見出し画像

バックパッカーズ・ゲストハウス㉘「忍」

前回のあらすじ:夕飯時のリビングは個性と個性がぶつかり合うバーリトゥードな空間だった。【これまでのお話https://note.com/zariganisyobou/m/mf252844bf4f2

 リビングの壁には、緑の太いマジックで、「忍」と書かれたA4の紙が貼っていた。習字の要領で隅に、「ニキ」と署名がしていた。ニキは学校とバイトで忙しかったが、いつも遅くまで起きて自習していた。真面目な男だったが喫煙者で、よく夜中に踊り場の喫煙場所で一緒になった。中谷ではなくニキに布団のことを聞いた記憶があるので、この日も喫煙所か、もしくはリビングで顔を合わせたはずだ。布団はみんな自分で用意しているという答えだった。大抵はドンキホーテに買いに行くそうだ。布団と枕を含めてベッドだと思っていたが、ここでは枠とマットレスをベッドという概念で貸し出しているようだった。

 ニキはゲストハウスを出て行った人間が置いて行った布団があるので、必要なら一緒に見繕ってくれるといったが、ホームレスと皮一枚しか違わない連中が置いていった、ノーメンテナンスの布団を使う気になれず、お礼だけ言って、自分で用意することにした。

 酔っ払った時におこなった行動で、褒められることはそうそう無いが、この日は前日にネットカフェからブランケットをパクってきた自分を偉いと思った。上になにか被っているだけで大分寝やすさが違う。それでも、まだ二月だったので明け方に寒さで目を覚ました。なにも考えずに窓際を選んだせいで、私のベッドは他の場所よりも寒かった。服を着込んで靴下を履いてもう一度寝直した。

 どんだけ仲が良いんだと思うが、翌日も昼過ぎに龍と飯を食う約束をしていた。金を借りている手前、ちゃんと返す目処を立てて起きたかったので、その前に求人誌から短期でも働ける仕事を見繕った。新宿にあるチェーン店のイタリアンレストランが、三ヶ月の短期からホールを募集していて、条件も良かったので電話した。翌日に面接ということになった。日払いではなかったので、ゲストハウスの家賃を払った私は、すでに手持ちがあまりないという問題はあったが、やはりものを深く考えず、まあ何とかなるかと楽観視した。

「太郎と約束してるから」と客から誘われたアフターをいなした龍と、飯だけ食って別れた。龍はパンクと住む家へいそいそと帰り、私はゲストハウス最寄りのドンキホーテに布団を見に行った。六〇〇〇円前後だったはずで、買えばそこそこ痛い出費になる。三寒四温なんて言葉は知らなかったので、二月ももう終わるのだから、昨日より今日、今日より明日と日に日に暖かくなるはずだと理由づけて、布団は買わなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?