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スランプと手塚治虫

今回は「スランプと手塚治虫」というテーマで迫ってみたいと思います。

実は手塚先生は二度のスランプを経験しており
そのひとつである
1970年代のスランプをクローズアップしてお届けいたします。
今回なぜこの70年代に絞ったかといいますと
この70年代が漫画界において非常に重要な転換期であると思うのと
単純にボク自身がこの時期の手塚作品が好きだからです。

手塚治虫の真の革命期と言えば1950年代です。
でもそれはあまりにも昔すぎて今の若い世代の方にはもはや歴史の教科書レベルのお話だと思いますがその後1960年代にかけてストーリー漫画を確立させ日本漫画に凄まじい影響を与えます

その影響を受けて育った若い世代が台頭してくると共に
手塚先生はスランプに陥ってしまうんですが…

この記事を最後までご覧いただければ天才手塚治虫がどのように
1970年台を迎え大復活を遂げたかが分かりますので
ぜひ最後までご覧ください。

それでは本編いってみましょう

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手塚治虫のスランプ。
それは一般的には手塚先生自ら「冬の時代」と語った
1968年から1973年のことを指します。
この時期、白土三平をはじめとする劇画作品の台頭、
永井豪の「ハレンチ学園」のヒットによるハレンチ・ブームの到来など
新しい波が発生し、これまでの手塚治虫の作風が
古いものとみられるようになってくるんです。

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「劇画とお色気」
これは1970年台の手塚治虫を語る上で欠かせない要素ですので
ぜひ覚えておきましょう。

劇画ブームというのは
実際は1966年頃から始まり
白戸三平「カムイ伝」梶原一騎「巨人の星」

68年
「あしたのジョー」「タイガーマスク」
「アタックNO。1」「ハレンチ学園」「サインはV」

69年
「ゴルゴ13」「河童の三平」「ワイルド7」「あばしり一家」

など挙げるとキリがないくらい盛り上がりを見せていました。

手塚先生も色々描いていましたが強いて言えば「火の鳥」くらいですかね
いや「火の鳥」だけでも十分すごいんですけどね(笑)


当時少年漫画雑誌発行部数では「週刊少年マガジン」の一人勝ち状態
代表作は「あしたのジョー」「巨人の星」などヒット作連発しておりました

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「週刊少年サンデー」も「同マガジン」と全面対決していたんですけど
出版社が小学館ですから主な作品は少年向けだったんですね
「伊賀の影丸」「おそ松くん」
「オバケのQ太郎」「パーマン」「ジャイアントロボ」
などが有名ですね。

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そもそも創刊時の「週刊少年サンデー」なんてほぼ手塚治虫というくらい
児童漫画が主体の雑誌でした。
そんな「週刊少年サンデー」も徐々に時代の流れと共に
「週刊少年マガジン」の劇画の勢いには勝てなくなっていきます。
(下記「0マン」は週刊連載初のストーリーマンガです)

この後「週刊少年サンデー」は「漂流教室」「人造人間キカイダー」のように青年誌向けの漫画を模索するも、これがまた時代に逆行しちゃうという
迷走時期にもなるんですけどこれはまた今度お話しましょう。


つまり
劇画の台頭というのは社会現象を巻き起こし
少年漫画にも単なるファンタジーではなく「リアリティ」が求められるようになっていくようになります。

背景描写もしっかりと描くようになったし
キャラクターの精神描写も必要になったという時代の流れがありました。
これは漫画が子供だけじゃなく青年や大人も読むように変化していき
時代がそういうものを求めていた時期だったと言えると思います

ここから70年に入りヒット作に恵まれず、もがき苦しむ手塚作品は
世間での評価は低いのですがボク個人的には猛烈に面白いんです

1971年の手塚作品のラインナップは
「ふしぎなメルモ」
「アラバスター」
「きりひと讃歌」
「人間昆虫記」
「海のトリトン」
「火の鳥」
「鳥人大系」

作品名だけ見たらとてもスランプとは思えない完成度であります
個人的には「アラバスター」「きりひと讃歌」「人間昆虫記」「鳥人大系」なんて秀逸です、マジで!


ある種スランプという情緒不安定だからこそ生まれた作品であり
手塚先生の精神性が浮き出た傑作ではないでしょうか

さらに!
翌1972年にはこれらの連載に加え
「奇子」
「ライオンブックス」
「ダスト8」
「サンダーマスク」
と続きます。

出ました!「奇子」
ボクめちゃくちゃ好きなんですコレ
戦後の闇と人間の業、暴走する変態性欲を赤裸々に描き切った
まさに漫画家生活のドン底だからこそ描けた黒手塚の最高峰と言える傑作

「きりひと讃歌」「人間昆虫記」「奇子」このあと「ばるぼら」も描くんですが、これまでのファンタジーな作風を封印して、
現代ドラマをリアルに描いた社会派ドラマを次々と発表していきます。
これが手塚流の劇画に対してのアプローチだったんですけど
当時は陰湿だとか暗いというイメージが先行して
世間的な評価はあまり高くなかったんですよね。

「きりひと讃歌」辺りから明らかに画のタッチが変わっていますので
ここら辺の漫画家としての打撃改造といいますかフォーム改造に
のたうち回る手塚治虫の苦悩を感じてみて欲しいと思います。
今読むと最高に面白いんでぜひ読んでみて欲しいですね。


そして
「ダスト8」「サンダーマスク」においては共に半年で打ち切り
これは本当に迷走しちゃっているんで、
ここら辺が手塚先生が精神的にも限界点に達していたんでしょう。

この超ド級の変態作品もスランプ期ならではの衝撃作です。



そしてついには「週刊少年サンデー」とも創刊当時からほぼ途切れることなく連載していましたがここで連載が終了してしまいます。

この時期は石ノ森章太郎先生の勢いが凄まじく
テレビ特撮でも「仮面ライダー」がヒットして
まさしく時の人になっていました

そんな中、手塚先生が出したのが「サンダーマスク」ですからね
完全に滑り散らかしてます(笑)
これは明らかにスランプです…。

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この時期の手塚先生は
一時代を築いた手塚タッチが古いと言われ、手塚治虫に憧れた世代に主役の座を奪われ、ヒット作品にも恵まれず猛烈な超絶スランプ「冬の時代」と呼ばれる時代であります。


ここでちょっと余談になりますが
少女漫画界でもこの時代は劇的な転換期を迎えていた時代です
71年に山岸凉子先生の「アラベスク」発表、
単なるバレエマンガに留まらず
これまでのお約束の少女漫画の絵柄を超越した人間の肉体美、筋肉美表現は画期的でありました

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続いて72年から日本中で大ブームを起こした池田理代子先生の
「ベルサイユのばら」が登場

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同じく72年に少女漫画の伝説、萩尾望都先生が「ポーの一族」発表
花の24年組とも称され、
まさに少女漫画の新しい世代が台頭した時代が到来します

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続いて73年「エースをねらえ!」登場!
スポーツと恋愛観をミックスさせた大傑作も生まれています。少年漫画とともに漫画界全体が変革の時代にあったのは間違いありません。

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そして1973年10月にはオイルショックがあり
漫画界にとっても出版業界にとっても苦難の年となり
大きな変革の年になります。物価高騰、世界的な経済的大混乱
トイレットペーパーがなくなるという噂が広まりその危機感からスーパーに食料品や日用品を買い漁る人が続出、(学校で習いましたね)
とりわけ紙不測の影響は出版業界にはモロに打撃を受け
出版物の価格が2倍近くにまで高騰しています。

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そのような時代背景の中
トドメを刺すように1973年8月に虫プロ商事、11月に虫プロが倒産します。

ここがどん底中のどん底ですね
新聞一面には「終わった」と書かれ
ついに手塚治虫が落ちたと世間に公表されることになります。

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さぁ如何でしょうか。。


一時代を築いた天才漫画家が時代遅れとされ全く売れなくなり
日本初のアニメ事業を立ち上げるも巨額の負債を抱え破滅

人生最悪の時ですよね。こんな時どうします?

手塚先生は経営者として漫画以外のことに手を取られ自宅も売り払って
それこそ漫画なんか描いてる場合じゃなくなるんですけど…


それでも手塚先生は漫画を描きまくるんです。

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ブラックジャック創作秘話参照

借金の取り立てが毎日来て、真横でギャーギャー騒いでいる中で
漫画を描き続けるなんて並みの精神じゃないと当時の編集は語っています。
まさに変態、本当に凄まじい作家ですよね。


そんな中、水面下では60年後半から始まった劇画ブームが沈静化してきて
ひっそりと時代の波が変わり始めていきます。


これまでのマガジンの一人勝ち状態から
「週刊少年ジャンプ」「週刊少年チャンピオン」の台頭により
いわゆる少年漫画の揺り戻し現象が起き劇画ブームが徐々に沈静化。
ジャンプとチャンピオンは「劇画の含む割合」を半分以下に抑え対象年齢をより若い層に向け新規獲得へと体制の入れ替えを行っていきます

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そしてなにより1972年週刊チャンピオンに名物編集長の壁村さんが就任し
ここから一気に時代の流れが激変することになるんです。

まずはこの壁村さん、就任早々…
なんと落ちぶれた手塚治虫の新連載を決行します。


この一声には誰もが耳を疑いました。
あの長年の付き合いであった「週刊少年サンデー」ですら連載を断った、
すでに終わった作家の連載をするなど「正気でない」と言われるんです。

そりゃあそうです。
新進気鋭の作家、若いエネルギー層を取り込むために雑誌を再編しているにも関わらず手塚治虫という超ベテランのしかも超スランプの作家を起用するなんてまさに「正気の沙汰」ではなかったのです。

しかしこれは4週のみという短期連載でしかも読み切りという
終わることを想定した連載依頼だったんですね。

…というのも壁村さんは手塚先生のことが大好きで最後はウチで!
という「死に水をとる」意味で連載させたいわば
引退式のような意識もあったそうです

そして新連載と言えばこれまでの例でいえば間違いなく巻頭カラーという
特別扱いされますがこの新作に関しては巻頭カラーでもなければカラーページでもない非常に寂しい扱いを受けています。
もう本当に最後の最後という掲載だったようですね


そうして少年誌、最後の最後として始まった連載が…

あの「ブラックジャック」なのであります。


まさに「地獄から生まれた大傑作」がここで炸裂します。

掲載1回目、2回目と予想を超え好評、そして打ち切りの4回目には継続決定
その後はチャンピオンの看板になるまでの人気となり、
ひいては日本を代表する漫画にまで成長します
まさに手塚治虫完全復活を世間に知らしめた伝説の作品となるわけですね

医者という専門的な漫画でありながら毎回1話完結という制約の中で
圧倒的なストーリーを毎回描き続けた奇跡の作品は
すべての漫画家が「手塚治虫にしか描けない」と言わしめるほど完成度が高くまさに手塚治虫だからこそなしえた傑作と言えるでしょう。

そしてそれ以降
1974年の手塚先生の連載は
「ブラックジャック」
「鳥人大系」
「ばるぼら」
「ブッダ」
「一輝まんだら」
「シュマリ」
「鉄の旋律」
「三つ目がとおる」
「日本発狂」

1977年には
「MW」
「火の鳥」
「ブラックジャック」
「三つ目がとおる」
「ブッダ」
「ユニコ」

と再び人気作家になり凄まじい量の連載をこなします。
74年の連載ラインナップってヤバイですよコレ。凄まじい質と量です
迸るエネルギーが弾け飛んでますよね。
(末尾に掲載作品紹介しておりますのでぜひ)

こうして後期手塚治虫の絶頂期を迎え
見事にスランプを脱出するのであります。

…というわけでこうやって激動のスランプを乗り越えてきたわけですが
そもそも漫画文化発展の歴史の中で
「既存の漫画」「劇画」とが対立するものではないんですが、
当時はそういう概念がなかった時代だったとも言えるでしょう。

今でこそ漫画という文化の中で色んなジャンルがあるのが当たり前ですけど
当時は同じ漫画として切磋琢磨するというより
流行じゃないものを否定する流れの方が強かったんですよね

でも最終的にこうした表現方法の多様性が認知されるようになり
色んなジャンルが増え日本の漫画カルチャーが飛躍的に発展するキッカケになるわけであります。

どちらが上とか下とということじゃなく
少年漫画、少女漫画、青年漫画、劇画、などジャンルの垣根を越えた
幅広い層に受け入れられる土壌が確立されていくんですね

そしてこの後1980年代に入り週刊雑誌の黄金期を迎え
なんと週刊発行部数638万部というとんでもない記録をも樹立し漫画そのものが大きく市民権を獲得していくわであります。

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…というわけで
漫画の歴史を語る上で激動の70年代と「手塚治虫のスランプ」
ご紹介いたしましたが如何でしたでしょうか。
時代背景を知ることでより作品の理解度も深まりますし作家の立ち位置というのも見えてくると思います。

ぜひご自身のお好きな作品の発表された時代背景も探ってみることで
新しい発見ができるかも知れませんので機会があれば調べてみてくださいね。最後までご視聴くださりありがとうございます。


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