戦争、暴力、獣性、恋愛、ビデオゲーム

 大江健三郎の「われらの時代」という作品がある。大江の作品の中でもベスト3に入るぐらい好きなのだが、嘘をついていないから好きだ。後期のぬるい神話の文学より初期の虚無主義的な文学の方が遥かに優れている。
 「われらの時代」の主人公は、圧倒的な倦怠感に襲われている。

日本の若い青年にとって、積極的に希望とよぶべきものはありえない(中略)希望、それはわれわれ日本の若い青年にとって、抽象的な一つの言葉でしかありえない。おれがほんの子供だったころ、戦争がおこなわれていた。あの英雄的な戦いの時代に、若者は希望をもち、希望を眼や唇にみなぎらせていた。それは確かなことだ。ある若者は、戦いに勝ち抜くという希望を、ある若者は戦いがおわり静かな研究室へ日焼けして逞しい肩をうなだれておずおずと帰ってゆくことへの希望を。希望とは、死ぬか生きるかの荒々しい戦いの場にいるものの言葉だ。そしておなじ時代の人間相互のあいだにうまれる友情、それもまた戦いの時代のものだ。今やおれたちのまわりには不信と疑惑、傲慢と侮蔑しかない。(中略)ああ、希望、友情、《宏大な共生感》、そういうものがおれのまわりには決して存在したことがない。おれは遅れて生まれてきた。そして次の友情の時代、希望の時代のためにはあまりに早く生まれすぎたのだ。

われらの時代

 これを中年の女とセックスしている最中に考えているのだから、もう余程絶望している。戦争を肯定しているわけではないが「われらの時代」の風景を描いているんだろう。こんなことを主張すれば世間から非難轟々だから、虚構に託して語らなければならない。

 毎日の繰り返しになんの意味も価値も感じられない。そのことの大きな原因として「暴力」の欠如が挙げられる。暴力というと響きが悪いので「悲劇的なもの」の欠如と言ってもいい。「刺激がない」とこぼす人は多いが、刺激とは「悲劇的なもの」である。恋愛とは「悲劇」に他ならないので、みな恋愛に熱中するんだろう。

 「英雄」だとか聞くと、陳腐なものに思える。熱狂できるものが何もない。

 この圧倒的倦怠を解消していたのが「戦争」「供儀」「儀式」というバタイユの主張は頷ける。「合理的に生きている」だけでは、人間から零れ落ちる「獣性」がある。それを戦争や供儀や儀式によって定期的にガス抜きしなければならない。「祭り」というのはそういう効果もあったろう。《宏大な共生感》がなければ人は倦怠感に押しつぶされる。

 人の「獣性」が抑圧されている。「タナトス」とかと呼ぶと行儀がいいが、獣性とか「暴力衝動」と言ったほうが当たっている。「暴力は絶対にダメ」「戦争はよくない」と徹底的に学校で洗脳されているから、人間の「獣」の部分が抑圧されてしまう。その果てが「ゲーム依存」「恋愛依存」「ポルノ依存」だ。
 ゲームというのはバーチャルな相手をぶっ倒すことに興奮を覚えるシステムのことだ。僕もスプラトゥーンやスマブラをやっていたことがあるので分かるが、あれは闘争心をくすぐられる。ゲームをしながらスカイプをすることも多かったのだが、「ゲームをしている最中は人が変わって怖いので話したくない」と言われたことがある。FPSなどの銃で人を殺すゲームをしている人は、イライラして短気になっている人が多い。
 戦争をしている最中に自殺者が減ることは、デュルケムが主張している。戦争中に仲間が敵をぶっ殺したら「スッキリ」するだろう。日常のイライラや倦怠感もすっ飛ぶ。

 「平和」というのは重要だけれど、「平和時」に、このもてあました獣性をどうするか、というのは全然議論されていない。「暴力」に対して議論することが不穏なタブーになっている。じゃあ「暴力」とか「供儀」にあたる代替策はないのかというと、何もない。「権力闘争」と「恋愛」ぐらいだが、それも強度が低いと思うし、社会的な弱者には与えられない。

 ニーチェがどこかに「人間は本質的に残酷な生き物だが、現代人は残酷でなくなったのではなく、残酷さが洗練されているだけだ」と書いていたが、これほどの真実はないと思う。狩りや戦争で動物を殺すことが、SNSでフワちゃんを叩き潰したり、男女で醜い言い争いをすることに代わっただけだ。
 「平和な時代」に獣性をどうすべきか、というのはもっと考えられていいと思う。「儀式」というのが一番平和な解決だと思うが、日本の土着的なものは壊れてしまった。僕はもう個人的に「瞑想」と「運動」をするしかないと思っている。多分この衝動は「共同体」が必要になるので、個人ではそれぐらいしかできない。

 死にたくなるほどの倦怠感が日本に蔓延している。「じゃあ戦争しよう」とも成りかねない。「悲劇的なもの」をどうやって平和に作り出すか
 

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