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人の善意に疲れた時は…

私は「人の善意に居心地の悪さ」を感じた時、この記事を読みます。

noteユーザーならすでに目を通されているであろう、この記事。これがシェアできたなら、本投稿の9割方達成しているようなものです。
もう公開されて1年近くになり、書籍化もされている。マウンティングするしないという粗い議論でなく、人心の機微というか人間関係の微妙さを言語化したものとして見事だと感嘆しました。

啓蒙的な物言いが嫌われる世の中

私がこの20年ほどを振り返った印象ではありますが、「上から目線」という言葉が使われ始めたのと、「啓蒙的な文体」が嫌われ始めたのは、軌を一にしているように思います。「○○しよう!」などという声かけは影を潜め、抑制の効いた口調が動画投稿でも多いですよね。「俺は知っているから教えてあげる」感をかぎりなく薄めているというか、「自分はこうしたほうがいいと思います(それをするかしないかはあなた次第で構いません)」という態度です。
それは、水平的な対等な人間関係が好まれると同時に「他者の人生に責任など持てるはずがないのに、積極的に介入してくる居心地の悪さ」が広く認知されてきたからではないか。

お釈迦様のあっさりした態度

ここで、仏教の創始者・釈尊(ブッダ)に登場いただきたく。
宗教といえば、布教をはじめ、ひとの人生に積極的に介入してくる暑苦しさがあるかもしれませんが、お釈迦様の態度は、意外とあっさりしていました。
それが記された、釈尊と弟子の目連(もくれん)との問答を引いてみます(「中阿含経」)。

弟子 あなたが指導した弟子たちは、みな、悟りの境地に至ることができるだろうか。それとも至ることができない者もいるだろうか?
釈尊 友よ。私の弟子の中にも、そこまで至ることができない者もいる
弟子 では世尊(=釈尊の別称)よ。まさしく悟りの境地が存在し、そこに至る道があり、世尊が(悟りへと)導く師としてあるのに、どうして、至る者がいれば至らない者もいるのだろうか。
釈尊 友よ。ある人があなたを訪ね、王舎城への道を問うたとした。あなたは彼のために詳しくその道を教えるだろう。そして、ある者は無事に王舎城に至ることができるが、またある者は道を間違えあらぬ方向へさまようこともあるだろう。それは、なぜだろうか。
弟子 世尊よ。私は道を教えるだけで、それをどうすることができようか。
釈尊 友よ、その通りである。悟りの境地はまさしく存在する。そこへ至るる道はまさしく存在する。そして、私が導く師としてある。しかも弟子のなかには、その境地に至る者もあり、至ることができない者もいる。それを私が、どうすることができよう。私は、ただ道を教える者なのである。(訳文は増谷文雄『仏教百話』ちくま文庫を参照)

仏様自身が、私の弟子でも悟りを得られない者がいる、と言うのは、何とも清々しく思います。ここでも釈尊が弟子に「友よ」と語りかけていることが、水平的な人間関係を示唆しています。引用した書籍の著者で仏教学者の増谷文雄は、こう説明しています。

仏陀は、全能の救済者ではなくて、導師である。そのことが、「わたしはただ道を教える者」という一句のなかに、端的に語られている。(前掲書)

人に対する信頼の置き方

同じような話は、我が国の鎌倉時代の仏教者・日蓮(1222-82)の代表的な著作にもあります。

ある人が道を作った。その道に迷う者がいるからといって、それは道を作った人の罪となるだろうか。良い医者が薬を病人に与えた。その病人が薬を嫌って飲まないで死んだとすれば、それはこの医者の過失となるのか。
私訳。「撰時抄」。『日蓮大聖人御書全集 新版』(池田大作監修、『日蓮大聖人御書全集 新版』刊行委員会編、創価学会)161ページ、『新編日蓮大聖人御書全集』(堀日亨編、創価学会)257ページを参照。

人生を生きるのは、他ならぬその人自身であるという態度は、人間に対する信頼の置き方として、あっさりしているようで、誠実だと思います。

こと宗教に関しては、他人の人生に責任など持てるはずがないのに、色んな用語や教義を振りかざして、他者の生き方に土足で介入してくる人がいる。釈尊や日蓮は、そういう弊害には自戒的であったと思う。(前回の「苦諦」のくだりにも通じる話です)

私の友人には、お会いすると物腰低い方でありながら、書き言葉になると「不幸な人を救う」とか平気で使い、啓蒙も先鋭化した人がいるのですが、それはそれで、ということで。■

写真はお堀を泳ぐ鴨。公園は端的に平和を感じ取れる場所