◆理系離れの「エコロジー問題」

たとえば、今最も注目されている、エコロジー問題に対する私たちの考え方にも、それは顕著に反映されています。
エコロジー問題というのは、実は大変科学的にとらえやすい問題なのです。
大気中の○○含有量が○ppmだとか、オゾンの量がウンヌンとか、このままの増加率でいくと○年後には何ヘクタールの森林が丸坊主になるとか。
科学主義的に考えると、本来こういった科学的問題は、科学者がきちんと考えて、ベストの解決法を見つけてほしいもんですよね。
その上で政治家や官僚が、それらのデータに基づいた合理的・効率的な方策を実行し、エコロジー問題は「解決」されるはずなんです。
ところが、もちろんそうは問屋がおろしません。

一口にエコロジー問題といっても、熱帯雨林から酸性雨、大気汚染、オゾン層の破壊等々と様々な要素が絡み合っています。
これらを解決しようとすると「どの順番でするか」「だれが金を払うか」「どの学説、データを採用するか」「どの企業が請け負うか」「それによってみんなの生活が不便になるけど、どの政治家が矢面に立つか」などという、だれも手を出したがらない問題のオンパレードです。
これらの問題や利権を、「人類全体の幸福」という抽象的な基準で合理的に判断して、制限するなんてことは、もはやだれにもできません。
だからこそエコロジー運動は、「リサイクル運動」だの「割り箸を使わない運動」だの「私たちができる小さな運動」だのの形を取らざるを得ないのです。
だって、それ以外に信頼できる解決法が見えないのだから。
これらの運動は、目標といっても空き缶の回収が何トンになったという程度かもしれません。
だからその結果、大気やゴミの状況はどうなったか、実際はあとどれぐらい汚染減少を必要とするのか、そのためには何を何トンずつリサイクルすればよいか、といった合理的・科学的な判断をしなくて済むのです。
もっと気楽に考えていい、というわけ。
また「数の力で国や自治体に圧力をかけて」といった、従来の運動をしなくても済む。
そういったことよりも、「一人でも多くの人がエコロジーに関心を持ってくれること」といった気持ちの問題としてとらえることが大切だ、というわけです。
これは、最近の若者の価値観で触れた「自分の気持ちを一番に考える」にぴったりフィットしています。
エコロジー問題に関するみんなの考え方の変化を見ると、明らかに科学的思想がマイナーなものになってきたというのが分かります。
最近起きた阪神大震災においても、同じようなことがいえるでしょう。
国や自治体の対応の悪さに関しては目を覆うばかりでしたが、それに対してマスコミが期待したほどの非難の嵐は起きなかったようです。
それよりも住民の冷静さ、ボランティアの数の多さ、義援金の額の多さが話題になりました。
国に対する批判はむしろ、このボランティアを差配できない、義援金もさっさと使えないという点に集中していたぐらいです。
このような考え方は、明らかにある種の「諦め」という感情の上に成り立っています。科学的・合理的解決法に何も期待しないからこそ、心情的な解決法を採るのです。
さらに、具体的な例を挙げてみます。

支援していただけるなんてチョー嬉しいんですけど^^笑