ボーはおそれている 不条理文学 不条理映画 不条理漫画

 「ボーはおそれている」という映画を見た。アリ・アスター監督の前作の「ミッドサマー」が物凄く良かったので、今回の作品も楽しみにしていた。期待よりも面白かった。

 内容は、ボーという怖がりの男が不幸な目にあいまくるというただそれだけで、物語はめちゃくちゃに進行していく。ネタバレもクソもないんだけれど、大まかな流れとしては母親のいる実家に帰るという話になっている。

 信じられないぐらい面白かった。3時間の映画だったのだけれど「あと何分かな?」というのを1度も確認しなかった。

 こういう「起承転結」がなくて滅茶苦茶なモノが好きだった。本当に昔から好きで、小学生の頃はでんぢゃらすじーさんが大好きだったし、ボボボーボ・ボーボボも大好きだった。高校生の頃は、カミュやカフカや阿部公房を好んで読んでいた。引きこもってからも趣味は続いて、「弥次喜多 in deep」や「おしゃれ手帖」「ギャラクシー銀座」、「伝染るんです。」などを読んでいた。絵画もシュルレアリスムっぽいのが好きだし、詩も「よくわからない」感じのほうが好きだ。
 20代前半の頃に「せーので絶望しよっ」という小説を書いたのだけれど、その小説もまるで構成がなかった。女が生き返ったり、天使になったり、殺したり、日記になったり、独白になったり、もちろん構成をたてる能力がないというのもあるが、僕はそういった作品が好きなのだと思う。
 もちろん王道の物語も大好きで、進撃の巨人、ハンターハンター、ジョジョの奇妙な冒険なども大好き。今はアニメでワンピースを見ている。でもどちらかしか見られないと選択をせまられたら、不条理ものを選ぶと思う。
 なんでだろう?中二病なのかな?と思っていたが、言語化できそうなので言語化したい。

 「物語」というのは「慰め」であると考えている。末期癌患者などの心のケアをしている人の本に「傾聴をしていくことで、その人自身が自分の人生の物語を再構築して、納得していくプロセスを助けることができる」と書いてあった。伝統や神という「大きな物語」がなくなったから「個人」という小さな物語が救いや慰めになるのかなと感じた。アニメ作品を見ると、救われた気分になる。「ストーリー」とか「save the cat」とか、物語を創るための本を読んだことがあるのだが、やはり物語には型があるらしい。弁証法が大事で、一度主人公をどん底に堕として、そこから窮地を脱して、更に作者の価値観の教訓が伝達できると良い物語だと書いてあった。
 こういうのは「プチ聖書」だと思う。進撃の巨人とかカラマーゾフの兄弟とか、本当に震撼させられて大好きだけれど、慰めなのかなと思う。もちろん物語の中で「真理」が開示されることはあるが、物語的真理というか、進撃だと「恐怖が争いの元になる」だとか、そういうものだと思う。説得力はある。

 一方で不条理物が開示する真理というのは、真理そのもの、つまり「世界には物語がない」ということ。急に大事な人が死んだりする。ドラマにならない。お涙頂戴もない。多分、自分も急に病気になったり死んだりするだろう。癌になった人はまず「自分は悪いことをしていないのになんで?」と思うらしいが、もしも何か(過去にした悪事とか)の「報い」だという「物語」があれば救われるか、少なくとも納得できるのだと思う。
 世界は無茶苦茶で、全てが偶然で、理不尽で、根拠がない。だから美しいと思う。昔はそれが嫌で仕方がなかったが、今は「だからこそ美しい」と思える。
 故意的に不条理譚を描く人は、「意味深な描写」をすることが多いが、実は何もない。伏線でもなんでもない。なんか、そういうのが凄い好きだ。

ギャラクシー銀座
長尾謙一郎

 僕が人生に感じている「わけの分からなさ」を表現してくれているのかなと思った。

 だから「カフカの変身は介護の物語である」とか「ボーはおそれているはユダヤ教に反抗する物語である」とか、そういう解釈、考察を見ると嫌な気持ちになる。意味のないものが法外で美しい。意味を求めるのならワンピースを見る。

 「無茶苦茶」な世界をデフォルメしたのが不条理作品なのだと思う。シュルレアリスムは「超現実」と訳されるが、これは「超えている」という意味ではなく「強度の高い」という意味らしい。僕もそう思う。無茶苦茶で意味の分からない世界の中に、もっと意味の分からないものを創る。この手の作品には「不気味さ」が漂っているが、それは人生が不気味だからだ。本当はみな異邦人だから。
 だから美しい。でも本当に滅茶苦茶ではそれこそ意味がなく、センスや技術が必要になるんだろうけれど

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