◆再び「科学は死んだ」

科学主義と一口に言っても、このように民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義といった価値観を含む一つの世界観のことだととらえてください。
日本では戦後、世界の警察とかいっていた時代の元気なアメリカから入ってきた、例の価値観やスタイルのことだ、と考えてもらっても差し支えありません。
トフラーや堺屋は「世の中の価値観が大きく変わりつつある」と言いました。しかし予測という感覚的な作業だと、ついつい若いころから染みついた、この「科学主義」で考えてしまうのです。でも、繰り返し言いますが、私たちはすでに、そんなに楽観的に科学や合理主義、資本主義経済を信じてはいません。そのため、トフラーや堺屋と、ギャップが生じてしまうのです。
本当は、私たちはもう科学に何も期待していないということを認めてしまった方がいいのです。でなければ、「合理的に解決する」という建前、価値観の残骸だけが残ってしまって、新しい価値観との狭間で苦しむだけなのだから。
だから私は、ここでもう一度、言わなければなりません。
科学は死んだのです。

産業革命と同時に宗教は死にました。
もちろん、死んだといってもその影響力が完全になくなったわけではありません。それどころか世界の大半では、いまだに最大の価値観の一つなのです。しかしあの、人々が無批判に宗教を信じていた時代はもう、永遠に返ってきません。
今の日本では、聖典の中身に、ある程度の整合性がなければ信者は増やせません。合理的な宗教! なんて「堕落」なんでしょう。キリスト自信が聞いたら激怒モノです。科学の前に宗教がひざまずいたのです。科学が、合理主義が、世界を席巻した瞬間、宗教は「その他大勢の価値観」の一つに甘んじるよりほかはなかったのです。
それと同じく科学も今、死を迎えています。どんなに科学者たちが正論を合理的に言い募っても、私たちにはもう、それが魅力的には聞こえません。
「ふーん、それ本当なの?」とまず、疑ってしまう。
科学が私たちを幸せにしてくれるとは信じていないからです。

私自身、科学の発展に心躍らせたり、とにかくお金が儲からなくては話にならない、などという考え方をいつの間にかしなくなっていました。
今からたった二十五年前、七〇年大阪万博のころ。
私を含め、日本人みんなが、まだまだ科学技術の進歩に期待していました。アポロ11号の月面着陸に心躍らせ、月の石見たさに何時間も行列をつくりました。それがいっこうに苦痛ではなかったのです。
確かに科学の進歩によって、公害や交通事故など困った問題も出てきました。しかし、そんな貧乏くさい話題をしたがるのは一部の変わり者、ひねくれ者だと思っていました。
それに、そういった問題すらも「公害除去装置」「自動運転システム」といった科学的手段で何とかなるはずだ。今はまだ日本は貧乏だから無理でも、アメリカが開発しているに違いない、などと能天気に考えていたのです。
日本は高度成長のまっただ中で働けば働くほど仕事は拡大し、会社は大きくなり、家の中に電化製品があふれた。みんな残業も休日出勤も当然のこととこなして給料も上がり、出世もできた。
私はそのころ子供でしたが、もちろん将来は科学者になるんだと決めていました。クラスの男の子もみんな、科学者になるか、サラリーマンになりたいと言っていたのを憶えてます。意外に聞こえるでしょうが、サラリーマン、という経済戦士もまた、当時はあこがれの的だったのです。
それがたった二十五年で、こんなに変わってしまった。
「科学の時代」は終わってしまったのだから。

支援していただけるなんてチョー嬉しいんですけど^^笑