に
糸を引くような生々しいエロスを混在させた超一線級の物語は
手塚作品の中でも屈指の問題作であり衝撃作です。

個人的にここが凄いと感じるところに
第一話のラストのコマにはハエの交尾が描かれているんです。
ハエの交尾です。


最初は何のことか分からないコマなのですが、振り返ってみると
これから巻き起こる欲望にまみれ散らかした「性欲」のドラマを示唆していたことが分かりめっちゃ震えます。
ちっぽけなハエに置き換えて生物の交尾行動、生殖行動に狂っていく様を
想像させる表現
尖っていながらも文学性を感じる品性の高さ
こういう作品がカタログの中にあるということが手塚治虫の恐ろしさであり
その他の作家と決定的に違う要因なのであります。

これまでと対極にあるものを成立させてしまう技量こそ
間違いなく天才の極みの仕事。
恐るべし手塚治虫。

それでいてこれがスランプの時の作品ですからね。
マジでイカれてて誰も太刀打ちできません。
手塚治虫が昭和の一時代を鋭くえぐった超一線級の社会派ドラマ
黒手塚の代表作「奇子」是非ご一読してみてください。

最後にオリジナル版ご紹介しておきます。
こちらには別エンディングが収録されています。
本編で一応の完結を見ていますが実は手塚先生は続きを描く予定でありました。実際にはその続きが描かれることはなかったのですが別エンディングという形だけは残っております。
オリジナル版ではこの「幻となった別エンディング」や2色カラーで掲載された扉絵を含めた全話の扉絵を初収録
そして手塚先生による「あとがき」をはじめ、第2巻の巻末には図説・解説ページを収録というファン必見の豪華仕様になっております。

ただ初版完全限定生産につき現在はプレミア化しております。
一応アマゾンリンク貼っておきますがちょっとお高いので色々探してみてください。
ではでは。


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