譲るんです「34を迎え個人事業主になってみた」( ・∀・)

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    • 【ぼくたちの洗脳社会】

      ぼくたちの洗脳社会 ◆もくじ◆ 本書の読み方 3 【ぼくたちの洗脳社会】#1 本書の読み方 ◆本書の読み方◆ この本は、次のように大きく1章から5章に分かれています。 1章 今、私たちの社会は変化している。 2章 それはなぜか。 3章 変化して社会はどうなるか。 4章 その結果、私たち個人はどうなるか。 5章 でも大丈夫。 さて、この本を手に取って買おうか買うまいかと迷っているあなた。まず目次に目を通してみてください。 この文章と目次を読めば、この本のおおよその内容が

      • ◆「洗脳社会」

        さて、これまでで説明したように、今の私たちは科学も経済も自分たちにとって特別大事なものとは考えにくくなってしまっています。 この感覚は、別に私たちが(特に若者たちが)人生経験が浅く、苦労を知らず、甘やかされて育って、社会の厳しさを分かっていないからではありません。 むしろ「科学至上主義」「経済至上主義」の刷り込みが少なくなって、その分、新しい価値観の刷り込みが知らないうちに行われてきたから、以前の価値観に執着しなくなっているだけなのです。今から三十年後、現在の大学生が五十代に

        • ◆経済が輝いていた時代

          今の日本は経済戦争で一人勝ちし、貿易黒字は膨れ上がり続け、円の強さはとどまるところを知りません。が、こういったことを素直に喜んだり誇らしく思ったりする人はもういなくなってしまいました。 貿易黒字の発表される月になるとアメリカの顔色をうかがい、円高は不景気をさらに深刻化させる。経済の発展は私たちを不幸にした、と考えてしまう時もあります。 いくらGNPが上がっても円高が進んでも、私たちの生活は代わり映えしません。日本国内にいる限り、自分たちが豊かになったとは思いつかないぐらいです

          ◆では経済は死んでいないのか?

          で、もう一つの問題、「経済」です。 現在の若者は「経済」に関して不信感を持っている、と私はさっき書きました。 ここまで読まれた方には、「科学が信頼をなくしたのは分かる。しかし、経済は違うのでは? たとえば女子高生売春などの事件を考えると、若い世代は、より拝金主義になってるといえるはずだ」と考えた人も、多いのではないでしょうか。 しかし私は、こう考えます。 もし女子高生を含む今の若者たちが本当に拝金主義ならば、彼らの就職、結婚の対象は、もっと経済的に有利な方向へ向くはずだ。 が

          ◆社会自身の「理系離れ」

          たとえば学生の理系離れ、といった現象。 一昔前は成績の良い者、数学のできる者は当然のように理系の学部に進学しました。理系の学部を卒業して企業に入り、技術畑で成績を上げるのがなんといっても出世コースだったのです。 しかし今では理系を出て企業に就職しても、かえって不利だったりします。おまけに学生は、出世よりももっと自分らしさや自分の可能性を伸ばせる、おもしろそうな仕事を望んでいるのです。 原子力発電所問題も面倒です。 「夢のエネルギー??原子力」という宣伝文句で登場した原発。で

          ◆理系離れの「エコロジー問題」

          たとえば、今最も注目されている、エコロジー問題に対する私たちの考え方にも、それは顕著に反映されています。 エコロジー問題というのは、実は大変科学的にとらえやすい問題なのです。 大気中の○○含有量が○ppmだとか、オゾンの量がウンヌンとか、このままの増加率でいくと○年後には何ヘクタールの森林が丸坊主になるとか。 科学主義的に考えると、本来こういった科学的問題は、科学者がきちんと考えて、ベストの解決法を見つけてほしいもんですよね。 その上で政治家や官僚が、それらのデータに基づいた

          ◆マスメディアの親殺し

          三つ目は、科学主義を切り売りするマスメディアに対する不信。 ジャーナリズムを中心としてマスメディアは、一貫して科学主義の布教につとめてきました。 特に科学の申し子ともいえるTVは、「アポロ11号の月面着陸」の衛星放送をクライマックスとして、全世界に科学主義を布教するというめざましい力を発揮してくれました。オリンピックも万博も、世界の警察アメリカの活躍も、日本の高度経済成長も、みんなTVを通じて布教されたのです。 ところが、科学主義にかげりが見え始めると、マスメディア内の主張の

          ◆何が科学を殺したのか?

          私たちの心を冷まさせた、現実的な原因は大きく分けて三つあります。 一つ目は先ほど述べた科学自体の限界。 今後どんなに科学や技術が発達しても、私たちの幸せとは大して関係なさそうだということ。もちろん科学や文明がなんらかの原因で崩壊してしまえば、みんな不幸のどん底につき落とされるのは間違いありません。でも「不幸でない」のと「幸せになる」とは全く違う問題です。 二つ目は科学者を信じられなくなったということ。 昔の科学者はエジソンにしろ野口英世にしろ、英雄でした。科学者はその研究成

          ◆価値観変化の中心

          ここまでで、私の言ったことを少しまとめてみます。 (1)社会全体が巨大な変化の時期を迎えている。 (2)そのため、従来の価値観が全体として明らかに破綻しつつある。 (3)変化している価値観を特定するために若者の嗜好を観察すると、価値の中心に「自分の気持ち」を置いていることが分かる。 (4)「自分の気持ち」が第一なのは、既存の価値観では、幸福が追求できないことが明らかだからだ。 (5)彼らや私たちの価値観変化の中心には、私たちを幸せにできない「科学」と「経済」への信頼の喪失があ

          ◆再び「科学は死んだ」

          科学主義と一口に言っても、このように民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義といった価値観を含む一つの世界観のことだととらえてください。 日本では戦後、世界の警察とかいっていた時代の元気なアメリカから入ってきた、例の価値観やスタイルのことだ、と考えてもらっても差し支えありません。 トフラーや堺屋は「世の中の価値観が大きく変わりつつある」と言いました。しかし予測という感覚的な作業だと、ついつい若いころから染みついた、この「科学主義」で考えてしまうのです。でも、繰り返し言います

          ◆科学主義者

          今から二百年ほど前、ヨーロッパの片隅で産業革命が起きました。 それを機に、科学は急速に発達したのです。農業の発達によって、人々が飢えから救われたように、工業の発達は人々の暮らしを驚くほど豊かにしました。 暑さ寒さを防ぐ住居や衣服が量産され、家電製品が整って便利になっただけではありません。演劇、ファッション、グルメ、車、レジャーと、それまで貴族によって独占されていた特権、娯楽がすべて大衆のものとして開放されたのです。 この科学・技術が成し得た偉業は、どんなに言葉を尽くしても足

          ◆正しい未来

          さて、技術進歩に注目するのが仕事のマルチメディア本の作者たちはともかく、トフラーや堺屋という、大変優秀な未来学者や経済評論家が提案する未来像が、ここまでズレてしまうのはなぜでしょうか。 もちろん未来のことですから、絶対間違っていると証明はできません。 が、少なくとも私たちの中の相当数(特に若者)が「この未来像って違うよな」と確信している、といえるでしょう。 「こんな未来が来ればいい」と思っているならともかく、「ちょっと違うよな」と思っている生活を、私たちが突然選択することは、

          ◆もう「豊かになることによる幸福」が信じられない

          先ほどのマルチメディア本の話に戻ります。 「マルチメディアをガンガン駆使したプレゼンで、同僚に差をつけよう!」 こんな「ビッグ・トゥモロー」なアツい奴は、今や絶滅寸前です。もう、私たちはそんなふうに考えにくくなってしまっているのです。 ガンガン働いても、エコノミックア二マルとなじられるだけ。貿易黒字でもいじめられる。そのくせ都内には犬小屋ほどの一戸建ても買えず、空気も水も汚れる一方です。 家がコンピューター化されるということは、家の中で発生する有害電磁波が増えるだけ。どうせそ

          ◆もう「豊かになることによる幸福」が信じられない

          ◆最も大事なもの「今の自分の気持ち」

          この「自分の気持ちを大切にする」というのは、重要なキーワードです。 彼らは恋愛も、相手とうまくいくか、よりも「自分の好き、という気持ちを大切にしたい」と考えています。だから、その気持ちを守るために現実の恋愛が破綻することも辞しません(『東京ラブストーリー』のラストがそうでした)。 ある意味、すごく純真なのです。 仕事に関しても、安定した会社とか出世できそうとかを中心には考えません。 「こんな仕事に就いてみたい」 「自分の可能性を伸ばしたい」 といった、自分の気持ちを大切にした

          ◆私たちの内なるオカルト

          さて、ここまで読まれてきて、いかがでしょう。 もちろん、これらの現象を妄想だ、ばかばかしい、思春期にありがち、ととらえることもできます。あるいは今の若者たちは分からん、という世代差の話にしてしまうことも可能でしょう。 でも、私たち自身、こういったオカルティックなことを楽しんでいるとはいえないでしょうか。たとえば相手の血液型や星座を聞いて会話の糸口をつかむことは、今や出身地や年齢を聞くのと同様、当たり前のことです。 五、六年前、私の会社で、血液型や星座の話で持ち切りになったこと