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連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 31

        31

 ここまで没頭したのはいつ以来だろう。いや、ここまでのめり込んだのは初めてかもしれない。女の体を覆う傷はすべて形が違い、その一つ一つに僕は魅せられた。舞踏会でどれだけ見事なドレスを着ていようが、怪女の生傷のドレスには敵わない。美は光りを放つ。妖しい光を。雲の隙間から差し込む日差しのように、その傷一つ一つから光芒が漏れているように僕には見えた。
 それはキャンバスに浮かび上がる肖像も同様だ。僕から見て、右を向いた美貌。見つめる先の髑髏。微かに筋が出た首筋。浮き出た鎖骨。骨張った肩。柔らかく豊満な乳房。細く長い腕。華奢な腰つき。軽く突き出された小さな尻。やや前に突き出された左足。細く長い右足――その体に浮かぶ、光り輝く星々。彼女というキャンバスに、いったいいくつ星座を見出すことができるだろう。あとは血を注ぐのを残すのみとなった肖像を見て、僕は思った。彼女は明日、芸術を超える。それすなわち人智を超え、神をも超え、一つの天体となり永久にその光を放つということだ。どこにいても見上げることができる。星は潰える。だが死は永遠だ。怪女の肖像は、歴史の上に永遠に残る。僕の記憶にも……。
 僕の首を刎ねる死刑執行人の絵を描いているというのに筆が止まらない。それは不思議な心地がした。たとえその先に死が待っていようとも、究極の美が目の前にあれば描くだけだ。芸術には抗えない。それが画家というものだ。芸術家というものだ。音楽家は聴力を失ってでも音楽を求め、小説家は身を滅ぼしてまで小説を求める。画家も同じだ。視力を失っても目の前には芸術が宿る。筆を取れなくなれば頭の中で描く。自分の命を差し出しても、一枚の傑作を欲する。自分の命が尽きようとしているのならなおのこと……。
 神は死の間際に最後にして最高のプレゼントを用意してくれた。生涯のうちに自分の理想像に出会える画家は少ない。だが僕は理想を手にした。究極の美を表現した。僕はこの肖像と共に永遠になる。腹の底から湧き上がる笑いを止められず、喉を震わせた。腹が脈打って、胃が振動で気持ち悪い。その苦しみも、すでに愛おしくすら感じる。震える手で、僕は署名を入れた。一晩置けば、明日には血を通わせることができる。
「あなたすごいのね」僕が終了を告げると、女は言った。「七時間近くずっと絵を描いてた。瞬きも忘れて。あたしが体勢を崩して休憩しても、じっとあたしの体を見て、筆を止めなかった。とても人間とは思えない」
「人間だ。あんたと同じ、人間だよ」
 女はワンピースを着た。何日も同じ服を着ているのか、同じ服を何着も持っているのか、わからない。たぶん同じ服だろうと思った。誰とも会わない、会ってもすぐに殺してしまうのだから、服装に気を遣う必要はない。何日も同じ服を着て、体が痒くならなければ問題はない。
「あたしが人間? そんなこと、もうずっと考えなかった」
「人間だよ。頭が陥没してるだけで人間だ。無数の傷を宿した人間。人を散々殺した人間。あんたは人間であり、一人の女。それは生まれてから死ぬまで変わらない」
 女はふん、と鼻を鳴らした。
「そういう人間を悪魔っていうのよ」
「じゃあ悪魔もただの人間かもしれない。頭蓋が陥没して狂気を宿しただけの人間。人間はどこまでも人間であって人間以上にも人間以下にもなれないんだ。芸術に昇華する以外は」
 僕はキャンバスを女のほうに向けた。ふいにプロメテウスと目が合った。神と呼ばれるだけの、人間が生み出した芸術と。女は満足そうに口の端を曲げた。
「これであたしも人間じゃなくなったってことね」
「ああ、あんたは美の頂に立った。僕には女神にしか見えない」
「頭が陥没してる」
「女神だ」
「血に飢えてる」
「女神だ」
「何十人も人を殺した」
「女神だ」
「異常な性癖を持ってる」
「まさしく女神だ。その性癖に目覚めた瞬間、あんたは女神になっていたんだ」
「おかしいわ……」
 女は茫然として、視線を足元に落とした。僕が何を言っても、今は聞こえないようだった。僕はキャンバスを元の角度に戻し、明日に備えた。その間、女がぶつぶつと独り言を呟いていた。僕はそれを聞き取るために耳を澄ませた。
「あの瞬間女神になったっていうの? じゃああの時あたしは死んだってこと……いや、殺されて、蘇った? 生まれ変わったってこと? 病院……ああ、病院。今でもはっきり覚えてる。みんながあたしを見てた。恐れをなした目で。あれは確かに、神を見るような目だったかもしれない。でも一人、恐れを知らない聖なる愚者がいた。あたしに怯まず、小さな体であたしに抵抗した。刺された……いや、自分で刺した。あの瞬間の痛み。血が沸き立つ感じ……そうだわ。あの時、包丁が刺さって、床に倒れて、自分の血で体が洗われた時、あたしは神になったんだわ。芸術になった……もはや女でも人でもない。狂ってもいない。あたしは額に収まって立っているだけ。一人の画家に神格化されて……」
 女は胸の下の傷を撫でた。それに触れると悶えるように天を仰ぎ、そして笑った。喉の奥を鳴らし、体を震わせると、僕をきっと見据えた。あの生気のない虚ろな目で。傷を撫で、口元にのみ感情を宿した彼女を見た瞬間、ぞくりと僕の手が震えた。

32へと続く……

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