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小中高大一貫校に通った私が大企業就職をやめ、VCに就職するまでの人生すべて。

今日は、私が就職する日。ちょうど一年と一ヶ月前、「本日の主役」の襷をかけて、誕生日に説明会に乗り込んでいた私は、ついに働くことになりました。そんな私は何をしたいと思うのか。そこまでにどんな人生を歩んできたのかを書いてみようと思います。

はじめに〜これの記事は、私のために書きます〜

この記事は、誰のためのものでもなく、とにかく今村柚巴という人間のために振り切って書きます。だから長いし散らばっているし読みづらいです。万人受けしないと思います。

↑の「本日の主役」記事はぶっちゃけ「色んな人に読まれる」ための文章構成にしました。全然方向は違いますが、このアンサーっぽい立ち位置の記事ではあります。バンドマンも、A面で売り出した曲の本音と裏側を本当に誰が聞くん?みたいなアルバムの8曲目とかに置くじゃないですか。あれのイメージです。

というわけでこの記事は今村柚巴という人間の幼少期から24歳の就職前までの人生をつらつら描き、年次ごとに更新することで、自分の心の揺れ動きを記録するものとします。誰にお世話になり、どんなことが起こり、何が夢だったのかを書いて書いて、最後に今の進路の決定打を書きます。そこだけ読みたい人が万が一いたら、24歳、のところまでガンガン飛ばしてください。



幼稚園時代〜うっかり16年のエスカレーターに乗っかる〜

2000年の3月、神奈川県に生まれました。父はサラリーマンで母は専業主婦。一人っ子で近所の幼稚園に通う、ごく普通の子供でした。

唯一特殊な点といえば、小学校受験をしたこと。近所のお受験塾に、おもちゃとお菓子の誘惑に連れられながら通っていました。

父と母と私。顔が似ています。

よく、小学校受験って何するの?と聞かれるのでちょっと説明してみます。
座学と実践に分かれていて、座学は1分程度の短いストーリーの文章要点の暗記や点結び(点と点を繋いで図形を書く的な)といったIQテストに近いもの、実戦はよーいどんで子供たちが小教室で遊ばされ、その時の行動を見る、といったようなものでした。

洋服畳む練習とかさせられるんですよ。今でもできない。

ガサツで不器用な私は苦手なことが多すぎて、万年居残り生徒だったのですが、受験塾の代表のN先生に「青山学院を受けてみないか」と勧められ記念受験。まさかの合格。(女子校は全落ち、共学は全受かりだった。わかりやすいかよ。)

今でも覚えているのは、遊ぶ試験中に遊具の高い所から降りられなくなって、泣きながら先生に必死に助けを求めたこと。試験中に泣くなやと思いますが、小さい頃から人に頼る力だけはあったのかなって思います。

海外で大型災害が起きた時に現地に飛んでいくような、当時から異常なフットワークだったN先生。今年で本格的に退任すると年賀状で知り、何するんだろうと思ったら世界一周にいくらしいです。血は争えないな。

将来の夢はプリキュアでした。可愛くてかっこいい女の子になりたかったんだな

小学校時代〜防衛本能的に、アホになる〜

と、いうことで2006年。青山学院初等部入学とともに、小学校から大学までの箱入りエスカレーターロードが始まります。

さながら16年(小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年)のパッケージツアー。「外の学校に行く」という選択肢の存在を15歳くらいまで知りすらしていませんでした。本当に。

青山学院は小中高大全ての校舎が渋谷のど真ん中に集まっています。最寄駅から1時間かけてバスと電車を駆使して学校に通う、ドラマみたいな生活をしていました。

宮益坂で帰りながらかくれんぼしてました。もう時効だと信じてる。

こんな生活してると地元に友達は1人もできません。(兄弟もいないし、引っ越しして幼稚園時代の友達とも疎遠になった)学校の友達も家が遠すぎるので帰宅するといつも1人。テレビと漫画と青い鳥文庫(子供向けの文庫本)とnintendo DSが唯一の友人で、段々会話がズレていくようになりました。

「人と争う」ことがわからず育つので、力も弱いし口も力も弱く、学校の友達にからかわれても回避の方法がわからない。私が幼い頭をできるだけ使って、思いついた回避方法。

逃げ道:「アホになる」

学校でも突発的におかしな行動をしてみたり、先生とばかり喋ったり、気の強い子にいじられてもヘラヘラする。女の子版ののび太くんを想像してみてください。

子供ってかなり残酷なもので、ふざけてぶたれたりすることもあったのですが、その時もプライドなんてものは封印し、とにかく「何しても、今村はもうそういう子だから大丈夫」の域まで持っていきました。

当時ほんっとうに太っていて。容姿もめっちゃコンプレックスだった

当然、色んな先生や友人に「どんくさい、めんどくさい」と思われていた生徒だったと思います。一貫校のくせに、小学校からずっと仲のいい友達は1人もいません。

でも120人という狭い社会の16年パッケージツアーに放り込まれた当時の私にはそれしか生き延びる方法がなかったのです。大袈裟ですが。

とはいえ、辛いものは辛くて、特に小学5~6年生の頃は泣いて家に帰る日々でした。自分が選んだ回避法だけど、なんでこんなにバカにされるんだろう。でも自分が他の子より劣っているから、受け入れるしかない。の堂々巡りでいっぱいでした。

今、私は比較的自分の弱いところも何もかも曝け出すことを厭わない人だと感じます。プライドってどこにあるんだろうと思いましたが、改めて6歳からこういう生活の仕方をしていてるんだから、慣れですよね。
就活の時に、「ふざけ、は今村さんの防衛本能なんですね」と言われたことがあり、この言葉が最適すぎるなと思ってます。

とはいえ学校がダメなことばっかではなくて。うちの学校は修学旅行が本気な学校だったことから、船で日本半周したり、長崎まで行って海で1km泳いだり、3~6年生で縦割り班を組んでスキー板で登山する合宿に行ったり。小学生の身には余るほどの沢山の経験を私にくれたような学校でした。

小六で乗った船

サバイバル部に入って離島でキャンプしていたら新型インフルエンザの発症源になったりもした。超責められたけど。

学校以外の唯一の場所

そんな私の小学校の時には恩師が2名いました。学校の先生で唯一「今村柚巴」を評価してくれた小学3~5年の担任の先生。(先日、私の卒業と同時に学校を定年退職されました。卒業式でお会いして泣きそうになっちゃた)

もう1人が近所の作文教室のO先生

O先生は受験塾のN先生の友人で、自宅を開放して国語の読解や作文執筆の個人塾を開いてて。なんのきっかけか私は週に一度そこに通うことになったのです。

「塾」と言えるのかわからない、不思議な場でした。先生が自宅で飼っている大型犬が段々と老衰して、亡くなる直前まで見届けたこと。夏休みの宿題として絵本を1人一冊作って、文章よりも絵に力を入れたこと。夏休みには少し遠くの駅に先生と行って、年少者のクラスを教えたりしていました。

今でも覚えているのが塾の途中になんとなく飲み物が飲みたくなって、冷蔵庫を開けた時。その時、それはそれはO先生に怒られたのですが、私は当時人の家に呼ばれたことがなくて、「冷蔵庫を開ける」ことがマナー違反なのかも全く知らなくて。

親でもなく、先生でもない。当たり前のことを当たり前に伝え、叱ってくれる大人の存在は当時唯一無二でした。

将来の夢は小説家か漫画家。作る、ことをやりたいと思っていました。

中学時代〜誰も選ばない「ものを書く」ことで救われる〜

そんなこじらせ小学生は中学に進学し、やっと友達らしい友達ができ始め。ポンコツキャラも段々板につき、「ちょっといじられる不思議な子」を確立し始めます。

暇が怖い

とはいえ、私の友人が軒並み吹奏楽部だったことから放課後も土日も練習優先。遊ぶ相手は相変わらずおらず、下手すると朝起きて、ベッドの上でごろごろしてそのまま1日が終わる、という休日もあるほどでした。この時の記憶が私の大いなるトラウマで。(言葉の使い方が合ってるかわかりませんが)今、毎日何かしらの外出予定を入れようとしてしまう性格の原点がここだと思います。

「ものを書く」ことで救われる

そんな中、小学校の時から通った国語教室と元々の小説好きが相まって、現実世界の出来事を物語に落とし込む「作文」にハマります。

特に学生時代って「作文・読書感想文=だるい」なので、誰も凝らないんですよ。「楽しかったです」構文になるか、おかた〜〜い文章になる。それだったらおもろないやん、と、課題が出る度にエンタメ的に読める文章を追求する日々でした。

そんな中学一年生の5月に授業で書いた母の日が題材のエッセイ。提出したことも忘れていた時、隣の隣のクラスの国語教師に「学年代表として全校生徒の前で読んでみないか」と肩を叩いて頂き、初めて自分のつくったものが注目を浴びるという経験をします。

芋くさい!!ほんとに渋谷の中学生???

頭脳も運動も、一位にはなれないことを薄々察してきたけど、作文ならちょっとだけ頑張れば秀でることができるかもしれない。
誰もがさほど大事にしないことで、自分ができるを突き詰めれば、認められる。
ということに気づき、心の底から救われました。

自分はダメじゃないんだって、初めて言ってもらえた気がして。

将来の夢は国語教員。完全に自分を救いあげてくれた恩師たちの影響+現代文が好きだからでした。単純!

高校時代〜2年間の孤立生活と、偏見なしの友人の救い〜

中学時代に暇すぎたことを教訓に、週6練習という吹奏楽部に入部した私は、60人超えの部員と朝から晩まで過ごします。また、この頃たまたま10kgくらい痩せ「身なりを整える」ことも覚えました。

「高校デビュー」的な、急激なキャラクターチェンジがほぼ確実に失敗する一貫校にも関わらず、運良くじわじわと「何をしても抵抗しないポンコツ」から「アホだけど、なんだかんだ意見を聞いてもらえる」方法を習得していきました。

完全に孤立し、独りで過ごした2年間

はい!ここまで読むと『よかったね〜😌』となりそうじゃないですか。人生ってそんなに甘くないんですね!この直後、高校二年生の頃、クラスで完全に孤立します!

元を正せば完全に私が悪くて。友達0人からなんだかんだ愛されるな私、という急激な変化を過ごすにあたり、完全に認知が歪み。「この子はイケてるからつるむ、この子は暗そうだからつるまない」的な、人の目を気にした友人の選び方をし始めます。

だっせーーーーーーーーーーー

いやもう当然!そんなふらふらしてるやつ皆嫌うので!5月にして誰にも相手にされなくなり、しかも運悪く卒業までクラス替えもなしという2年間ぼっち確定演出。

苦い思い出の校舎

今でこそじゃあ1人でいるわ!と割り切れますが、例によって認知が歪みまくってる当時の私にとっては最悪のシナリオ。1人でお弁当を食べたくなくて早弁したり、休み時間に図書館の奥の方にひっそり隠れたり。成績も赤点が続くようになり、自分が大嫌いになりました。

修学旅行なんて地獄ですね。人数合わせなんだろうなという自由行動班で過ごして1人半泣きで入った夜景の綺麗な露天風呂は今でも脳裏に焼き付いてます。

とにかく1日でも早く卒業して大学に行くことしか目標になりませんでした。高校生なりに自分と親がかけてきた努力と、返礼的に受け取れるもの(=青山学院というそこそこの大学への入学)を捨てられなかったのです。

ボロボロの今村柚巴を受け入れてくれた唯一の環境

ここまでの環境でよく学校行き続けたなと思うのですが、救ってくれたのは吹奏楽部の面々でした。いい意味で人のことを気にしない人が多くて、「クラス大変だね〜まあ柚巴は柚巴じゃん」と、助けも過干渉もせず、そのまんまの友人でいてくれました。

コンビニやカラオケ、ディズニーランドに制服で出かけるというこれはやらないと死ねない、、と思っていた青春っぽい行動も部活の友達と行って。同じ「高校」という狭い場所の中で全く別の自分の顔を持ちながら、ありのままを受け入れてくれる存在がなんて尊いかをしみじみと感じていました。

今でも当時の友人とはよく会う。先週も会った。一生もの。

将来の夢は国語教員。教員に助けを求めようにも、「今村さんはうまくやってますよ」となかったことにされ、教師に一切の期待をしなくなったものの、内部進学生で教育学部に進む人が少ないことを踏んでの消極的選択でした。
あと、「将来の夢」が現実的に定まってる自分が好きだったんだよね、なんか大人びてそうで。

18歳〜タイで攫われる〜

そうして夢にまでみた大学進学!人間関係をある種リセットし、選んだ部活はジャズビッグバンド部でした。テナーサックスをやりたかったこと、高校の吹奏楽部に救われたことが決定打でした。

しかし、私は結果部活を一年で辞めています。理由は「吹奏楽部は好きだったけど演奏が本当に好きなわけではなかった」ことに気づいたから。

青山学院のビッグバンド部は全国大会でトップ常連、優勝もするほどの超強豪。活動は週3でありつつも、朝から晩まで、授業もサボって音楽に没頭する人たちがいるような部活です。

ジャズ好きにとっては最高な空間だと思う。でも半年やったくらいで「私、そんな好きじゃないし伸びないな」と実感しました。コンマ1秒の音を作り、アドリブソロを繰り出す同期たち。勿論ゆるいチームで続けることもできるのですが、本気の同期との会話もズレていくし、あんなに熱望した大学を快適でない空間で過ごすことに違和感を感じ、退部を決めました。

さらっと書きましたがめちゃくちゃ悩みました。当時あの高校でさえ2年間耐えたほど、やると決めたことを自分の意思で辞められない子だったこと(意思が強いというより、決断力がなくて)また、自分を救ってくれた吹奏楽部への違和感は激しく、半年間1人で悩んで辞めました。

ただ、お陰で何が好きなのかを抽象化して整理できるようになったとは思います。音楽が救ってくれたのではなく、そこのメンバーが大事だったんですよね。

そんなこんなで週6練習から解放された春休み、暇すぎた私は名義だけ入っていた海外ボランティアサークルの面々とタイに渡航することになりました。

貧困層の支援ボランティアは正直想像通りでした。プロモーション映像で見た「貧困国だからこその温かさ」的なもので。

英語が話せない自分はコミュニケーションも満足にとれないし、支援する側だからお客様待遇を感じる。なんだかやっぱり直面しても、どうしても他人のこととしか見えなかったのです。そんなもんかぁ、まあ青春っぽいし、いいか。くらいに捉えていました。(口が裂けても言えないけど)

街をバンコクに移動し、日本人ガイドをつけて観光をしようとしたその日の夕食時。忘れもしない出来事が起こります。

おかしいなとは思っていたんです。疲労困憊して一才飲酒しない学生を尻目に、泥酔直前までビールを煽り続けるガイド。タメ口になったかと思えば、「なんで時間通りに集合場所に集まれねぇんだよ、舐めてんじゃねえぞ」と罵声が聞こえる。あれ、これはやばくないかと思った時には、メンバーの男子は全員ガイドの運転する車に詰め込まれていました。

「飲酒運転ですよね?」と声をかける前に、彼らの車はもう見えなくなってる。取り残されたのは英語すらままならない女子大学生たち。うわあ、死ぬかも。

思考停止する我々に声をかけたのは、通訳として雇ったのタイ人の女性。彼女のパートナーが現地で教授をしている日本人であること、知人がバンコクでゲストハウスを運営していることを伝えられました。

ここからは断片的な記憶だけど、なんとか車内の男子と連絡をとって車を特定し、タクシーで追いかけて日本人教授が交渉。朝の3-4時に友人の身柄を返却(なんとか)。
ほぼ一文なしになった(お金を日本人ガイドに預けていたため、当たり前のように帰ってこなかった)私たち一行を、約2日間ゲストハウスで匿ってもらえることに。

雪崩れ込むようにたどり着いたゲストハウスには北朝鮮からの難民出身の青年や、自分と同世代で世界一周をする米国男性等が泊まっていて、私たちを宥め、安心させてくれました。

日本は安全で、世界は危険。

そう思っていた私はこの日、世界はなんて広く、自分の見ていた世界はいかに狭いのかを嫌と言うほど自覚しました。

「偏見を外して、相手個人そのものを見る」為にもっと沢山の人に出会わなければ。今すぐに。そんな焦りすら感じるほどに。

19歳〜船で太平洋を横断する〜

沢山の国の、沢山の背景を持つ人と、平等に出会いたい。しかし留学に行けるほどの覚悟も語学力もない。全部を叶えるお得意パッケージ的な方法はないかと周りをあたり、探し始め。たまたま大学の先輩が参加していた内閣府の10カ国の青年240名と40日間船に閉じ込められるという国際プログラム「世界青年の船」を見つけ、突発的に書類を書いて応募しました。

今思えば酷い文章だった

選考は書類→教養試験・面接(英語/日本語)と進んでいくのですが、当時の私はTOEIC500点という履歴書にギリギリ書けないレベルの英語力。倍率ガーとか、英語力ガーとか思わなかったの?と聞かれますが、そんなことを考えてる余裕がなかったです。プログラムを知ったのが締め切り2日前だったし。

日本語面接で、「君は英語が苦手と書いてあるけど、どうやってプログラムを過ごすのですか?」と聞かれ、「人に頼ります!」と宣言し、英語集団面接ではほぼ全ての英語質問を、同グループの選考生に「なんて言ってるの、、?😢」と聞き続けて翻訳してもらい、うっかり合格を貰ってしまいます(補欠だけど)。

幼稚園時代から受験もしたことがない私が人生で初めて経験する学外活動。どきどき研修に参加したところ、そこにいたのは「留学済」「学生団体立ち上げ」「起業」「コンサル勤務(コンサルという職業を初めて知った)」という煌びやかな経歴の方々。

自己紹介時も「私はこれをやったけど、君は何をやってるの?😊」という、部活も辞めてふらふらするゆず的にはキツいマウンティング合戦。おまけに当時の彼氏に「君が研修行ってる間に出会った子に一目惚れしたから、帰ってきたら別れよう!」という電話までかかってくる始末。

人は、一気に多くの情報を摂取するとおかしくなるんでしょうね。気付いたら全参加者の前に立ち、マイクを掴み、「みんなして、何の実績があるかとかそんな質問ばっかだ!私は遊んでしかこなかったから、遊びに特化したイベントを開いてやる!20歳になるので、船上で成人式イベントをやるから、運営に興味ある奴はこの後会議室に来い!」と言い逃げしてしまいました。

とりあえず指定した会議室で30分待ってみたのですが、誰もこない。広い会議室にポツンと1人、とんでもないことを始めてしまった。と悟りました。でもあれだけ大口を叩いて出来ませんでしたなんて、絶対に言えない。

そのまま教室をで出てその辺の廊下にいた参加生に「絶対にいい会にするから、企画を手伝ってください」と、その名の通り泣きついて回りました。

人はちゃんと真剣に向き合えば助けてもらえるもので。

2人3人と企画を手伝うよという声が集まり、中にはPM(プロジェクトマネジメント)経験がある人や通訳ができる人、書道ができる人もいて、なんとか思いつきが企画となり、前に進み始めました。大人数に周知する施策、20歳じゃない人も楽しんでもらうには、日本独自文化を知ってもらうために説明スライドを作ろう、と、私が持てない視点と技術を皆が持ち寄り、気付いた時には100人以上の世界中の晴れ着を着た参加生が集った講堂の照明室で、私は1人スポットライトを当てていました。

自分の眼下には年齢も背景も異なった人たちが、肩書き関係なしに「なんとなく、楽しい」という感覚を共に過ごしている。そんな場を作り上げられたことから「遊び」の持つ力に取り憑かれるような日々が走り出しました。

私自身は力がなくても、声をあげていれば助けてくれる人はいて、自分って、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。という根拠のない自信も。

狭い世界で自分のことがあんまり好きになれずにいた私には余るくらい、沢山のものをもらってしまいました。

20歳〜ゲストハウス日本一周〜

二十歳になりました。私は2000年生まれなので、つまりこの年は2020年。新型コロナウイルスが蔓延し、戦後初のオリンピック延期が行われた年です。世界が一気に広がった船から降りたと思ったら、私の稼働範囲は数十坪の自宅内に止まり、ベッドと勉強机を行き来する、中学生時代と同じような日々に悶々とする日々が始まりました。

留学に行くことだけは決めて、朝から晩まで問題集を見つめ、ゲシュタルト崩壊直前で限界を感じかけたその時、ネットニュースでゲストハウスの経営状況悪化を、またFacebookの投稿で、和歌山のゲストハウスがオンライン宿泊体験イベントを開始したことを知ります。(当時はオンラインイベントが超流行していました。懐かしいねもはや)

私は日本のゲストハウスには一度たりとも泊まったことはないけど、自分の人生の歯車を回し始めたゲストハウスの一大事。

何か、私にもできるかもしれない。というか、誰もやらないんだから今やらないといけない。

気づけばパワーポイントで企画書を作り、全国47都道府県のゲストハウスをインスタグラムのライブ配信機能を使って、リモートでコラボ配信を行います!と宣言をし、スプレッドシートを作ってとにかく全国の宿主に企画資料を送り始めました。

KPIも、事業展開方針も、売上高も何も知らない、読めたもんじゃない企画資料。友人に「とりあえず相談してみな!」と繋いでいただいた北海道のwaya guesthouseの柴田さんを起点に、この人にあったらいいよ、あの人はこのゲストハウスの代表を知っているよ、と紹介をしていただき、朝から晩までInstagram配信、企画説明、インタビューの内容をまとめてInstagram投稿、フォロワー増加の施策。。と、ただ目の前のやることを実施することに没頭する毎日が続きました。

40軒くらい配信を終え、季節が夏に傾き始める頃、なんとなく始めた就職活動用のエントリーシートにゲストハウスプロジェクトの事を書いたことで、ふと冷静になりました。

私の手元には「0からはじめて繋がりを作り、47軒のゲストハウスとライブ配信を行って、コロナ禍の宿を応援しました」という功績が残ります。

で、それで何が起こったっけ?誰が幸せになったっけ?

自分が半年かけて関わってきてくれたゲストハウスの方々に対し、「就活の話題」なんていう結果しか残せない。それってとんでもない自己満足なんじゃないか??
自己満足エンドを回避するために考え続けた結果、「クラウドファンディングをして日本一周をし、ゲストハウスをまとめたガイドブックを出版する」というプロジェクトをリリースするに至ります。

クラウドファンディングの伴走支援に柴田さん、本のデザインと構成に、当時ゲストハウスイベントを毎日開催していたデザイナーの大塚誠也さん、そのイベントの常連だったなおさんを加え、初めて明確に数値的な結果が出てしまうプロジェクトを動かしました。

何より恐ろしいクラファン失敗を回避するため、できることはなんでもしました。ゲストハウスのオーナーさんに再度協力を仰ぎ、世界青年の船時代の友人を含め150人程に電話をかけ、「旅 協賛」でググって出てきた起業に飛び込み営業して。

写真が若い。

約1週間で目標金額を突破。日本一周が現実になりました。

コロナ禍でオンライン授業が主流だったこともあり、旅をしながら休学しないでリモートで単位を取り切ります!ととち狂ったことを思いつき、本当にそれを許可した教授の授業だけで履修を固め、大学3年の後期を全リモートで過ごしました。

あんまり言ってませんが、これが「ノマド女子大生」と名乗り始めた由来です

初めての大型プロジェクトで、旅先でもnoteを毎日書いたり、アポを取っている為日刻みのスケジュール。でも不思議と苦じゃなかったんです。クラファンの営業電話も、新しい人に出会えたり、旧友と再び話せる口実になったり。とにかくポジティブに変換するようになっていきました。

旅の日刻みスケジュール。

行く先々で本当に沢山の人に会いました。初対面なのに歓迎してくれたり、進路の悩みを共有したり、怒られることもありました。

今も昔も、本当に多くの人に叱って頂けることが有り難いです。間違いを無視しない、温かい人に恵まれすぎました。旅で出会った全ての方、何よりゲストハウスのオーナーさんは、私の礎です。

有難いことに、当時私が出会った大人の方は皆ポジティブで、「事業拡大方針がないから意味がない」とか「オーナーさんの時間を食うだけなんじゃないか」とかいう人は1人もいませんでした。むしろ、今やっていることを進める方法を提示してくれることばかりでした。自分を超肯定すると、ある意味私のプロジェクトがもう勝手に動き出していたからだと思います。

年次が上がり、私は最近相談を受ける側の立場になりました。

「これをやりたいんだけど、やるか迷っているんですよね」という相談に対しては、「本当にそれ、やる必要ある?」と突っ込みたくなってしまいます。どうせやるならいいものをやって欲しいし、人は誰かに指摘したくなっちゃう生き物なので。でも、「もうこれやっちゃってて、この壁があるんです」っていう人には、そんな質問は野暮で、次のアクション方法の提示をしたくなるんです。やってりゃ壁にはぶつかるし、そこの乗り越え方を模索する過程で本質的に行うべきことに気づくと思うので。

たまに、「事業相談をしたけどボロカスに言われた。なんて失礼な奴だ」という発言を目にすることがあるのですが、一度スモールでやっちゃえばいいのにな〜、ダメだったらまた相談すりゃいいのに。と思います。相談だけして頭でっかちになっている時間がもったいないと思うし、てかダメ出しされてやらないんだったらあんまり本人もやりたいと思ってないんじゃないかなと。

100人に不安を相談するより、1動かして、その結果を持って1人に相談する方が私は絶対に次が変わっていくと思います。(まあでも、それが私も満足に出来ないんですけどね)

あと、何か新しいことを始める時、そこに至った背景が意識されがちですが、そこもそんなに重要じゃないんだなと思いました。

私はほぼ日本のゲストハウスに泊まったことはありませんでしたが、その瞬間とにかくゲストハウスのためにやれることをやり尽くしたら、信頼して下さる方も集まりました。結果、やるかやらんか、やり続けるかの違いなんだなぁと思います。

21歳〜イギリスに逃げ出す〜

1年経ち、友達15人くらいだった当時の私のFacebookは、旅を終えて気づけば1000人になっていました。

そんな私の目の前には、約一年前に掴み取ったイギリス大学留学の切符(しれっとクラファンしながらTOEICの試験を突破してた)。しかし当時の私は「留学に行かないで、旅で起業とかしちゃおうかな」と思っていました。

完全に調子に乗ってたんですよね。自分は何者かになれるのかも、新しい生き方を提示できるのでは?と思って、旅しながら大学の授業を受けてその様子をブログに書いたり、イベントを開いたり、「大宇宙大学」という(今思えば全く内容が定まっていない)屋号を掲げて、100BANCHというインキュベーション施設にも入居しました。

でも、何もできなかった。半年もがいてみたけど、「何者かになりたい」欲なんて一瞬のガソリンでしかなくて、一度多少成功したからって「旅」に固執して。でも自分の人生を晒して実験台にすることが怖くて怖くて辛くなって、

「リセットしよう」

と逃げ出すようにイギリスへの航空券を掴んでいました。

1年間のイギリス留学は、それはそれは遊びに振り切りました。日本や旅、かつて行っていたプロジェクトの話を一切出さず、目の前のイギリス大学での毎日を満喫することに振り切り、「ただの今村柚巴」をしていました、

英語を本気で頑張るために、毎日飲み会に出席したりしていた

そして1年後に帰国した時、旅で出会った人はそれでも暖かく「おかえり」と声をかけてくれて、「あ、私は過去の成功体験に固執しなくていいんだ。何もしてなくてもいいんだ。」と、本当の意味で解放されました。

22歳〜人生のキーワードを寄り道にする〜

時間は少し巻き戻りますが、イギリス大学最後の最終課題であるイベント立ち上げを行った時、チームメイトが全く協力してくれずに、イベントが失敗。『起業』や『旅人』としての自分には固執しない。と決めた上で、自分が旅を終えて、本当に突き詰めたかった事は何だろう。と考え始め、100BANCHと「大宇宙大学」に戻ってもう一度ちゃんと手を動かすことを決めました。

そもそも100BANCHは、一度採択されると半永久的にメンバーになれる実験施設なので、戻る戻らないという感覚はないのですが、まる1年プロジェクトから離れた自分的には再加入というような心持ちではありました。

そこでちゃんと伝えたいことを固めて、リリースしたものが「人生のターニングポイントマップ」です。

「自分の人生が変わった瞬間」のエピソードを世界地図にマッピングすることができるWebサービスです。(ぜひ投稿してください!200記事くらいあるはず)

私が結局伝えたかったことは、「寄り道」の価値を上げること。

人生の中の大きな転機なんて、何か目的があって行ったことより、偶発的に行った行為や行った場所だったりする。ただ、今はより「何故これを行うのか、効率的なのか。利益があるのか。何よりそこに大義はあるのか。」という点が重視されていると考えます。私はそこを少しでも変えたい。そう何度も何度も考えてプロジェクトを走らせました。

最近のストーリー性重視の風潮は、非常に複雑に感じます。地元だから活性化させる、大きな課題を解決する。ことが美談になっている。勿論それは素晴らしいと思いますが、「なんとなく本気でやってるんです。ただ作りたいだけ、勝ちたいだけです」と言った本能的な行動に「お前がやる必要ないじゃん」というような人にはなりたくないなあと考えます。何で人を納得させないとやっちゃいけねえんだ、勝手にやらせてくれ。死ぬほど努力するから。

プロダクトを完成させて理念も固めて、じゃあ事業にするの?と何度も何度も聞かれました。しかし私とメンバーの井上は、事業として活動することを選びませんでした。事業としてのインパクトと自分たちの方針は釣り合わない。この拘りは外すせなかったし、逆にいうと資本に向き合う勇気と拘りもなかったという点も正直な所はあると思っています。

100BANCHの皆さんには朝から晩までふわふわしていた思いの言語化を行ってくれました。それだけでなく、自分の進路のこともずっとずっと話して相談に乗ってくれました。心から感謝しています。ありがとうございます。「ビジネス」というアウトプットに拘らない、(勿論ビジネス的に超インパクトを出してる人も沢山いる)未来に向けての実験区です。

23歳〜本日の主役は、進路に迷う〜

ここまで色んな活動をしていると、周りに「起業するの?」と聞かれることが多くなりました。そしてその度、「や、就活するわ!」と答えるようになりました。

「寄り道」というテーマは人生においてはぶらさずとも、全く別のキャリアを歩みたい。留学前の挫折の記憶は根深かったし、私は自分のプロジェクトに向き合いきれず、あきっぽく弱かったのです。

何社受けたんだよ、、

しかし、自分は今までの活動を「旅、地方創生、コミュニティ」に振り切っていたため、仕事としてやりたいことがさっぱりわからず、自分を俯瞰できずに就活には超苦戦。
コンサルから食品メーカー、不動産に銀行、保険会社。アメリカのボストンキャリアフォーラムにまでいって、最終的に受けた会社は100社に上ります。とにかく今までの興味関心そっちのけでありとあらゆる会社に触れました。(旅行会社だけは受けなかった)

就活時期の友人が皆内定を取り始め、箸にも棒にもかからなくて病みかけた今村が取った行動が、これ↓です。

1年の格闘の末、自分は「今まで見過ごされたものに視点を向けること」が好きだし、得意かもと感じ、また、単純に90年代の広告の大ファンだったこともあり、大手の広告代理店に内定を頂きました。めでたしめでたし。

と、思うじゃないですか。

内定も出揃った6月ごろ、20歳の頃にゲストハウスで出会った友人の起業家、じーこさんにお誘いいただきIVSというビジネスカンファレンスのスタッフを行うことに。このことを機に想像外のキャリアに舵が切り始められます。

正直言ってしまうと私は「スタートアップ・起業」という文化が苦手でした。それこそ効率至上主義で寄り道が嫌いそう、人付き合いも利用する/されるで希薄な気がするし、マウントを取るような話し方をしてそうだし、「社会的価値があるか、大きくならない行動は評価しない」とか言ってそう。23歳になるまで出会った「起業」に関する情報に引っ張られたイメージを持っていました。

若い頃からちょっと目立つ活動をすると、それこそ怪しい起業家自己啓発セミナー等の声がかかることがあります。詳しくは書きませんが、若い人はカモになることもある、ということを同世代の人に知っておいてほしいです。

(IVSがマイナスイメージのそれど真ん中だったわけではないですが)起業という2文字にさほど熱狂できなかった私は、正直もう関わらないだろうしいいや〜くらいの意識で、京都から帰宅する夜行バスの中で感想記事を書きました。そこから数時間後だったか。Skyland Ventures(SV)というVC(ベンチャーキャピタル。スタートアップ企業への投資会社)の代表に

「本日の主役」のnote読みました。おもしろそうなので起業家とVCが集まるBBQに来ませんか?

と誘われるのです。

怪しさMAX!!!

普段の自分なら絶対に行かないのですが、わざわざ昔のnoteにまで遡って読んでくれたことが嬉しくて+信頼している起業家の友人、青木大和さんと篠原さんに「多分大丈夫だろうし、行ってみたら?」と声をかけられたことで、参加を決めます。

まあここで何をしたか、というと、超・肉を焼いてました。

私はここまでの23年間で、「皆がさほど注目していなくて、自分だけが頑張れる領域を、誰よりも真面目にやる」ことが、人よりさほど秀でている訳ではない私がこの世に何か貢献をする方法だということを何となく認識していました。

スタートアップのことも未知で、友達もいないのであればせめて誰よりも真面目に肉を焼こう。そんなことを考え、ほぼ人と話さず、せこせこと煙を浴びながら肉を焼き、いい肉食べられたなくらいの感覚で家に帰りました。

しばらく「あのスーパースタッフの方ですね!」と言われ続けた。

そしたらその翌日、木下さんに「誘ったけどほぼ話せなかったですし」とSVオフィスに呼ばれます。渋谷のビルの5階。どうせ若いうちに挑戦しろ起業しろ的なことを言われるんだろう、、怪しさは未だ抜けてないので恐る恐る階段を登ると

「VCとしてキャピタリスト、目指しませんか?」

と、だいぶ斜め上な提案をされます。なんで肉焼いただけで投資家に向いてるかわかるんだよと思いつつ、「え、嫌です。私広告代理店に行くので!あとファイナンス苦手です!」と思いっきり断りました。
「お金に換えられない価値」を大切にすると決めた自分にとって、正直苦手領域すぎる。あと怪しい。

ただ、本能的な感覚で、今この会社に関わるのは面白そうだ。と脳内が訴えてる気がして。週に2日だけ、とりあえず1ヶ月、入社しない、という謎の条件付きでインターンを始めることにしました。

ここからの半年は、沢山書いてるので詳細はnoteを読んでくれと思うのですが

阿波踊りに行ったり

運動会を開いたり

古巣のトビタテ!留学JAPANに寄付が決定したり、

3ヶ月後には週二、と宣言した稼働量はほぼ毎日に変わっていました。

丁度SVが「沢山イベントを打とう」という時期で、自分の得意分野が生かせたこと。
スタートアップど真ん中ではない領域と、スタートアップを繋げようという動きが活発だったこと。
木下さんが多くの起業家や投資家に合わせてくれて、その人たちがいい意味で私の想像と違って、目の前のやるべきことや学生の私にも真摯に向き合ってくれたこと。

偶然と会社の皆さんの力添えがあって、私はかつて向いていないと感じたスタートアップの領域にのめり込んでいきました。

12月ごろには「色々やらせてくれるし、内定蹴ってVCなんていったらかっこいいだろうな〜」という、今思えば完全に調子に乗った進路相談を周りの方に始めました。

私は、投資家が大嫌いだよ

その日は昔の知人に会いに、新橋のカフェに足を運びました。私が「広告代理店やめて、VCになるか迷ってるんだよね」と口を切った瞬間、目の前の先輩の顔が明らかに曇っていくことに気づきます。

「進路は今村が選択することだだと思う。その前提で、私は投資家が大嫌いだよ。起業家の友達で、出資を無理な額で受けて、事業が失敗したら社会的に生きていけなくなった人も、自殺未遂をした人だって知ってる。若い人にお金を投じるって、特効薬にも猛毒にもなる。それを煽るVCを、ファイナンスの知識もない君は本当にやるの?」

「あと、運動会や社会活動的なCSRアクティビティは、絶対すぐになくなる。VCの本業に繋がらないんだもの。それがやりたくて入りたいなら、絶対に私は止める。」

カフェから出て、じゃあ、と声をかけてJR線に乗って、普段は絶対に座らない優先席になだれ込むように座りました。

どうしよう。私は、本当に本当に、とんでもない領域に足を踏み入れてしまったのかもしれない。人を資本でしか見られない人間になってしまうのかもしれない。怖い。

どくどくと止まらない鼓動。私が夢中な業界が真っ黒な世界なように見えてきて、知らないうちに涙が止まらなくて。

帰宅した直後、トビタテ!留学JAPANとして留学奨学金を共に受け取り、スタートアップ運動会を共同主催した、スタートアップ業界で一番の友人の後藤智子に電話をかけていました。

自分の活動が怖い、人の人生をお金で狂わせているかもしれない、この業界にいるべきじゃないのかもしれない、でも会社も好き、あなたも好き、半年で出会ったスタートアップ業界の人も好きなんだ。

叫ぶように自問自答する私の言葉をうんうんと聞いてくれて、最後に彼女は一言だけ言ってくれました。

「マイナスの意見は、黒い絵の具みたいにすごく心に刺さると思う。同じくらい、自分と、自分の会社と、スタートアップを好いている人と話して、自分に摂取している情報を同じくらいにしたら、いい判断ができると思う。私はどんな選択を取ろうとも、ゆずちゃんもSVも好きだよ

自分がやりたいこと、信じたいもの、小学校から大学まで、用意されてきたレールと新卒カード、資本主義、遊び、挑戦する自分という優越感、、

2023年の冬、今までどこかで甘く都合よく考えてきた自分の進路を強く殴られ、最後の最後に、本当の意味で進路を考え始めたのです。「自分はその枠じゃないから」と避けていたファイナンスと事業の勉強を0から打ち込み始めて、多様なVCの先輩方にご相談を行い、本当に好きなのか、やっていく気はあるのかを毎日毎日問いただしました。

名著。まだ理解が追いつけてない。精進。

24歳〜進路を決める〜

そうして迎えた2024年1月5日。私は一つの回答を持って渋谷に向かいました。

Skyland Venturesに入社し、キャピタリストを目指すという決断です。

所謂大手の安定的な会社は、お断りをしました。(皆さん暖かく受け入れてくださりました。感謝しかありません)決断のために考えに考え抜き、その先で見つけ出した3つの理由を以下に記載します。

1. 投資をして、まだ見つかっていない広まるべき会社と人を見つけることが好きだった

そもそも、広告代理店に行きたかった理由は「まだ見つかっていないものをあらゆる手段を使って広めることをしたかった」からでした。

その手段のクリエイティブの超一流に行きたくて大手代理店を志願していたわけですが、大手代理店の仕事相手は大手企業なわけで。取り扱う商材も「もう既に広まっているもの」になります。それが本当にしたかったんだっけ?と考え直したとき、「これから世界を変えてしまうかもしれないモノと、その作り手の方を見つけて、広げたい」と考えました。

あと、実際に投資対象になるような起業家の方と関わり始め、彼らの「大義名分とか生きる意味とかそんなことより、目の前のやっていることを絶対に成功させてやる。そのためにはどんな手段でも取る」という、もはや狂いにも違い強かさを知りました。こういう人が好きだし、この人たちと仕事したいなって思ったことも理由です。

2. 遊びや寄り道といった、非資本的な価値を上げるために、真逆の資本の世界のど真ん中で戦う必要性があると感じた

私は今まで資本より感覚!合理より無駄!を突っぱねてきたような人でした。しかしひょんな事からスタートアップ投資という、資本の中心みたいな世界に飛び込みんだことから、真逆の世界を食わず嫌いして批判している自分が物凄く小さく見えたのです。

私は遊びと寄り道が好きで、無駄の価値を上げたいと本気で思っています。そのためには合理を追求したその先でこの論理を唱えたい。だから何より経済的インパクトを求めるような『お金』に携わるシードスタートアップ投資を選びました。

現在、ファイナンスも事業形態も知識は正直低いと思います。社会性や言葉を使ったコピーライティングの方が、経験値としてはあります。でも、まだやっていないだけで苦手だとはもう言いません。私なりのやり方で、投資という業界を走り抜けます。

3.会社と、代表と合っていると感じた。

他人に依存している、キャリアをそこで選ぶなやと指摘されそうですが、敢えて書きます。
私は今まで、本当に環境と人に救われて人生が形成されてきたと思います。大きな壁を乗り越えた時、常に隣には一緒に悩んでもがいて、喜ぶ時には心から喜ぶような人がいました。

Skyland Venturesは突発的な行動も多いし、バランスもムラがあると思います。木下さんも、全ての行動や発言が正しいとも思っていないし、意見が対立することもあります。ただ、自分が社会に出るタイミングで誰と一緒にやりたいか?これは自分自身が本当に輝ける場所なのか?を考えた時に、すっとSVと木下さんが出てきたのも事実です。

プライドを捨てて、目の前のやるべきことのために嘘偽りなく議論も反論もできる人。それが今の私にとってはSVであり、木下さんです。

誰を選んだのか、どの環境を選んだのかは、私の選択です。他責にはしないという前提のもと、私はこの環境でやっていこうと思います。

最近、私が20歳の頃からお世話になっているカメラマンの友人(一度木下さんとの写真を撮ってくれた)から、「木下さん、僕が紹介した友人の整体行ってくれてるらしいよね、ありがとう」と連絡がきました。木下さんは不器用な人かもしれませんが、こういうところが好きなところです。

この進路選択にあたり、沢山の人の支えがありました。進路のために運動会に来てくれ、「木下さんならいいと思うぞ」と言ってくれた世界青年の船の先輩のゆうじさん、ずっと側で相談に乗ってくれた後藤智子、IVSに引き合わせてくれたじーこさん、SVのインターン期間を共にした皆、何よりこんな私を受け入れ、素晴らしさを教えてくれたVC及びスタートアップの先輩の皆様に心から感謝しております。

唯一の同期と!

最後に、私の将来の夢2024

私の将来の夢は「映画『サマーウォーズ』のおばあちゃん」です。

映画を見たことがない人のためにざっくりと書くと、
田舎に住むなんてことないおばあちゃんが老衰で死亡すると同時に地球に落ちそうになる隕石を、旧友たち(謎に国防や消防士やAIハッカーがいる)の力を合わせて消滅させる、
的な話です。そのおばあちゃんになりたいんです。

因みにこの画像におばあちゃんはいない

私、自分自身の力は全然ないと思います。

でも、自分は弱くても人に助けて頂ける才能だけはあるんじゃないかなって思います。

そこだけが私の誇りであり、誰よりも自慢できることです。
いつか自分がおばあさんになって、世界が危機に陥ってもそうでなくても、このままいけば地球くらい救えちゃうんじゃないかな?って、本気で思っています。青臭いと笑ってください。絶対になるので。

そのことを体現し続けるために、私の選択はとられ続けます。今はまだまだ頼りがいがないかもしれません。でも、私の周りにいれば絶対に皆幸せになれる!と思ってるし、思ってもらえるような行動を取れるように、明日からも1日1日を生きていきたいと思います。

私の周りにいる人は全員がかっこよくて、ユニークで、最高です。

初等部の近く、唯一咲いていた桜の木の下。

2024年3月31日 今村柚巴

※もっと勉強したい!ということで、とりあえず4月4日(木)の朝8時から起業勉強会を渋谷で開催することにしました。是非ご参加頂けますと幸いです。


人生のターニングポイントをこのマップに刻んでいってください〜 https://universityofuniverse.net