テルアビブ(春の丘)の誕生〜トーマス・クックシリーズ ⑯
映画「アラビアのロレンス」
1900年
出資はドイツ銀行、勅命はオスマン帝国のスルタン、ハミド2世によってヒジャーズ鉄道が建設されました。ダマスカスから(その後の)サウジアラビアのメディーナまで結ぶ鉄道で、将来的にバグダッド鉄道と繋げる計画もありました。
しかしこのヒジャーズ鉄道は未完成で終わりました。映画「アラビアのロレンス」でロレンスたちが襲撃しましたね…。
さてさて。
少し前に随分ひさしぶりに「アラビアのロレンス」(1962)の映画を見ました。昔は気が付かなかったあれこれを今回、初めて気づきました。
例えば、第一次大戦時のカイロのイギリス軍の司令部はサヴォイホテルだったのですが、映画ではその内部を見事に再現していたこと。
とはいえエジプトでは一切撮影はされておらず、ロケはイギリス、スペイン、アルメニア、モロッコ、ヨルダンでした。
エジプトロケができなかったのは、恐らく「アラビアのロレンス」の映画の内容そのものがアウトだったからに違いありません。
かたや同時代、石原裕次郎の映画「アラブの嵐」(1961)はエジプト・オールロケです。
当時、日本はアメリカと同盟を結んでいるのにも関わらず、ソ連寄りだったエジプトのと貿易協定を大事にし、親密な関係を保っていました。
だから、ナセル大統領下のエジプトはバルフォア宣言に至る内容を描いたイギリス映画「アラビアのロレンス」ロケには撮影許可を出さず、裕次郎の日活映画はエジプトロケを許可したのではないでしょうか。
ロケ地の話はさておき、第一次大戦ではイギリス軍に、大勢のインド人部隊とオーストラリアとニュージーランド部隊も加わっていました。
ところが映画「アラビアのロレンス」では、白人のイギリス人兵士しかでてきません。史実映画であるはずなのに…。
あと英軍の描き方が惜しい!
在エジプト英軍と在インド英軍のスタンスは異なっており「オスマン帝国を滅ぼす」というのは同じでしが、滅ぼした後、アラブのどの部族をパレスチナ地域の新しいリーダーに立てようか、、、この考えが違っていました。
同じ英軍司令部なのに、エジプトの英軍司令部とインドの英軍司令部では意見が食い違い不仲だった関係も描いていたら、もっと面白かったと思います。
しかし、「アラビアのロレンス」の映画の中で、アカバの襲撃シーンでは、みんながてんでんばらばらの方向を見ているだとか、しかもはっとした時にはああ大砲が…!この演出は見事です。
中でも最も象徴的で記憶に残るシーンの 1 つは、 ロレンスがスエズ運河に到着するロングショットです。
広大な砂漠の風景を背景に彼のシルエットが描かれています。このシーンは、砂漠の雄大さと孤独を捉えていると同時に、ロレンスの複雑な性格と風景との関係を強調しています。
映画「アラビアのロレンス」。トーマス・クック旅行社も出していれば、より完璧だったかな!
エルサレムの土産店の発展
19世紀後半から、エルサレムのヤッファ門近辺は繁華街になっていましたが、1898年にヴィルヘルム2世ドイツ皇帝が巡礼にやって来た後、ヤッファ門は大きく拡大工事をされ、周辺の繁華街もより活気に帯びました。
この門からは街の中の至る所へアクセスしやすい便利な場所に位置しているのですが、ボウロス・メオ・ストアやアメリカ植民地のベスター・アンド・カンパニーなどの骨董品や土産物店、それにトーマス・クックやアワド・トラベル・エージェンシーなど、外国人や地元住民が経営する旅行代理店に多く立ち並ぶバザール(土産店)が軒を並べていました。
そして1860年以降、ヤッファにもアルメニア人ネットワークにより、地元の写真スタジオがいくつも設立されました。
コンスタンティノープルでもカイロ、バグダット、そしてエルサレムでも「写真館イコールアルメニア人経営」でした。
20世紀に入る頃、トーマス・クックの巡礼ツアーでは、まず聖墳墓教会とゴルゴタの教会を見学し、東門へ出るのが最初のコースでした。
するとそこの狭い通りの両側には、巡礼者向けの小さな店や屋台が並んでいました。
陳列されているのは、宗教的および商業的なイコン絵画、オリーブの木の彫刻の置物にオリーブの木と螺鈿で作られた十字架やロザリオ、聖地の風景画、十字架が描かれた石や押し花、絵葉書、聖書の場面を描いた明るい石版画。
それからロシア皇帝とツァリーナの肖像画、十字軍の十字架が型押しされた平らな瓶に入ったヨルダンの水、色が塗られた小石や砂が綺麗に詰め込まれているヨルダンの瓶。
そして十字架が描かれたガリラヤ、カードに押し花、聖墳墓で祝福された線香と小さな工芸品、スピナクリスティの棘の植物などが所狭しに売られていました。
このスピナクリスティの丈夫な棘は、手の中で束ねられた指のように見えましたが、水に入れると開いて大きな植物になりました。
中でも一番人気があったのは螺鈿(らでん)彫刻物でした。19世紀にベツレヘムで発達した工芸品です。
興味深いのはエルサレムの土産店の主たちは
「外国人観光客(巡礼者)にとって、どのような聖地土産が気に入られるのか?」
ということが最初まったく見当もつかず、なんとそのうちの何人かはわざわざロンドンまで渡り、外国人がエルサレムにどういうイメージを持ち、どのような土産品をイメージしているのかリサーチをしています。
その結果、エルサレムとは直接的に関係のない、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のレプリカ絵画まで販売し、実際よく売れました。
「イスラエル建国の父」ヘルツルの死
旅行業の発展の一部として、土産店もどんどん栄えていっていた20世紀のエルサレム。
オスマン帝国のスルタン・ハミド2世はすでに外国人による聖地への移住に厳しいを制限かけていましが、今度は外国人の観光目的入国についての条件も付ける導入を開始しました。
特にユダヤ人のパレスチナ入国には厳しく目を光らせました。彼らだけは職業、国籍、入国の理由を細かく示す書類とパスポートを携帯することが求められたのです。
単なる観光目的でも、すべてのユダヤ人入国者には「赤色許可証」を携帯させ、パレスチナに到着した際に当局によってそれは検閲され記録されました。滞在日数が30日間の期間を経過した場合、いかなる理由があっても強制送還されました。
それにもかかわらずです。オスマン帝国は彼らの移住の流れを阻止することはできませんでした。
その最大の理由は一言でいえば、あまりにも賄賂で懐柔されるオスマン帝国の役人が多過ぎた。いくら厳しく制限をかけても、それを守らない役人だらけでした。
結局それはユダヤ人による土地購入や起業促進に繋がり、1902年にはパレスチナに初めてのヘブライ語の大学が創立、アングロ(イギリス)・パレスチナ銀行が誕生。1903年にはヤッファに最初の支店が開設されました。
だけども、国家樹立となると話が違います。イスラエル建国はなかなか実現しそうにもありません。
そこで1903年、ティルヴァル(テオドール)・ヘルツルは東アフリカ(ウガンダ)に大規模なユダヤ人自治入植地が設立する話を具体化的に開始しました。
なぜウガンダに白羽の矢を立ったのかといえば、英国領土だったこと、そこで綿栽培やさとうきび畑を耕せると踏んだからでした。
ところが、農業の基本である「水」問題がひっかかりました。エジプトの「ナイル」のように水に恵まれた地域ではないのです。そのため、遠方から水を敷くことも検討しましたが、現実問題、それも難しく断念しました。
そんな矢先の1904年-
ヘルツルはオーストリアのライヒェナウにて、心臓硬化症により亡くなりました。結局、イスラエル建国樹立をその目で見届けることができませんでした。
葬儀には6,000人以上のユダヤ人および非ユダヤ人が棺の後ろを行進しました。
ヘルツルの死の翌年1905年、第6回シオニスト会議が開催となり、最終決定が行なわれました。
「やはり東アフリカよりも、聖地パレスチナにユダヤ国家を樹立する方が良い選択である」
しかし問題はまだ山積みで、その一つはパレスチナは依然としてオスマン帝国の領土であり、スルタンのアブドゥール・ハミド2世には頑なにそこの土地を手放す意志がないことでした。
オスマン帝国スルタン・ハミド2世、ついに廃位される
「The Last Emperor: Abdul Hamid II (2017) Payitaht Abdülhamid」
ユーチューブに字幕入りで全編上がっています。トルコ製作の大河ドラマです。
エジプトドラマの「サライ・アブディーン(アブディーン宮殿)」はお粗末でしたが、さすが世界で人気の高いトルコドラマ。クオリティーが素晴らしい。「ラストエンペラー・アブデュール・ハミド2世」、良かったです。
これは短い予告編↓
すでに暗殺に狙われたこともあるハミド2世ですが、何とか生き延びて踏ん張っていたものの、シオニスト機構からは相変わらず、「甘い誘惑」が続いていました。
「オスマン帝国の借金を全部、こちらが負担する。今後も帝国に良くしていく」
だけどもハミドは頑として突っぱねていました。しかし、ついに敗北します。
ヘルツルの死の4年後の、1908年7月に起きた青年トルコ革命(クーデター)によりスルタンの座から退位を強要されたのです。
このクーデターの背後にはユダヤ人のシオニストグループがいました。実際に青年団を後援し資金を提供していたと判明しています。
ハミド2世はドイツの銀行にかなりの財産を持っていたのですが、廃位させられると、彼らにその銀行口座からの送金をブロックされ、さらに追放されたテッサロニキ市では、非常に劣悪な環境に置かれました。
その地からシェイク・アブ・シャマットに密かに宛てた書簡の中で、ハミドは自身の廃位の理由を述べています。
「(オスマン帝国が)パレスチナとエルサレムを失ったのは、パイ(不正利益)を手に入れるために、英仏軍と手を組んだ連中によるものだった。
オスマントルコの解体は、植民地勢力と悪魔のような取引をした尊厳も独立ももたない連中のせいだったのだ」
テルアビブ(春の丘)の街が誕生
ハミド2世の失脚の翌年の1909年、すでにユダヤ人の土地になっているヤッファ(「美しい」の意味)の所に新しい街が誕生しました。
ヤッファはオスマン帝国支配以前にも、例えば紀元前1470年にエジプトのトトメス三世、カナン人、アッシリア人、ペリシテ人、バビロニア人、ローマ人、フェニキア人、ビザンチン人、プトレマイオス人、十字軍、
そしてマムルーク人、エジプトのイブラヒーム将軍などにも支配されており、古代エジプトの文献とヘブライ語の聖書にも登場している地域です。
ヤッファに出来た新しい街は、ヘルツルが執筆した「アルトノイランド」(「古い新しい土地」)のヘブライ語のタイトルから借用され、「テルアビブ」と名付けられました。テルアビブとは「春の丘」の意味です。
もしハミドが在位していても、この街は誕生したのか…。したんでしょうね、きっと。
オスマン帝国を権力を掌握したトルコ人青年団は、ハミド2世が所有していた私有地を国有化し、そして自分たちのパトロンのシオニストたちを喜ばせるために、パレスチナへのユダヤ人の移民を許可しました。
するとです。
大変な事になりました。一気にユダヤ人がなだれ込んできて、歯止めがきかなくなったのです。テルアビブの街の誕生もこの流れの一環でした。
トルコ人青年団は事の重大性に気づき、慌ててパレスチナの外国人への土地売却を禁止しました。しかし事態はすでに収拾がつかなくなっていました。
1908 年から 1914 年にかけて、ユダヤ人は 50,000 エーカーの土地を購入し、10の植民地を設立しました。1913年、ロスチャイルド家は国庫の土地を購入しました。
国勢調査によると、パレスチナに住むユダヤ人の数は、1881年に9,500人、1896年に12,500人、1906年に14,200人、先の1914年には31,000人になりました。
ユダヤ人入植増加により、パレスチナにおける彼らのシオニズム運動が拡大すると、それはフリーメイソンにも影響を及ぼしました。
アラブ人のフリーメイソンメンバーは以前まで、ユダヤ人メンバーと同じロッジで親しくしていたのにも関わらず、世相を反映し、両者の間の空気が険悪になり対立が深まったのです。
その結果、アラブ人のメンバーはエルサレムロッジを離れ、エジプトのロッジまたはパレスチナに新たに設立した、アラブ人で占められたロッジへ移りました。
最後のエルサレム市長、そしてスエズ運河戦争とイナゴの襲来
ここで初めて登場します、エルサレム市長!
オスマン帝国領パレスチナのエルサレム最後の市長は、フセイン・ベイ・アル=フセイニです。「ベイ」はファーストネームに付けるオスマン帝国時代の称号です。
彼は代々のエルサレム市長を輩出しているフセイニ家の出で、父親も叔父もかつてエルサレム市長を務めていました。フセイン・ベイ自身は1909年に同市市長に任命され、結局オスマン帝国領エルサレム時代の最後のエルサレム市長となりました。
フセイン・ベイ・アル=フセイニのエルサレム市長時代、街路の舗装や街の清潔化など、数々の改修が行われました。
フセイニは一貫してあることを市民に呼びかけ続けていました。
それは
「ユダヤ人、特にシオニストに土地を売らないでください」
オスマン帝国スルタンのハミド2世と同じ主張です。
もうひとつは
「かといってユダヤ人そのものを目の敵にしてはなりません。いわゆる普通のユダヤ人とシオニストのユダヤ人を分けて考えてください」
1914年3月、フセイニはエジプトの新聞『Al-Iqdam』の取材を受け、やはりこのように話しています。
「アラブ人、トルコ人、ユダヤ人の相互理解と協力をし合う時代です。我々は手を取り合い、新しいオスマン国を作らねばなりません。
ただしシオニストだけはパレスチナにとって真の脅威です。シオニストをそのほかのユダヤ人と区別し、用心せねばなりません」
言っていたことは、しごくまともに思うのですが、このアラブ人市長は今だに西側では評価が大変低いですね。
いよいよ第一次大戦が始まりました。
1882年以降、事実上のエジプトの支配者になっているイギリスは反英だった当時のエジプト副王アッバス・ヒルミー2世(母親がトルコ人貴族の出)を強制的に廃位、エジプトから永久追放しました。
法律上にはエジプトはまだオスマン帝国に属していたのに、イギリスは勝手にそのようなことをやらかしたのです。
この件でも怒ったオスマン帝国軍はパレスチナの若者たち…アラブ人、アルメニア人そしてユダヤ人全員を兵役につかせ、戦場・スエズ運河へ向かわせました。1915年1月です。
ドイツ軍主導でオスマン帝国軍はイギリス軍と戦闘を繰り広げました。
スエズ運河が戦場になった理由は、エジプトはまだオスマン帝国の領土であったのにもかかわらず、イギリス軍がそこを占拠したからです。
最終的にドイツとオスマン帝国軍側が敗北しました。その要因はいくつもありますが、兵士のアラブ人、ユダヤ人、アルメニア人らがトルコ人司令官に辟易しており、秩序が取れていなかったこともあります。
勝利者イギリス軍はスエズ運河にさらなる巨大な自分たちの軍艦を配備し、エジプトにおける地盤を強化し、オスマン帝国領エジプトはエジプト・スルタン国に変わり、エジプトの統治者は副王の称号から「スルタン」に変わりました。
もうオスマン帝国の属州ではなくなったため、エジプトの統治者による「スルタン」の称号使用に問題がなくなったからです。
一方、パレスチナ地方では、この後すぐに大きな災害が起こりました。イナゴの襲撃です。
1915年3月からイナゴの大群がシリアとパレスチナを襲い、田園地帯を破壊し、目に見えるものすべてを食い尽くし、卵も至る所に産み付け、疫病と飢餓が大規模に蔓延しました。
下の二枚の画像を比較してください。上の画像の木にイナゴの大群が押し寄せ、そのわずか30分後の画像が2枚目です。たった30分で葉っぱがすべてなくなりました。
バッタの大群が赤ん坊を襲い目玉をむさぼり食い、別の赤ん坊はバッタに顔ごと食べられ、地獄絵図になりました。果物、野菜、オリーブオイル産出もすべてパアです。
もともとスエズ運河の戦いで、多くの働き手の若者を失っていた上、この件で畑はすべて壊滅、経済はどん底に陥りました。もちろん、外国から継続して訪れていた外国人観光客・巡礼者も途絶えました。
聖地イコール観光地でもあります。すでに街の財政をずいぶんツーリズムに頼っていたものの、この収入もなくなり結果、推定10万から20万人が餓死しました。
女たちは仕方なく、オスマン帝国(トルコ)軍とドイツ軍相手に売春を始めました。すると今度は性病が国中に広がりました。
負の連鎖です。それでいて税収を上げられ、一部の横暴なオスマン帝国トルコ人の役人に食料や金品を略奪されました。当然、住民は支配者の我慢が限界に達し、彼らは抵抗と反乱を企てるようになりました。
エルサレムの賑やかなヤッファ門には絞首刑台が設置されておりますが、そこには次々と反抗的なアラブ人、ベドウィン、アルメニア人、ユダヤ人が連行され、首吊り処刑をされていきました。おそるべき人数でした。
こんな混沌とし悲惨な状況のエルサレムは、救世主を必要としていました。そこに、映画「アラビアのロレンス」では印象的な役割だった、エドモンド・アレンビー将軍がイギリス軍を引き連れ参上しました。
つづく
「ハバナギラ」の歌誕生まで進みませんでした。「ハバナギラ」は次回…!「フランダースの犬」の大聖堂も登場します🤣
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