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三木清 / 『歴史哲学』 - 「第四章 歴史的時間」 一 【新字新仮名】

以下の文章は、三木清の著作『歴史哲学』の「第四章 歴史的時間」 一 の新字新仮名版です。
※投稿者が読み返す目的で、旧字旧仮名の原文を新字新仮名に書き換えました。誤字等はご容赦ください。
※原文は、青空文庫にてご覧いただけます。




第四章 歴史的時間


 歴史的なものは時間的なものである。時間歴ならぬものは非歴史的もしくは超歴史的と考えられる。歴史的なものは本来「時間から理解されることを欲する事物」である。蓋しそれは運動的、発展的なものであったその意味に於ては歴史 Geschichte は出来事 Geschechen であって、存在 Sein ではないとも云われることが出来よう*。歴史は在るのでなく、成るのである。然るに運動及び発展は時間というものを離れて考えられない。かくて時間は、空間に対して、歴史を自然から区別するところの最も本質的な規定であるとさえ見られている。ヘーゲルは云っている、「それだから世界歴史は一般に、恰も空間に於てイデーは自己を自然として開示する如く、時間に於ける精神の開示である。」歴史的科学を「発展の科学」 と呼んだラッツェルはそれをまた「時間の科学」Zeitssenschaft とも称した。ドロイセンもまた次のように書いたのである。「我々は我々の言語のうちに自然及び歴史なる語を見出す。そして何人も、歴史という語に直ちに過程の表象、時間的なるものの表象が結び付けられることを、一致して認めているであろう。」そしてひとは彼が多少カント的な言い廻しをもってヘーゲルの上の命題を繰り返しているのに出会うであろう。曰く、「我々はたしかに諸現象の総体をば、我々がそれを空間及び時間、、、、、、に従って秩序付けられたものとして考えるとき、即ち、我々が自然及び歴史《、、、、、、》と云うとき、包括することが出来る**。」ところでこのように歴史的なものが時間的なものであることを思うとき、まさに時間の驚嘆すべき性質のために、歴史は我々にとって愈々不思議なものとして現われるのである。時間に就いて嘗て恐らく最も深き思索をめぐらしたアウグスティヌスは語る、「然らば時間とは何か。もし誰も私に尋ねないならば、私は知っている。もし私が尋ねる者に説明しようと欲するならば、私は知らない***。」quid est ergo tempus? si nemo ex me quaerat, scio ; si quaerenti explicare velim, nescio. 歴史の秘密は時間の秘密である。時間の問題は歴史哲学の中心に立たねばならぬ。それ故に我々はこれまでに於ても種々なる場合に時間に関して述べてこなければならなかったが、いま必要なる限りそれを補うため更めてこの問題を取り上げなければならないと思う。
 *  Vgl. F. Gottl, Die Grenzen der Geschichte 1904
 ** J. G. Droysen, Grundriss der Historik 1875, S. 64. u. S. 67.
 *** Augustinus, Confessiones, Ⅺ, 14.
 歴史に於ける時間の問題は特に「歴史的時間」の問題として提出される。そしてひとは歴史的時間の問題は、或は自然科学的時間との区別に於て、或は所謂空間化された時間との対立に於て取扱われなければならぬと考える。このこと自体は固より間違いはないであろう。然しながらそれは少くとも不精密であると思われる。なぜなら先ず、同じく自然的と云っても、「自然科学的時間」と「自然的時間」とが区別され得るし、また区別されなければならぬからである。例えば、我々が後に至って論及しようとする「世代」Generation という概念の如きは、もと自然的時間を表わすけれども、それだからとてそれは本来の自然科学的時間であるのではない。然るにもし人間の歴史にして自然を基礎とするものであり、何等かの仕方で自然と織り合わされているものであるとするならば、よし自然科学的時間の問題は歴史の問題にとって没交渉であるとしても、自然的時間の問題は決してそうではあり得ない筈である。それと共にまた、特にこのような自然的時間の概念に対して、固有なる意味に於ける歴史的時間の概念ーーここでは「世代」の概念との区別に於て「時代」Zeitalter という概念をかかるものとして挙げることが出来るーーの明かにされることが要求されるばかりでなく、更に両者の連関の示されることが必要になるであろう。
 けれどもそれだけでなお問題は全く透明にされたわけでない。この不透明は歴史という語のもつ両義性に関係しているものの如くに見える。即ち我々は最初に歴史たる語の担う意味を分析し、就中事実としての歴史と存在としての歴史とを区別したが、丁度このことに相応して、自然的時間からひとまず区別された歴史的時間の概念に於てもまた二つの意味が区別されねばならぬものと考えられるのである。我々はその一方を「事実的時間」と称し、その他方を特に固有なる意味に於ける「歴史的時間」と名付けよう。ところで後者が例えば時代の概念として歴史的諸科学に於てそのロゴス的表現に達するものとするならば、前者即ち事実的時間は何処に於て自己をロゴス的に表現することになろうか。我々はかような表現の場所として、歴史的諸科学を裏付けしている史観なるものを示すことが出来ようと思う。これ史観のうちには事実としての歴史が自己を表出するということに相応するのである。それのみでなく、我々は事実としての歴史と存在としての歴史との間に或る一定の本質的な関係の横たわっていることを見出した。そこでまたそれに相応して歴史的時間ーー自然的時間から区別されたそれーーの二つの概念の間にも何等か一定の内面的な連関が存するのでなければならない。
 かくて時間の問題が歴史に関係して論ぜられるとき、そこには必ず明かにさるべき三つのものの関係のあることが知られるであろう。自然的時間、、、、、歴史的時間、、、、、及び事実的時間、、、、、の関係がそれであって、このものを解明することによって初めて時間の全構造は、歴史にかかわる限り、明瞭にされることが出来る。もしかくの如き現実の歴史の時間にしてこれら三つのものの構造連関に於て成立せるものであるとするならば、それを普通になされるように唯ひとむきなる直線的進行として表象することが如何に誤っているかは明白である。寧ろ歴史の現実的な時間を形成するそれら三つの要素はかかる時間の三つの次元と見らるべきであろう。現実の時間には奥行きもあり、深さもある。云うまでもなく時間形成的な三要素の形作る構造連関は、時間の本性上動的であり、従って現実的な時間はそれぞれの場合に於てそれぞれ異っている。時間の範疇そのものが歴史的である、とも云われ得るであろう。そして我々はそこに範疇の歴史性の最も原始的且つ最も根源的な形態に出会うのである。
 いずれにせよ、歴史に於て甚だ種々なる時間の観念が現われていることはたしかである。二、三の例を挙げてみよう。今日普通に時間は無限に涯なく前進するものと考えられる。然るにこのような時間の観念は古代人には殆ど全く縁のないものであった。彼等のもっていたのは却て回帰的時間の観念であった。「必然の環」とか「運命の車輪」などいう言葉、プラトンの「完全年」の思想等がこれを示している。アリストテレスもあらゆる種類の運動のうち円運動が時間の最も正確なアナロジーを現わすと云った。そして実際、歴史が円環行程を形作るということは、単に最も偉大なギリシア及びローマの歴史家たちの見解であったばかりでなく、その民族の一般的な考え方であった。彼等にとって歴史は無限なる進歩を過程するという思想ほど縁遠いものはなかった。これは全く近代人のものである。そこでフリードリヒ・シュレーゲルは、古代史と近代史とは二つの全く異った法則の上に立つそれぞれの全体であると見做し、前者は「円環行程の体系」をなし、後者はこれに反して「無限なる前進の体系」をなすと解釈した*。然るに原始キリスト教の場合に於ては如何であったであろうか。その信徒等は彼等の感激に於て固より全く新しく明ける日の微風に包まれているのを信じたが、然しそれは同時にこの世界の過ぎ去る最後の審判の日であるべきであったのである。パウロがテッサロニケの教会を建てたとき、改宗者たちはかかる新しき日を経験することなく死んで行く兄弟たちのために憂慮した、そこでパウロは自分自身は少くともこの日を肉の眼をもって見るのであるという希望を仄めかすことによって彼等を慰めたと云われる。古代的な回帰的時間、近代的な無限進行の時間に対し、ここには或る第三のものとして終末観的時間がある。
 * Vgl. Friedrich Schlegel, Vom Wert des Studiums der Griechen und Römer.
 かくの如き時間がそれぞれの史観のうちに具体的に表現されて出会われるところのものである。例えば、回帰的時間は歴史の循環 ※[#無気記号付きα、U+1F00、157-4]νακύκλωσιςの思想として、古代にあって既にツキヂデスのうちにその萌芽が見られ、ポリピオスの見解のうちに於て残りなく発展せしめられた。即ち全発展は、興起、成熟及び死滅という段階を通じて運動し、かくて次に再び繰り返して最初からこの過程を始めるという思想がポリピオスの歴史叙述を内的にも外的にも制約したのであった。或はまた無限進行の時間は啓蒙時代に於ける人類の完成の無限なる可能という思想のうちに制限されることなく表現されている。即ちそれは、十七世紀に於て特にフランスに生れ、有名な「古代人近代人の優越に関する闘争」querelle des anciens et des modernes となって現われ、近代的な史観の支配的な特徴をなすかの所謂「進歩の観念」idée de progrès と結び付いている。然るにこのような時間が客体的な時間、換言すれば存在としての歴史の時間、我々のいう「歴史的時間」とは異る或るものであることは、その最も極端な場合を観察するとき、容易に理解されるであろう。初代キリスト教の信徒たちはこの世界の終末が全く間近に迫り、神の国の到来の近づいたことを固く信じた。けれども彼等の信仰は客観的歴史的には実現されはしなかった。この世界はなお以前として存続しており、事物の客観的歴史的過程はその後と雖も連続して行われている。ここにいま述べたような時間と歴史的時間との間の乖離が現われて来る。それだからと云って、問題の時間が虚妄であるのではなく、却てそのことは二つの時間が何等か異った秩序のものであることを示すに過ぎない。かのキリスト教の信徒等は恰も彼等が生きたような時間の意識に於てのみ、まさに彼等のなしたが如き世界史的意義を有する歴史的活動をなし得たのである。もちろん、かかる時間は歴史的時間が客観的であるに対して確かに主観的な意味を含んでいる。その故をもって、ひとはそれを単に主観的なものに過ぎぬとして却けるであろうか。然しこの同じ人は、彼自身もまた、「甲は過去に生きている」、「乙は未来に生きている」、などという言葉を口にすることがないであろうか。もし彼がこのように語るならば、それは客観的な歴史的時間とは異る或るものに関して語っているのである。なぜなら、単に客観的に見るならば、甲も乙も共に所謂現在即ちこの一九三一年に生きていることは疑われないからである。しかもなおかつ「現在に生きよ」などと命令され、そしてそれが有意味なこととして受取られるのは、それが単なる客観的時間でなく、却てこれとは秩序を異にする時間を意味するためである。或はまたブルジョワジーは現在を永遠化し、プロレタリアートはこれを過渡的として把握すると云われる場合、そこに意味されているのはもと客観的な歴史的時間とは違ったもののことでなければならぬ。このようにして歴史の問題に関連して云えば、史観のうちに現われている時間の観念が客体的な存在としての歴史の時間とは異る秩序の主体的な時間を含んで表出していることは明かであろう。このことはさきに述べたように、史観のうちにはつねに或る主体的なものが表出されている、ということに相応する。我々によれば、かかる史観のうちに表出される時間の観念は、存在としての歴史の時間即ち固有なる「歴史的時間」に対して、事実としての歴史の時間即ち「事実的時間」、もしくはこれの変形があるのである。事実的時間の概念がこのようにして歴史的時間の概念から区別されねばならぬことは明瞭である。そして事実的時間が行為的時間であるということは固より論ずるまでもなかろうと思う。
 我々は事実としての歴史をこれまで「現在」といて規定して来た。「現在」は屡々「今」とも言い換えられる。然るに普通用いられるところでは、「現在」もしくは「今」という語は多義であって、ここに少くともその三つの意味を区別することが必要である。そして我々のいう事実的時間は、既に最初の章で云った如く、まさに「瞬間」として規定せられて、それの他の二つの意味、即ち一方では「永遠」そして他方では後に説く如く固有なる意味に於ける「今」から区別されるのである。瞬間は先ず「永遠」ということと等しくない。永遠もまた多くの場合に現在もしくは今という語で表わされている。アウグスティヌスに於ての如きがそうである。彼は云う、「汝の年は一日である、そして汝の日は毎日でなく、今日である。汝の今日は明日に移るのでなく、また昨日に継ぐのでもないからである。汝の今日は永遠である*。hodiernus tuus aeternitas.」今日ということはここで永遠の意味に於て語られている。ニコラウス・クザーヌスの「かくて今即ち現在は時間を包む」Ita nunc, sive praesens, complicat tempus という有名な言葉にあっても、今または現在が永遠を意味することは明かである。それはまさに永遠であって、時間ではない。然るにかようの現在が凡ての時間的なものを包むという思想はまたアウグスティヌスのものであったのである。アウグスティヌスは彼の、そして一般にキリスト教の歴史哲学の最も雄大な体系を叙述した『神の国』の中で、時間は運動及び変化というものなしには考えられないと述べている。「ひとは正当にも永遠と時間とをば、時間は何か変化し運動するものなしにはなく、然るに永遠のうちには何等の変化もないという点で区別する。そこでもしもそれに於て運動によって或る変化が行われる被造物が生じなかったとしたならば、明かに時間も存しないであろう。蓋し時間は両者同時に存し得ぬところの一の状態が他の状態に所を譲り且つ継ぐ場合、この運動及び変化によって要求されるより短い或いはより長い持続の間隔から従って来るのである**。」それ故に何等の変化も含まぬ神は永遠であって時間的でなく、却て「時間の創造者にして整序者」creator et ordinator temporum である。永遠のうちにあっては何物も過ぎ行くことなく、却て凡てはつねに現在的である。過ぎ去りしもの及び来らんとするあらゆるものは、永遠に現在的なるものによって造られると考えられる。かくてアウグスティヌスにあっては時間の問題は神に対して被造物の根本的な存在の仕方の問題に関係しているのである。そして彼がその深き解明を試みたのは、外部の世界の時間、所謂「世界時間」の問題ではなく、寧ろ時に被造物たる人間の本質及びそれの神(従って永遠)に対する関係の問題としての時間であった。人間の本質とは精神 anima である。そこからして彼に於て主体的な、内面的な時間が問題にされる。この場合にあたり我々は凡ての時間の様態がまさに「現在」の方向に解釈されたということに注目しなければならない。即ちアウグスティヌスは云っている、「いまや次のことが明白であり、明瞭である、未来も過去もあるのでなく、また三つの時、過去、現在及び未来、があると本来云わるべきでなく、却て恐らく本来、三つの時、即ち過去せるものの現在 praesens de praeteritis、現在するものの現在 praesens de praesentibus、未来なるものの現在 praesens de futuris があると云わるべきであろう***。」彼は進んで時間の諸様態を精神のはたらきに関係して説明を企てた。未来と現在と過去とはそれぞれ期待 expecto、直観 attendo 及び記憶 memimi という精神の三つのはたらきから解明された。長い未来と云われるとき、長いのは未来の時間ではない、なぜならそれは未だないから。却て長い未来とは未来の長い期待のことである。或はまた長いのは過去の時間ではない、なぜならそれは既にないから。却て長い過去とは過去の長い記憶のことである****。このように見るのは時間の諸様態を特に現在から解明することでなければならない。詳しく言えば、期待とは未来なるものを現在的に把持することであり、直観とは現在するものを現在的に把持することであり、記憶とは過去せるものを現在的に把持することである。そしてこのように時間が現在から解明を受けるとき、この現在がまた永遠というものの方向に理解されていたのである。ところで、かくの如く時間を現在の方向に解釈するということは、人間の観想的もしくは瞑想的態度と内的につながっているであろう。我々は他の機会に於てアリストテレスの哲学のひとつの重要な要素をなす「現在」の概念をこの哲学の観想的性格から説明しておいた。かような観想的態度はアリストテレスの場合ではまだ時間が客体的に解釈されたということにも関係をもっている。彼が時間論を根本的に展開したのは何よりもその『フュジカ』に於てであったことを想い起してみよ。アウグスティヌスは現在的に見る video, intueor という精神のはたらきの基礎の上に時間の諸様態を考える。従って過去の基礎も現在であり、未来の基礎もまた現在であると云われる。疑いもなくアウグスティヌスの時間論は遙かに内面化されている。彼がそれに就いて最も深き思索をめぐらしたのはその『コンフェショーネス』に於てであった。観想は純粋に内に向けられた観想である。それはギリシア的な「観想的生」βίoς θεωρητικός の意味に於ける瞑想であり、アウグスティヌスの哲学は最も深き「内面性」の哲学を代表する。従って彼に於ては、未来なるもの、現在なるもの、過去せるものが先ずあって、然る後それに就いての期待、直観及び記憶の作用が行われ、そこから時間の諸様態が生ずると考えられたと見らるべきでなく、寧ろ期待、直観、記憶の作用と共に時間の諸様態が生れ、それと共に未来なるもの、現在なるもの、過去せるものも志向的に区別せられるのであると理解さるべきであろう。然しながらそれにしても、彼に於ける時間の問題がフッセルなどのいう「内的時間意識」の問題に過ぎなかったと考えることは出来ない。彼に於て意識の問題も被造物たる人間の本質的な存在の仕方としての精神の問題であり、そしてそこから神につらなる問題であった。彼は内的時間意識を永遠なる神をもって形而上学的に裏付けるであろう。彼が時間を現在から解釈したのはもともとこれに関係するということを忘れてはならぬ。かくて一般的にこうも云われ得るであろう。ギリシア的な永遠はなお客体的に理解されていた、それ故に現在もなお(永遠という意味を含めて)もなお過去の、即ちかの「既に」の意味を担っていた。ーープラトンに於けるイデアの憶起 *[#無気記号付きα、U+1F00、164-5]νάμνησις という思想がこのことを示す、イデアは「存在」であったのである。ーーこれに対してアウグスティヌスは現在(永遠という意味を含めて)を真に現在(永遠的)として把握する方向に進んだのである。
 *  Augustinus, Confessiones, Ⅺ, 16.
 ** De civitate Dei, Ⅺ, 6.
 *** Confessiones, Ⅺ, 26.
 **** Ibid. Ⅺ, 28.
 そのいずれとも異って、我々は現在をば「瞬間」として性格付け、説明する。我々は一方キェルケゴールと共に云わねばならぬ、「ギリシア的情熱が憶起に集中せられるに反し、我々の企図の情熱は瞬間に集中せられる。」けれど他方我々はアウグスティヌスの如く時間を現在から、従ってまた永遠から解釈するのでなく、却て未来から規定する。瞬間は固より現在であり、今である。然し瞬間は永遠がいはば現在的現在であるに対して、未来がそのうちに喰い入れる現在である。しかもそれがまさに瞬間であるのは、この未来が普通考えられる如く単に可能なものという意味ばかりでなく、根源的に否定的なものの意味を担うからである。我々のいう事実としての歴史は純粋にイデー的なものでなく、そのうちに否定の契機を含むものであった。然るに一般に否定の原理なしに運動はなく、運動を離れて時間は考えられ得ないとすれば、瞬間こそ時間の最も本来的なものでなければならぬ。本来的な時間は根源的な未来から時来 sich zeitigen する。そして行為的時間は永遠の意味を持つ現在としてではなく、唯瞬間としてのみ特性付けられることが出来る。現在が瞬間である故に我々の行為には決心するということが属する。尤も瞬間として規定される事実的時間は或る意味では実に永遠の相を具えている。蓋し事実としての歴史と存在としての歴史との関係は単に連続的でなく、却てまた非連続的である。それだからこそ、一方では、事実的時間は瞬間である、なぜならもし両者の関係が単に連続的であるとしたならば、さきに述べた如く、かの「現在は過去を含み未来を孕む」ということが時間の優越な姿を現わすこととなり、そしてかくては瞬間なるものの固有なる意味はなくなるであろう。然しそれだからこそ、他方では、瞬間はまた永遠の意味を担うのでもある、なぜなら事実としての歴史は存在としての歴史に対して超越的な方面を有する故に、我々は前者の立場から後者の何処へでも降りて行き、かくて自己を最も近き過去の歴史に結び付けることも出来れば、最も遠き過去の歴史に結び付けることも出来る。我々は「瞬間」から「歴史的時間」の何処へでも降り立ち得る。その意味で存在としての歴史の時間即ち歴史的時間に対して事実的時間は永遠の意味を担うものとも云われることが出来る。「瞬間は本来時間の原子でなく、却て永遠の原子である。」とキェルケゴール
も書いている。瞬間はそれによって「存在」の時間が構成される原子ではない。この意味ではそれは寧ろ永遠の原子である。然しながら瞬間はそれ自身永遠であるのでない、また我々は永遠から時間を解釈するのでもなく、反対に永遠をば主体的行為的時間としての瞬間から理解するのである。キェルケゴールは云う、「時間と永遠とが接触すべきであるならば、このことは唯時間のうちに於てのみ行われ得るーーかくていまや我々は瞬間の前に立つのである。」更に彼は云う、「永遠なものとは本来ひとつの物、ひとつの或る物ではない、却てそれは人がそれを得る仕方である。永遠なものをひとは唯一つの仕方で得る、そしてそれが唯一つの仕方で得られることが出来るという点で永遠なものはまさに他の凡てのものから区別される。」観想に於てでなく、行為に於て我々は永遠なものにつながることが出来る。その仕方がそれぞれの場合唯一つの仕方しかない所に行為的時間が瞬間である理由があり、事実が時間的として優越な意味で歴史と呼ばれる理由があるのである。ところでもしかくの如く見られ得るとするならば、我々が上に史観の内に表出されているとした時間の種々なる形態のうち特にキリスト教的な終末観的時間が事実的時間の面目を比較的によく現わしていることは明かであろう。そこで歴史の思想がキリスト教によって初めて人類に与えられたと云われるのも決して偶然ではないのである。これに反し他の種類の時間の観念にあっては多かれ少なかれ主体的な時間は客体的な時間の方向に転釈され、もしくは前者は後者のうちに埋没せしめられていると見られることが出来る。
 かくて事実的時間が、現在として、瞬間という意味で、先ず永遠という意味に於ける現在或は所謂「永遠の今」から区別せられるばかりでなく、それが次に客体的な時間に於ける現在からも区別せられなければならぬということもまたおのずから明かであろう。我々はさきにそれを「現在」と「現代」との区別として説明した。現代というものは存在としての歴史の時間、即ち事実的時間から区別せられた歴史的時間の意味に於ける現在である。ここに於て我々はかような歴史的時間の本質を、瞬間として特徴付けられた事実的時間に対して、更に正確に特性づけられなければならぬと思う。



『歴史哲学』(新字新仮名版)の他の部分はこちら

※続きは随時更新予定です。


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