【.*毒を手放す 〜毒親×自分の中に毒を持て〜*.】

表現は自己を見出す光。

.*毒を想ったはじまり

『毒親』という表現が世に出てから。
刷り込まれた当たり前の概念から
「自分は本当はダメじゃないのかもしれない」
という希望を見出した人は少なくないのではないか。
それが例え「親のせいにしてみる」と言う根本的な解決に直接向かうものではなかったとしても、抜け出すきっかけになれば良いじゃないか。
(真の脱出は人のせいではなく自分を受け入れることだけどね)

少なくとも私はそのうちの一人だ

批判され続け、劣等感、自己嫌悪が沸き起こる。
それはいわゆる毒親との暮らしで起こり得る心の変化。
そこからの逃避が私は努力だった。

だから努力はただの自傷行為でしかなかった。
それ以外に自分に許せることは、諦めることだけだった。
諦めることだけは上手になった。
自分を守る術になった。

薬剤師の怠慢?無知?でアレルギーにて死にかけた。
その時預け先で犬が逃げて轢かれて死んだ。
それでも自分が悪いと諦めた。
ネガティブな感情を露わにしてもどうにもならず、
そんなことをした自己嫌悪をまた自分で回収するのも疲れる。

そんな日々を過ごし
「しょうがない」
と自分を納得させるのだけは上手になった。

なので自己も他者も肯定は簡単にできるものではない。

しかしながら
私は「他人をちゃんと肯定している」と思い込んでいた。
そう思って少しでも自分のことを好きになろうと頑張っていたのかもしれない。
そんな幻想を信じ頑張っていたなんて今思うと健気で自分ながら可愛いものだ。

私は他人を肯定などしてはいなかった。
自分のことを肯定することもない。
私がしていたことは、ただ諦め譲っていただけだ。
「この人は何ももっていないからしょうがないんだ」
「だから私がやらなければいけない」
結局明らかにしていけば私の中にはこれが残った。
私はただの傲慢な人間だったのだ。
それを認めたくなくて他人を肯定してると思い込ませていたに過ぎない。
この世で1番愚かなのは私だった。
人を使って自分を満たす、1番許せないことをしていたのは自分自身だった。
だから、自分のことだけは1番許せなかったんだ。

.*毒とは何か

岡本太郎著『自分の中に毒を持て』

この名書は共感できる部分がかなり多くある。
そうでしかない。そうとしかならない。
自分と他者の当たり前の一致。
それがこんなに安心し心地が良いものだと私は知らなかった。

しかしこれを人は、社会は『毒』と呼ぶ。
なぜだろう。こんなに心地の良いものなのに。

しかし読み進めていくと、
「確かに毒かも…。」
と思う表現も現れてくる。

存在自体に毒は感じない。
でも表現に毒を感じることはある。
いったいその差はなんなんだろう。
いったい毒ってなんなんだろう。

何度も何度も読み返し考察した結果私は毒の正体に気付いた

.*岡本太郎の表現する毒とは才能と嫉妬

この名著において表現される『毒』とはおそらく才能の部分。
なので、理解出来ず毒に感じるということは才能がないということ。
それが良い悪いではなく、事実。

でも、すべての事柄は表裏一体。
どっちかが良ければどっちかは悪くなる。
才能は「どうしたいか」の解釈とその想いの強さによって決められる。

理解するって、自分が同じ立場にいるもしくは寄り添おうとする気持ちが本気の時にしか起こり得ない現象だと実感している。

多くは「理解した気になってる」だけ。
結局は自分フィルターで相手を見てる。
結局そのフィルターを信じているからギャップが生じる。

岡本太郎の才能は自分を貫く強さ、圧倒的な自己肯定と私は捉える。

それを毒としてとる人が多いということは
自己肯定感を否定すべきと自分を殺して生きている人が多いということ。
本当はそうなりたいと思っているのにその気持ちをごまかし続けた人が多いから、社会から才能や個性は毒とされ、疎まれるようになった。

彼が生きた時代から時は流れ、今も尚その現象は悪化の一方を辿っている。
いや、もうくる所まで来てしっかり二極化されたのかもしれないね。
グレーではもういられないよ。
どっちが良い?どっちにつく?
決心までしなくても心の準備はしておいた方が良い。
一気にひっくり返った時に手遅れにならないようにね。

この名著の言う毒とは才能や個性を認められない人に対する皮肉。
理解者からすると毒なんかではなく冬の極上の露天風呂でしかないよ。

この一冊は
「自分の中にある才能を大切にして良いんだよ」
(でも生半可な気持ちじゃ消されるから気合入れてね)
というメッセージだと私は受け取った。
是非興味が湧いた方は読んでみて下さい。

.*『毒』とはその人が大切にしているもの

大切だからやっぱり守る時は本気だ。
それが大切であればあるほど
ぶつかった時には相手を苦しめる。
それでも守るためには強くあらねばならない。

中和できなければ攻撃要素となる。
大切なこと、信念、それが毒の正体だ。

岡本太郎は自分の才能を大切にした。
命を懸けて自分を貫いた。
だから攻撃的で周りには毒と評されたのかもしれない。

じゃあ毒親の毒とは?
それは愛なんじゃないかなあと思った。
きっとほとんどの人がそう受け取れないだけであると思うんだ。
でも、その形が違うから。
受け取り手によっては毒になる、ただそれだけ。

そう考えると、毒と表現するのも何かなぁと思ったのでやめた。
毒になるくらいだからある意味愛が深すぎたのかもしれないし、何だろうなあ。もっと面白い呼び方を考えてあげようと思う。


そんなこんなで私は今日もあーでもないこーでもない思いながら少しでも気楽に生きられるように想いを言葉にしているよ。

自分自身でも言葉にしないと自分の事理解出来ないから。
だから相手なんてなおのこと理解出来ない。
稀に自分より自分の事わかってくれる人もいるけれど。
でもそれは=自分ではない。
きっと同じ気持ちを味わったからわかるだけ。同志。
それに甘んじて伝える努力を怠ったらすれ違っちゃうからね。

社会になんて理解されなくて良い。
所詮自分の存在なんて他人にとっては毒だ。

だからね?
自分で自分のことだけは理解して。
自分が大切に想う人、自分を想って理解しようとしてくれる人にだけは、しっかり伝えていきたいなって、思うんだよね。

そうしようと思ってくれた人がいたら嬉しいな。
だって、これ、絶対生きるの楽になるもん笑