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本の紹介『ある音楽家のエルサレム日記』(オスマン帝国領時代からイスラエル建国時代)

1897年1月14日(水)の朝、私は生まれました。その日は正教会の新年の前夜でした。
 当時の東方正教会の家庭の習慣に従って、この日のために父はクナフェ(*アラブのデザートお菓子)の盆を用意し、
 そして父の親友であり、エルサレムの刑事裁判所の裁判官であったダマスカス人のワシーフ・ベイ・アル・アデムにちなんで、生まれたばかりの私にワシーフと名付けました」

 この出だしで始まる「The Storyteller of Jerusalem」というタイトルの本があります。直訳すると「エルサレムの語り手」ですが、ここでは「ワシフ・ジョハリアの日記」にしておきます。

 作者のワシフはエルサレム東方正教会のクリスチャンのアラブ人で、ウード奏者であり作曲家。そして独学で学んだ歴史家であり詩人、郷土史家でもありました。

 オスマン帝国領エルサレム末期時代から始まり、4つの政権と5つの戦争を経験したワシフ・ジョバリアは7歳から日記をつけ始めていました。
 その上、抜群のずば抜けた観察力と記憶力を持っていたため、この回顧録は他に類を見ない生き生きした素晴らしい内容となりました。

 これはパレスチナ研究所によってアラビア語で出版され、その後、口コミで評判になると英訳もされ、世界中で売れました。

 本書では、宗主国オスマン帝国トルコによって、初めてエルサレムに電気、自動車、蓄音機、映画の導入した時の様子や、最初のオスマン・トルコの飛行機がエルサレムに着陸した際に、バッカ地区の住民が歓迎した時の様子を生き生きと描かれている上、それだけではありません。

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 第一次大戦でのオスマン帝国軍の死海の任務や、イギリス軍の乱暴な行為の目撃証言、著者のワシフの多彩な著名人との交流関係、そして多くのエルサレム市長を輩出した名門フセイニ家との交流についての貴重な証言も書かれています。

 中でも、注目すべきは聖都エルサレムが別名「お祭り都市」であった話です。

 昔のエルサレムでは異なる民族、人種、宗教の人々が一緒になり、互いの宗教の祝い事を行っていたというくだりで、これはその後のイスラエルの嘘に反論する生き証人の供述でもある点です。

 残念ながら、和訳出版されていないようなので、ちょっとここでご紹介したく思います。ぜひ、極上のラク酒とメゼ料理を味わいながら、オスマン帝国領エルサレム時代の後期の世界をそおっと覗いてみましょう。


エルサレム旧市街で生まれた正教徒のアラブ人少年(1800年代後半)


1897年】
ワシフ・ジャワハリエがエルサレムの旧市街の東方正教アラブ人コミュニティで生まれたのは、この年でした。 

 1897年といえば、「ユダヤ建国」を提唱した、ブダペスト生まれのヘルツルによる第一回目シオニスト会議がスイスのバーゼルで開催された年です。

 中の上の階級に属するワシフの父親ジリスは弁護士であり、エルサレム市の市会議員でした。
 そのためエルサレム市長一族とは密接な交流があり、大いにその恩恵に授かっており、彼はアラビア語、トルコ語、ギリシャ語を話し、趣味は蚕飼育と絵を描くことでした。

少年時代のワシフ・ジャワハリエ(右)と父親

 ジリスがワシフの母親ヒラネを求婚したのは、彼女がまだ15歳の時でした。ヒラネはユダヤ教徒だったので、つまりムスリムとユダヤが結婚したことになりますが、当時はこれはよくあったことだというのも、この本から私たちは知ることができます。

 それはさておき、ヒラネは親を亡くしたところでした。そこで「友人の娘」を助ける意味もあって、ジリスは結婚を申し込みました。

 よってきっと、ワシフの両親はおそらく年の差がかなりあった夫婦だと思われますが、ジリスがクリスチャンなので、一夫一婦制の夫婦です。その後、二人の間には次々に子供が生まれ、ワシフは末っ子でした。

 ある年の冬でした。
 当時はまだ高価だったヨーロッパ製のガスストープを、ワシフの父親ジリスは、エルサレム市長を代々輩出しているアル・フセイニ家ルートから格安で入手しました。

 冬のエルサレムは厳しいです。
ガスストーブが家に届くと、まだ十代の母親ヒラネは大喜びしました。
「これで冬を快適に過ごせるわ!」

 ところがです。いざガスストーブを使用するとなんとまあ、うるさい。音がうるさいのです。しかも手入れも大変です。

 なので、ガスストーブの騒音と手入れの面倒くささにうんざりしたまだ若いヒラネは夫のジリスに黙ってこっそりと、それを水差しと安いクリスタルグラス6個と交換してしまいました。

「ああせいせいした」

 妻を思って、市長のツテで苦労して入手した新品ガスストーブを、勝手に  …。
 しかし、それを知ってもジリスは何も言わず、若い妻を叱ることもせず、解放されたはずの薪割りに、黙って再び精を出しました。

 ワシフはこういう穏やかな父親を見て育ったため、大人になり自分も家庭を持った時、決して妻に声を荒げることはしませんでした。

【1904年】
 
7歳になったワシフは日記をつけ始めました。これが、このThe Storyteller Of Jerusalemの本の誕生の発端です。

 2年後の9歳の誕生日を迎えた時、例年どおり、自宅でパーティーが開かれました。招待された子どもたちはアラブ人、ヨーロッパ人、ユダヤ人とまちまちで、どの子も日頃、ワシフ少年が一緒に仲良くして遊んでいる顔ぶれでした。

 当日、受け取った誕生日プレゼントは部屋の隅に山積みにされましたが、ワシフ少年はこの贈り物の山よりも、ある人物に気が向いていました。ウード演奏家コスタンディ・アルスースです。

 アルスースはワシフ少年の自宅誕生日パーティーでウードを生演奏したのですが、ワシフはウードの音色にも楽器そのものにもすっかり魅入られました。

「これからは英語の時代だ」

 小学生のワシフはドイツのルーテル派の機関であるアルダバガ学校に通いました。
 そこではアラビア語の文法、フランス語、トルコ語、口述筆記、読解と算数、ドイツ語、聖書、コーランなどを学びました。

 しかしです。父親と同じクリスチャンのワシフ少年は、コーランの授業だけはやる気が起きず、よくさぼりました。

 ところが、父の上司であり親友でもあったフセイン・アル・フセイニ・エルサレム市長が
「君は音楽家になりたいようだが、歴史や宗教も学んでおくことは必ず音楽の研究の幅をもたせるのに役立つ。だからコーランの授業も真面目に受けなさい」

 なお、この市長がのちにアレンビー英将軍のイギリス軍がエルサレムにやって来た時、白旗を抱えて街を受渡しにサインをし、エルサレムの街の門の鍵も手渡しした男です。

 ワシフ少年は市長の言うことを素直に聞き入れ、コーランも真面目に勉強し始めました。

「コーランやアラブの文化、歴史を真面目に学んだ経験は、その後のアラビア音楽と詩を学ぶのにとても役立ちました。音楽に勉学は関係ないと思っていましたが、そうではなかったのです。素晴らしい助言を与えてくれた市長に感謝しています」

 ところがです。
 このドイツ系の学校では体罰が日常的に行われており、ある日、ワシフもささいなことで教師に激しく殴られてしまいました。

 顔が腫れた幼い息子を見た父親ジリスは学校に対して激怒し、すぐにワシフを退学させました。

 そして、進歩的な教育者ハリル・サカキニによって設立されたドゥストゥリヤ学校に息子を編入させようとしました。この学校では体罰が一切ないと評判だったからです。

 だけどもフセイニ市長が「待った」をかけてきました。
「これからは英語が主役の世界になる。英語を学べるイギリス系の学校の方がいい。体罰もないのは確認済みだ」

 ちなみにフセイニ市長の息子たちはみんなコンスタンティノープルの学校へ入り、オスマン帝国大学を出ています。やはり宗主国の教育を受けさせたのは、市長の一族だったからだと考えられます。

少年時代ー宗教行事・祭りが唯一の楽しみ!


 冒頭に書きましたが、昔のエルサレムではイスラム教キリスト教ユダヤ教の、それそれの行事や祝い事が頻繁に行なわれており、
人種民族宗派関係なく、人々は互いの宗教の儀式や祭りを見学したり、参加したりしていました

 例えば、ギリシャ正教の聖母マリアの祭り開始の最初の15日間ー
 ギリシャ人正教徒は日中は仕事に行き、それが終わるとエルサレム東側のオリーブの木の下にある神殿で、他の宗教の人間も加わり、共に酒を飲んだり歌ったりしました。

 当日の祝日には、軍楽隊とエルサレム当局役人が先導するパレードが街路を練り歩き、ギリシャ正教の総主教が子羊の剥製を配りましたが、正教徒以外の人々もそれを受け取りました。

 聖母マリア祭りに集まった見物人たちは、聖イシュトヴァーン門から墓地、丘、通りを越えてラス・アル・アムドの近くまで散らばって騒ぎ、じっとしていられない様々な宗教の子供たちは一緒にブランコで遊んだり、小さなダラブッカや角笛を買ってそれを吹きながら街中や丘上を歩き回りました。

 復活祭週間に入るとキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人のコミュニティ皆が参加し、「全宗教スタイルの一部が取り入れられた」形式の復活祭が始まりました。

 ユダヤ教の過越祭の行進にはムスリムたちも加わり、ユダヤ人もアラブ人のムスリムも全員一緒になってアル・アクサ・モスク(イスラム教寺院)から、エルサレムの城壁からかなり離れたネビ・ムーサ(ユダヤ教の預言者モーセ)の神殿まで練り歩きました。(*絶対、今では考えられません)

 ユダヤ教の祝日プリムの時には宗教民族関係なく、夜明けにみんなでヤッフォ門への道を見下ろすシオン山に向かい、席と場所を確保し日の出を拝みました。

 ユダヤ教行進では、キリスト教の男性も例えば長いドレスを着て竹馬に乗って歩いたりなどして仮装し、毎年恒例の正統派ユダヤ人のピクニック(「ユダヤ祭り」)では、人々はトリポリからの人形遣い(カラコザティ)を鑑賞。

 また、何かの宗教祝い事の時には、例えばアレッポ出身のユダヤ系ウード奏者の演奏会や、カイロからやってきた劇団によるやサラディン史劇やロミオとジュリエットの物語の舞台を、宗派民族の垣根関係なく、全員が共に楽しみました。

 こういった当時のエルサレムについてワシフは
『さまざまな民族や宗教のアイデンティティの「ハイブリッド」世界』
でした」

 つまり言うまでもなく、イスラエル建国以前、エルサレムでは異なる宗教の人々が共に各自の宗教行事を祝っていた、イスラエルの「以前はエルサレムは空っぽの街だった」という主張を覆す貴重な証言です。

兵役を逃れて

 第一次大戦が始まると、フセイニ・エルサレム市長は宗主国のオスマン帝国が崩壊寸前であることを深刻に考えました。

「こうなったらアラブ民族主義支持にシフトチェンジし、シオニスト阻止抵抗措置を続けながらも、パレスチナとシリアの統一を目指していこうではないか」

 崩壊するオスマン帝国の道連れにならず、かといってパレスチナをユダヤ人に乗っ取られないようにするためには、隣のシリアを同盟を結び、アラブ連合国を結成するしかない、と考えたのです。

 そんなフセイニ・エルサレム市長は友であり部下でもあるジリスの息子のワシフのことも、非常に可愛がっていました。

 だからプロの音楽家を目指すワシフ少年のために、レバノン、エジプト、シリア、トルコ、ロシア出身らの著名な音楽家たちをエルサレムに招き、そういった音楽家から指導を受けられるようにしてやっていました。

 その結果、めきめきとウード演奏の腕を上げたワシフ少年のことは、口コミで広まっていきました。と、ついにエルサレムラジオ放送から声がかかり、少年はラジオの収録でオーケストラと共演を果たしました。

 この時の興奮した経験が「一生音楽をしていこう」とワシフが決心をした直接的なきっかけになりました。

 さて、いよいよ第一次大戦が激化しました。 
 ワシフの二人の兄は兵役に連れて行かれ、オスマン帝国は、敵国イギリス系学校全部を閉鎖させました。おかげでせっかくそこの学校に編入したワシフは卒業できなくなりました。

 かといって別の学校へすんなり編入することも難しい状況であったため、「ぶらぶらさせているだけじゃだめだ。とりあえず理髪師の見習いにも出そう」

 理髪師といっても当時は割礼や出産も手掛ける「クリニック」で、床屋が簡単な医療行為ないしは割礼やお産の手伝いなども行っていました。昔のエジプトやパレスチナでは床屋または美容院は「病院」ではないけれども、「クリニック」を兼ねていたのです。

 だから、ワシフ少年もガラス容器などを用いて皮膚を吸引し、その部分を鬱血状態にすることにより血行促進や老廃物の排出を促す伝統医療カッピングやヒルの塗布など習いました。

 しかしです。
「ああつまらない、全然興味が沸かない」

 相変わらず興味は音楽のみでした。そこでついになんと。自分で染料の粉末の缶から楽器を発明し、それをウード代わりに見立て、独自に工夫をし音を奏でました。


 そんなある時でした。
 見知らぬモロッコ人の老人がカボチャ、木片、動物の皮を使って、手作り楽器を演奏するのを見かけました。
「凄いなあ」
 興奮し、思わず声をかけ、その楽器の作り方や弾き方を教わりました。

 これがきっかけで、もっと本格的な楽器を発明することに夢中になり、同時に作曲活動も始め、理髪店に通うのをさぼりだしました。


 そこで、親は今度はワシフをフセイニ市長の下で働かせました。仕事内容は、パレスチナとトランスヨルダン間の穀物貿易を管理でした。

 当時、貿易は死海を渡る「はしけ」(本船と波止場(はとば)の間を行き来して乗客・貨物を運ぶ小舟)の上で行われていました。他にルートがまだなかったからです。

 穀物はオスマン帝国兵士の食糧として配達され、商売は繁盛しました。ただしアレンビー将軍の英軍およびオーストラリア軍に妨害されるまでの話です。

 戦争がまだ続く最中。
 ワシフの父親ジリスが他界しました。本を読むと、この葬儀の規模や顔ぶれから、ジリスがいかに地元の名士だったか、伺えます。

 ショックを受けた母親はすっかり気落ちし、それを見たフセイニ市長は心を痛め、

「もっと母親のそばについてやっていたほうがいい」
 と、末っ子のワシフを自宅から通いやすいエルサレム市役所の事務員に抜擢してやりました。

 その仕事内容は寄付金を記録するだけだったので、毎日早い時間帯の定時に帰宅できました。
 おかげで母親孝行はもちろんのこと、音楽作業にも時間が割けるようになり、曲作りやウード演奏の練習に励みました。

 しかし第一次大戦の状況がより悪化すると、そんな日々にさよならを告げることになりました。オスマン帝国がついに未成年にも徴兵をかけたからです。ワシフはオスマン帝国海軍の音楽隊に入隊しました。


【1915年】
 
ところで、40年ぶりにイナゴ(バッタ)の大襲来が起こり、パレスチナは食糧難に陥りました。

 宗主国オスマン帝国は隣国ヨルダンから、この地に食料を届け始めていましたが、敵国イギリスのアレンビー将軍がそれを妨害をしてきました。
 将軍は現代のオーストラリア空軍の前身である、オーストラリア航空隊第 1 飛行隊を攻撃を仕向けたのです。

 あとは想像通りです。オーストラリア軍とパレスチナ人らの徴兵たちも加わるオスマン帝国軍は激しい戦闘になりました。「死海」も戦場になりました。

 ところが、死海では体がぷかぷか浮きます。他の海のように海水浴もできません。つまり船も簡単に転覆しやすくなります。

 通常の海のように、航海もできませんので、ジグザグ運行するなど工夫をせねばなりませんから、死海での戦いは、不慣れな英軍オーストラリア軍にとって非常に難しいものとなりました。

 死海付近にはオスマン帝国海軍の兵舎が設けられ、夜の食事時に音楽隊が音楽を演奏しました。ここで兵士たちが驚いたのが、音楽隊のメンバーであるワシフ・ジョハリアのウードの奏でした。

「なんて心に染みる旋律なのだろう」

 腕前はプロ以上に上手であり、ワシフの演奏する曲は非常にユニークで個性的で光るものがあったのです。

 すぐにワシフにあだ名がつけられました。「ウード将軍」です。

 死海のオスマン海軍のキャンプは、毎晩「ウード将軍」のウードの演奏が響き渡り、兵士たちの心を鷲掴みにしました。

 
 任務を終えエルサレムに戻ると、ワシフはフセイニ市長の口利きで、法務省の裁判所書記官として働き始めました。比較的、短い時間の勤務体制で、給料の良い仕事でした。

 また、海軍音楽隊で知り合った人間を通して、ワシフはエルサレム駐留のトルコ軍楽隊に所属していたオマール・アル・バトシュに出逢いました。バトシュはシリアの名ウード奏者で、超がつく有名音楽家です。
 このバトシュの手ほどきを受け、ワシフは初めて古典的なムワシャハットの演奏法を教わり、音楽の技術をさらに身につけました。

【1918年1月】
 フセイン・アル・フセイニ・エルサレム市長が息を引き取りました。
 この前月、降伏状をイギリスになかなか受理されず、寒い冬空の下を歩き回らされたせいで風邪をひき、肺炎になり亡くなったのです。

 亡くなったフセイニ市長はワシフにとっては最大の恩人であり、自分をずっとかわいがってくれていた第二の父親のような存在でもありました。

(省略しましたが、実際父親ジリスが亡くなった後、市長はワシフ自分の養子にしています。多分、オスマン帝国による徴兵をうまくかわすためだったかもしれません)

 だから、市長が死んだ後、せめてもの恩返しとして、ワシフはフセイニ未亡人の財産管理を無償で手伝い続けました。

 
 フセイニ市長の死後、アレフ=ダジャニという男が新しい市長に選出されたものの、バルフォア宣言を受け入れず、パレスチナがシリアと合併しアラブ連合国の樹立を主張し、さらに

「我々が彼ら(ユダヤ人)と理解し合うこと、あるいは彼らと共存することさえ不可能である…彼らの歴史と過去すべてが、彼らと共存することが不可能であることを証明している。彼らが現在いるすべての国において、彼らは歓迎されず、望ましくない存在である。なぜなら彼らは常にあらゆる人々の血を吸い、経済的、財政的に勝利するためにやって来るからである。国際連盟がアラブ人の訴えに耳を傾けないなら、この国は血の川となるだろう。」

 アレフはイギリス植民地当局に「陰謀家」と認定され、再びフセイニ家の人間が次の市長に選ばれることになりました。
 その結果、オスマン帝国大学を三番目の優秀な成績で卒業しているフセインの弟のムーサ・アル・フセイニが指名されました。

ムーサ・アル・フセイニ

西エルサレムでカフェバー開業(1920)

【1918年】
 オスマン帝国が実質上消滅し、エルサレムは英国領に入りました。エルサレムの街には大勢の英軍兵士やシオニストが入って来ました。アメリカの文化も入ってきました。

 ワシフは西エルサレムのヤッファ通り近くに、先端の流行のテイストを取り入れたカフェバー『ジョハリア』を、兄の一人と共同でオープンしました。

 『ジョハリア』はたちまち人気になりました。成功した理由は2つあり、 1つ目は料理です。

 さまざまな小さなお皿に盛り付けられたおいしいメッゼ料理(東地中海におけるアペタイザーまたは軽食の一種)が、ウェイターによって冷たい水の入ったグラスとともにスタイリッシュに顧客に提供されました。これは当時のエルサレムでは見られなかったことでした。

 成功の2つ目の理由は、新エルサレム市長がコネを使い、開店してすぐにアラブ諸国の王族や有名スターらを招いてくれたからです。

 ワシフ自身もカフェバーで数多くの歌をウードで演奏し歌も披露し、ますます彼はミュージシャンとしても有名になり、そのうち様々な結婚式などで演奏して欲しいと声がかかるようになりました。

 演奏をオファーしてくるのはアラブ人だけではなく、ユダヤ人街で一週間続くパーティーにも呼ばれたりしました。
 ワシフがアラブ人のクリスチャンであることにこだわる客は皆無で、誰もが純粋にワシフの腕前を気に入り、演奏を注文してきたのです。

 ある時、ワシフはイギリス軍総督ロナルド・ストーズの前で
「アラブの大団円と差し迫ったシオニスト支配の緊迫した歌詞の歌」
の弾き語りもしました。ようはアラブ人の抵抗と怒り、そしてシオニストの横暴さを、皮肉たっぷりに滑稽に歌った弾き語りです。

 なんと、ストーズ将軍が腹の底から泣いて大声で笑いました。イギリス人はこの手のジョークが好きですから。

【1920年】
 今度はワシフの最愛の母親が肺炎で亡くなりました。

 末っ子のワシフは母親に溺愛されていたこともあり、ショックのあまり極度のうつ病にかかりました。そのせいで、カフェバーに出られなくなり人前でウード演奏もできなくなりました。

 ところでこの年、エルサレムで「初めての」アラブ人によるシオニストへの大規模なデモ抗議と暴動が起こり、ムーサ・アル・フセイニは責任を取って市長の座から降ろされることになりました。


 英国委任統治当局はムーサを解任させた後、代わりに新しいエルサレム市長として、ラギーブ・アル・ナシャシビを指名しました。

 アル・ナシャシビ家はエルサレムでアル・フセイニ家に次ぐ名家で、両家はライバル関係でした。当然、市民も「フセイニ家派」「ナシャシビ家派」と分かれています。

 よって全く第三者が後任に選ばれるならまだしも、天敵のナシャシビが新エルサレム市長に抜擢されたことに、フセイニ家もフセイニ家寄りの人々も怒りをおぼえました。

 エルサレムの市長はフセイニ家の人間が務めるものという伝統があったので、エルサレム市民の間で対立が深まりました。これがイギリスの真の狙いでした。地元のアラブ人を結束させず、仲たがいさせたかったからです。


 イギリスに抜擢された、新エルサレム市長のラギーブ・アル・ナシャシビは父親からかなりの富を受け継いでいる、ぼんぼんでした。

 身に着けるスーツは常にロンドンとパリの最高の仕立て屋からのオートクチュールで、それにオスマン帝国トルコやイギリスから取り寄せた高級ステッキの膨大なコレクションも持っており、その杖の多くには象牙のハンドルと金のバンドが付いていました。

 実際、彼は非常に洒落た男で、毎朝家を出る時には必ずぱりっとした上質な赤いトルコ帽を被り、選んだスーツの色に合わせて、その日の杖も選ぶほどでした。

 そして背筋を伸ばし、粋に高級杖を持ち、アメリカの大型車フォードのリムジンに乗り込み、ボディーガードはその前席に座らせ、自分は広い後席にゆったりと座り、高級葉巻を吸いながら市役所へ出勤しました。
 この光景を知らぬエルサレムっ子はいないほど、「名物」場面でした。

 この男を新エルレサム市長として、イギリスが選んだもう一つの理由は、ナシャシビ自身はムスリムだけども、彼の妻たちがムスリムではないのが大きかったからです。

 そう、 ナシャシビの第一夫人はコンスタンチノーブル出身で、離婚歴と出産歴のあるのローマ・カトリックのトルコ人女性でした。

 彼女はとても美しく、非常に有能で社交的であり、素晴らしい品格と国際的な感覚をそなえた女性でした。語学も達者でフランス語、イタリア語、英語に加え、トルコ語、アラビア語を話しました。

 周囲は
「妻を改宗させろ、ムスリムにさせろ」
とうるさく言ってきましたが、ナシャシビは決して彼女に宗教を変えるよう迫ることはなく、偏狭な反対派の批判をいつだって聞き流していました。

 ムスリムでないことに眉をひそめられながらも、社交界の女王であった彼女の住むスコーパス山の斜面にある邸宅には、いつだって来客でにぎわっていました。

 この邸宅はもともとラギーブの父親によって建てられたもので、旧市街と16世紀のスルタン・スライマンによって建てられた蜂蜜色の壁の素晴らしい景色を眺めることができました。

 オリーブやヤシの木が生い茂るその庭園と敷地は途方もなく広く、邸宅の内部は東洋と西洋のスタイルが融合した内装で、メインのサロンの天井からはトルコ製の大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられていました。

 しかし実のところ、第一夫人はただの「お飾り」でした。

 ナシャシビはお金持ちですから、もう一人妻がおり、その第二夫人はフランス出身のユダヤ人で、事実上の「女帝」はこのユダヤ人妻の方で、イギリスはそこに目をつけたのです。

 第二夫人はカントゥーラ通りの左側にある路地に邸宅に住んでおり、ナシャシビは大勢の客人は第一夫人のいる邸宅に招き、個人的に親しくしている友人はこちらの第二夫人の家に招待していました。その顔ぶれには非アラブ人のユダヤ人も多くありました。

自宅の真横に英軍基地。毎日「命がけ」の帰宅

 代々エルサレム市長を輩出してきたアル・フセイニ家の方は巻き返しを狙い、「イスラム最高評議会」を設立しました。

 そして、英国当局と平和的な関係を維持しつつ、シオニストが土地を乗っ取ることを阻止する試みを何度か行いました。

 それにフセイニ家はモスクとイスラム学校を改修し、アル・アクサ・モスク、博物館、大きな図書館、孤児院の設立、医療施設の拡張、これらすべてを行いました。
 もちろん、寄付金は大いに活用していました。つまり、フセイニ家は実質的な街のリーダーであり続けようとしていたのです。

【1924年】
 ワシフは妻を娶りました。母親を亡くして辛かった時を支えてくれた女性で、ジェリコでホテルを経営していたサリバ・サードの娘、ヴィクトリア・サードです。彼女もやはりクリスチャンのアラブ人です。

 実は彼がカフェバーを経営したのも、彼女の父親が
「ただの音楽家には娘を嫁にやれん」
と反対していたからです。よってその経営が完全に軌道に乗ったタイミングで、正式に求婚し結婚しました。

 幸せでしたが、1930年代半ばに入ると、情勢が悪化しました。パレスチナ全体が混乱に陥り、聖地エルサレムへの観光客は減少。

 アラブ人に対する差別は深刻化し、アルアクサ(モスク)への攻撃、アパルトヘイトの壁の建設、ジェノサイド、パレスチナ人を差別する40以上の法律の発行がなされました。オスマン帝国支配下時代にはなかったことです。

 多くのアラブ人がエルサレムを去って行きました。しかしワシフは、有刺鉄線で囲まれたゾーン2の地区に妻子と住み続けました。

 ところがです。
 ある日、突然、自分たちの家を囲む壁の隣に、イギリスの軍事基地が建てられました。事前に説明も承諾も一切ありませんでした。
「何か建設しているな」
とは思ってはいたものの、まさか民家の真横に軍事基地だとは…。

 ワシフはこう語っています。

「何しろすぐ隣に英軍基地ができたものですから、彼らの動きが手に取るように分かるようになりました。
 英軍は毎日ヤッファ門とダビデの塔でアラブ人を監視し、モンテフィオーレ地区ではユダヤ人を監視していました。さらに英軍は昼も夜も発砲をし続けていました」

 案の定、ワシフの家は英軍と、英軍に反抗するアラブ人ユダヤ人との銃撃戦に巻き込まれるようになり、毎日、家に帰るのも「命がけ」になりました。

「実際に、 私たち一家も英軍には何度も発砲されました。私たちが生き延びたのは、ただのまぐれです」

 しかもです。ワシフと彼の妻子が外出し、安全地帯に入って家にたどり着くには、(ユダヤ系エジプト人が設立し、スイス人のチャールズ・ベーラーが建設に関わった)キング・デイビッド・ホテルの前を通らなければなりませんでした。

 のちにエジプトのサダト大統領と和平を結ぶ舞台となるホテルですが、キング・デイヴィッド・ホテルがある地域はモンテフィオーレ地区のユダヤ人入植者による火災にさらされており、そこを歩く者はイギリス軍によって全員発砲されたため、ここも常に危険が伴いました。

「自宅にいても一歩外に出ても銃で命を狙われ、寝室のベッドで眠りにつこうとしても、外から発砲音ばかり響いてくるのです。
銃の音は本当に響きますから、騒音も甚だしいです。自宅が戦場のどまんなかにあるようなものでした」


【1937年】
 アラブとシオニストユダヤ人の諍いは激化し、遂にイギリスがパレスチナをアラブとユダヤで分割することを決定、パレスチナが分割された同年には、エルサレムの街に初めてユダヤ人市長が誕生しました。

【1937年11月】
 ワシフはメモにこのように書き記しました。
「パレスチナを分割してユダヤ人の祖国を創設することを約束した分割計画の「不吉なニュース」が発表されました。 
 私たちの家(旧市街の外)は戦略的な場所にあったので、地域全体で起きている何もかもを目撃しました。

 例えば、英国軍と委任統治領のユダヤ人警察の部隊が、将校リンカー氏の指揮の下、若いユダヤ人たちを連れてきてアラブ人の店から絹や毛織物らの商品を略奪し、そしてそこを焼き払う場面も何度も私はこの目で見ました」

 
狙撃兵と反イスラエル建国派との銃撃戦も激しくなり、ワシフは遂に妻子を連れてエルサレムを離れることにしました。

 その際、自宅はフランスの領事館に貸すことにし、ワシフらがエルサレムに戻った時に「返す」という約束も交わしました。
 先に言うと、この約束は反故され、サイン入りの契約書があるにも関わらず、ワシフは二度とエルサレムの自宅を取り戻すことはできませんでした。


 蛇足ですが、1948年5月イギリスがパレスチナから撤退するまでに、エルサレムとその周辺の村々から7万人以上のパレスチナ人が、同月のイスラエル建国に先立つ暴力から逃れるために亡命を余儀なくされたり(強制されたり)、もしくは放置されています。

ベイルートからウードの奏の音色

 イスラエル建国樹立間近に迫ると、エルサレムのアラブ人居住区15地区のうち12地区がシオニストに支配され、その結果、多くのアラブ人は強制退去になりました。

 すでにワシフも妻子を連れてベイルートへ逃げていましたが、ある時、レバノンのパレスチナ難民の間で、こんな声が上がりました。

「ワシフは第一次大戦中、軍隊でリュード将軍と呼ばれ、兵士たちの心を慰める素晴らしい演奏を行っていた。
 ここで再び、レバノンに逃れた同胞全員に、そのリュード将軍の演奏を聴かせたい

 そうしてエルサレムから亡命してきた彼らが動き、ベイルートのラジオ放送番組にワシフを生出演させてほしい、レバノン全国に彼の演奏を流して、自分たちアラブ人難民(移民)全員に届けて欲しいと頼み込みました。

 これは実現しました。ワシフはオーケストラの演奏に合わせ、エルサレムで愛された古い曲の数々をウードの弾きながら、しっとりと歌いあげたのです。

 このラジオ放送を聴いた、レバノンにいるエルサレムの難民のアラブ人たちは、音量を上げて真剣に耳を傾け、心を震わし涙しました。
 「The Storyteller of Jerusalem」の本はこのあたりで終わります。



【1972年】
 主人公、音楽家ワシド・ジャファリエは結局この年に亡命先のレバノンのベイルートで亡くなりました。
 それは、イスラエル空軍がシリアとレバノンのPLO基地を攻撃した年でした。彼は二度と故郷に戻れることはありませんでした。

 余談ですが、ワシフの孫の一人、ジェームズ・モランがイギリスの外交官と大使になり、その娘、つまりワシフの曾孫娘であるレイラ・モランは現在イギリスの国会議員になっています。(2020年から2024年現在)


 最後に…

 かつてはエルサレムの市長を次々に出したフセイニ家と、イギリスによって新しい市長を輩出することになったナシャシビ家は反目しあっていましたが、イスラエル建国後は、共に手を取り合いアラブ高等委員会(パレスチナ人のための政治団体)を立ち上げ、シオニズムに抵抗をし続けました。

 フセイニ家最後のエルサレム市長ムーサ・アル・フセイニは1930年代に、大規模なデモに巻き込まれ、イギリス警官に何度も打撲されました。すでによぼよぼの老人だったのに。
 即死ではなかったものの、その後間もなく息を引取りました。

 彼の息子のアブドゥールはカイロ大学で政治を学んだ後、抗シオニズム活動に身を投じました。反ユダヤではなく、あくまでもシオニズムに対しての抗議活動でしたが、それはゲリラ化していき1948年、殉教者になりました。(戦いで死亡した)

 一方、ナシャシビのトルコ人クリスチャン第一夫人は亡命先エジプト・アレクサンドリアで亡くなり、ユダヤ教徒のフランス人の第二夫人はニースで息を引き取りました。

 第一夫人が住んでいた豪華な邸宅は取り壊され、そこにはアンバサダーホテルが建てられました。現在もあるはずです。

 代々エルサレム市長を輩出してきたアル・フセイニ家のいくつかの立派な屋敷はイスラム建国後、取り壊され公園やシナゴーグにされ(*諸説あり)、ナシャシビ家の建物も同じです。 
 

アブドゥール・ムーサ・アル・フセイニ

感想



 この本の主旨は決して反イスラエルでもなく、昔の良きエルサレムの日々を純粋に伝えたいというものです。19世紀終わりのオスマン帝国最後の頃からのエルサレムの様子を、実際にそこで生まれ育った人物による貴重な証言です。いつか和訳出版されますように…。        



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