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連載長編小説『黄金の歌乙女』2-2


 朝の散歩から部屋に戻ると、ドアの隙間に便箋が差し込まれていた。貴島支配人からだった。支配人室に来てほしい、とのことだった。
 支配人室は寄宿舎の二階の一番奥の部屋だった。二階には支配人室と寄宿生の指導に当たる講師の宿直室、それから浴場と洗濯室がある。寄宿生の部屋は三階から上になる。志帆のように寄宿生最年長になると最上階である五階の個室が割り振られる。五階は年齢で言えば高校生が使用するフロアだ。四階は中学生に割り振られており、今は皆学校に行っているため誰もいない。中学生になると男女で部屋が分けられ、四人で一部屋となる。三階は、言うまでもなく小学生以下の寄宿生のフロアだ。個室が二部屋あり、あとは三十畳の大部屋である。三階の個室は、使用を希望した女児にだけ割り振られることがある。体の発達が現れる時期であり、それを恥ずかしいと思う女児もいる。そういう場合、個室が割り当てられるのだ。この階も、今は殆ど人がいない。殆どというのは、寄宿生には未就学児もいるからだ。未就学児は今、三十畳の大部屋で保育士に面倒を見てもらっている。
 二階まで下りた志帆は、支配人室に入った。貴島支配人は、志帆を見て読書をやめた。
「おはようございます」と志帆は挨拶した。
「おはよう」と支配人は言った。「甲斐野さんとの食事は、今日だったね?」
 何だ、と志帆は思った。その話か。
 はい、と志帆は頷いた。「夕方、寄宿舎を出ます。甲斐野さんが手配してくださった車が迎えに来てくれるそうです。なるべく門限は守るようにします」
 寄宿舎の門限は午後九時だ。会食は午後六時からだから、帰れないことはないだろう。
「門限はいいんだ」と支配人は優しく笑い掛けた。「楽しんでおいで。くれぐれも、粗相のないようにな。帝都歌劇場は甲斐野グループの支援があって成り立っている。先日の素晴らしい舞台も、同様だ」
「はい。わかっています」
 うん、と支配人は頷いた。
「さて、君達の卒業公演のことだが」
 志帆には同学年の寄宿生が二人いる。メゾソプラノの浦部愛梨とバリトンの小杉慎吾だ。帝歌では、毎年二月に卒業公演が上演され、卒業生は実力に関わらず全員が登壇する。ただ、メインキャストであるかはわからない。入場料が発生する以上、最高の舞台を提供しなければならない。
「『ノルマ』に決まった。タイトルロールは、君だ」
「ノルマ!」
 志帆は思わず、喜びの声を上げた。しかし同時に、ノルマという大役に首が回らなくなるほどの重圧を感じた。
『ノルマ』はベルカントオペラ最高傑作と呼ばれる、ロマンチックで華やかな作品だ。首都劇場で上演された映像を見て、いつかあたしもノルマを歌いたい、と志帆は思っていた。念願の作品であり、寄宿生として最後の、集大成となる舞台にはこれ以上ない役だ。
 しかしノルマが歌う「清き女神」というアリアは高度なテクニックが要求される。マリア・カラスでさえ、このアリアを「すべてのアリアの中で最も難しい」と語っている。
 あたしに務まるだろうか。
 そんな不安が胸を駆けた。が、断る理由などなかった。志帆は、力強く頷いた。
「頑張ります」
「私も楽しみにしているよ。卒業公演で寄宿生が主役を歌うのは煌子以来だ。二人目の快挙だよ」
 西園煌子は、志帆の先輩にあたる。現在日本国内で華々しい活躍を見せており、その美貌も相俟って、歌姫と言えば西園煌子、と持て囃されている。煌子は寄宿生で初めて帝歌で主役を歌った。寄宿生全員の憧れだ。『つばめ』では、その煌子以来の主役を志帆が務めた。『つばめ』に続き、卒業公演でも志帆は主役に抜擢された。
 煌子の快挙以来、寄宿生は皆卒業公演で主役を歌うことを目標に、稽古に取り組むようになった。今日まで、その目標を達成した者はなかった。
 それをあたしが。
 考えるだけで、体が痺れた。沸々と、血が騒ぐのがわかった。重圧も心地よく、早く舞台に立ちたい、と思った。
 支配人室を出た志帆は、自分の喉に手を当てた。手は、ひどく熱を持っていた。
 
 貴島支配人から『ノルマ』について伝達された後、志帆はいつも通り稽古に打ち込んだ。中学卒業後寄宿舎に残り、音楽に生きる決意をした者は八人しかいない。しかし八人もいれば、重唱も合唱も可能だ。講師の指導の元、正午過ぎまでエチュードをこなし、昼食後はペアを作って二重唱、あるいは三重唱を歌った。
 志帆のペアは、大抵飯田健吾である。飯田は、志帆の一学年下のテノールだ。飯田の歌声はよく伸びる。重厚感もあって目を見張るところがあるが、課題は演技力だった。そのため稽古で志帆と二重唱を歌っても、遜色ない。
 午後五時まで、一組ずつ歌っては批評し合う。
 だが志帆は、午後四時で稽古を抜けた。甲斐野充との会食のためだ。もちろん講師も承知している。だが愛梨だけは、冷ややかな視線を投げて来た。
 稽古室を出て階段を上ると、二階で呼び止められた。踊り場で立ち止まると、小学生が十人ほど駆け寄って、志帆を囲んだ。
「志帆姉ちゃん、王子様にお招きされたんでしょう?」西川宏太が言った。愛くるしいボーイ・ソプラノだ。
「王子様?」志帆は口を大きく広げて驚いた。思わず吹き出してしまった。
「うん。王子様が志帆姉ちゃんをご飯に誘ったって聞いたよ」
「誰から?」微笑みながら、志帆は訊いた。宏太の無邪気な瞳を見ているだけで、癒された。これだから子供は可愛いのだ。
「知らない。みんなが言ってるから」
「ええ、そうなの?」
 だが『つばめ』の打ち上げで感じたように、甲斐野充は王子のような存在だ。パトロンの息子に誘われるなんて、ロマンティックでまるでプリンセスのようだ、と志帆は悦に入った。
 昔から、志帆はそういう夢想癖があった。学校の図書室では恋愛小説を読み漁り、寄宿舎に寄付された少女漫画はすべて読んだ。読みながら、いつかあたしにもこんな恋愛が、と夢に見ていた。
 その夢が、今目の前に広がっている。それは夢ではなく、現実だった。
「王子じゃないから」
 倉橋希美の声で、志帆は我に返った。希美は宏太と同じ九歳だが、やけに大人びている。ませている、と言ったほうがいいかもしれない。声音も、ずいぶん落ち着き払っている。
「ただの金持ちの息子だから。王子なんて日本にはいないもん」
 しかし、子供だ。
 志帆は、希美の頭を撫でた。
「王子様はきっといるよ。信じてみないと、いる人もいなくなる。でしょ?」
 宏太は目を輝かせて頷いた。希美にしたように宏太の頭を撫でてやると、宏太は嬉しそうに目を瞑った。
「志帆ちゃんは、その人のこと好きなん?」
「どうやろ?」希美がふいに漏らした関西弁に、つい釣られてしまった。「まだわかんないなあ」
「好きになるかもしれんの?」宏太は瞳を震わせていた。
 志帆は苦笑した。「わかんない。それもこれも、これからの話」
「最後の舞台、また主役歌うんでしょう?」
 志帆が踊り場から動き出そうとした時、中性的な声が言った。赤井弘樹だった。声変わりの前兆が、十一歳の弘樹に見られた。弘樹の声に、志帆は思わず戸惑った。
「え?」
「今日お姉ちゃんが支配人室に呼ばれてたって聞いたから。たぶん、最後の舞台の話じゃないかなって」
 志帆は、どう対応すればいいのかわからなかった。隠しているわけではないが、貴島支配人からの正式な発表はまだだ。
「うん」と志帆は頷いた。「最後の舞台の話だったよ。でも、あたしが主役かはまだわからない。卒業公演で何を上演するか、希望を訊かれたの。愛梨と慎吾にも話があるんじゃないかな?」
 そう言って、志帆は立ち去った。階段を上り、五階の自室まで行くとジャージを持って浴場に行った。汗を流し、自室に戻ってからドレスに着替えた。貴島支配人が特別に貸し出してくれた、美術部に所蔵されていた衣裳だった。軽く白粉を塗り、明るい口紅を塗った。
 寄宿舎を出ると、すでに迎えが到着していた。志帆は車について詳しくないが、一目で高級車であることがわかった。後部座席に乗り込むと、左ハンドルだった。
 車は、鞍馬街道をまっすぐ南下した。貴船口にある鞍馬山小中学校に通うため、志帆も三年前までは毎日歩いていた道だ。今の季節、鞍馬川を彩る紅葉には品があって美しく、しかし力強い。帰路に望む鞍馬山の赤々とした絢爛さは、毎日見上げていても飽きなかった。その鞍馬街道を、志帆は中学を卒業して以来南下した。年に何度か、鞍馬温泉に向かって北上することはあるのだが。
 やがて母校を過ぎ、深泥池の傍を通り、北山通に出た。乗り物に不慣れな志帆は、しばらく車酔いと闘っていた。車は、北山通から下鴨へと向かった。京都市の一等地である。立ち並ぶ家は敷地が広く、個性豊かな色彩を持っていた。それがさらに、志帆の車酔いをひどくした。
 連れられたのは、中華料理だった。個室に案内されると、円卓の向こうに甲斐野充がいた。志帆は蒼白とした顔のままお辞儀した。車酔いのことを話すと、彼は料理の時間を少し延ばしてくれた。
 三十分ほどで、落ち着いた。その間甲斐野充は無理に話し掛けず、時々志帆に水を注いでくれた。志帆が笑顔になったのを見て、彼は料理を運ばせた。
「はじめはフレンチのつもりだったんだ。とっておきの葡萄を開けようと思ってた。でも志帆が未成年だって気づいて、中華にした」
「気にせず、お酒を飲んでもらって構いません」
「じゃあ一杯だけ。焼酎を頂こうかな」
 志帆は、水だった。二人は乾杯した。志帆が会食を設けてもらったことに礼を言っている内に、小籠包や麻婆豆腐が運ばれて来た。それらを食べながら、二人は談笑した。甲斐野充が、何かと話題を提示してくれる。
 初めはオペラについてだった。彼はオペラに詳しくないが、志帆にその魅力を語らせて、愉快そうに聞いていた。それから寄宿舎での生活や、学校での思い出などを語った。初めは緊張していた志帆だが、杏仁豆腐が運ばれて来た時にはすっかり打ち解けていた。
「寄宿舎を出た後は、どうするつもりなの?」
「まだ迷ってます」
「決まってはないのか」
 志帆は頷いた。すでにいくつかの音楽事務所からマネージメント契約したいとの申し出が来ている。志帆自身何度か面談の場を持ったが、進路については未定だ。
 甲斐野充は、肘掛けに肘をつき、優しく笑った。
「実は僕も、君の進路について考えている」
 志帆は思わず口をあんぐり開けてしまいそうだった。しかしそれはあまりにはしたない。何とか思い止まった。
「一つは、僕が事務所を斡旋してあげる。もちろん、大手だ。PR活動も惜しみなくさせる。そこに君は籍を置き、歌手として仕事に励んでくれればいい。もう一つは、僕が君を支援する。君はどこの事務所にも所属せず、フリーランスとして活動する。もちろん事務所に負けない宣伝をする。フリーランスなら、自分のやりたい仕事だけを選べる。進路未定ということなら、この僕の提案も候補に入れてくれないか?」
 志帆は、感激のあまり絶句した。
 あたしにそこまでの価値を見出してくれるなんて。
 甲斐野充の提示した条件は破格と言っていい。まだプロのオペラ歌手として実績のない志帆に対して提示する条件ではなかった。むろん、今まで面談したどの事務所よりも好条件だ。
 期待に応えたい。
 そう思うのは自然なことだろう。最も自分の実力を評価してくれているところに身を置きたい。誰でもそう思うはずだ。
 しかし志帆は、すぐには頷かなかった。
 志帆は、首都劇場合唱団の研究生として日々研鑽を磨くのも悪くないと考えていた。一足飛びに世界に出られるチャンスかもしれないが、焦らなくとも、じっくり研究を行い、それを自分のものにしていけば、地道な時間はやがて志帆を何倍にも大きくしてくれるだろう。
 そういう気持ちもあった。
「嬉しいです」と志帆は答えた。目頭が熱くなるのがわかった。しかし涙は堪えた。「じっくり考えさせてもらえますか?」
「もちろんだ。急かすようなことはしない」
 甲斐野充は、立ち上がった。指先で円卓を撫でながら、志帆の傍まで歩み寄った。跪くと、志帆の手を取った。また接吻されると思ったが、彼はそうはしなかった。両手で、志帆の手を包んだ。
「僕は志帆に惚れているんだ。君の歌声を聴いて、すっかり君の虜になってしまった。だからこうして、君の支援を自ら申し出ているんだ。それを忘れないでほしい。君の才能に見合った報酬を僕は用意する。一般的な音楽事務所に志帆をマネジメントさせるなんて、宝の持ち腐れだからね。君は原石だよ。その原石を一緒に磨き上げられることを、僕は楽しみに待つよ」
 志帆は何も言わなかった。そこまで言われれば首を縦に振りたくなったが、これは志帆の人生を左右する決断だ。慎重に、じっくり考えた上で下したかった。王子の甘い声でも、これだけは靡かせられない。
「実は僕には、お見合いの話がある」
「お見合い……」
 それはまさしく、志帆にとっては貴族の言葉だった。あるいは恋愛小説や少女漫画の世界の言葉だ。ごくり、と唾を呑んだ。
「でも断るつもりだ」
「写真を見て、気に入らなかったとか?」
「いいや。相手のことは知っている。昔からね」
 それって、と志帆は自分のことのように興奮した。「許嫁ですか?」
 甲斐野充は小さく笑った。
「そんな大袈裟な話じゃない。改めて自己紹介するだけだよ。それでお互いが納得したら結婚する。でも強制じゃない。親は望んでいるかもしれないけどね」
「それを、断るんですか?」
「そうだよ」甲斐野充は大きく頷きながら言った。「言ったでしょ? 僕は君に惚れている」

3へと続く……

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