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連載長編小説『黄金の歌乙女』9-1

 
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 朝食の後、鞍馬街道を貴船口まで下った。そこから貴船神社へと向かった。貴船神社は水占いの御神籤が有名だが、沢木は御神籤を引かなかった。 昨夜のことを思うと、恋愛運で不吉な信託を受けるのは嫌だった。貴船神社をぐるりとした後は、ハイキングコースをたどって鞍馬山へと入った。奥の院の魔王殿を参拝し、それから木の根道を歩き、義経の背比べ石を撫でて鞍馬寺へと戻って来た。
 およそ四時間の行程だった。鞍馬寺では信心深く五円を奉納し、本尊の尊天に志帆との恋愛成就の祈りを捧げた。沢木は仏教に明るくない。幼少期を鞍馬寺の麓で過ごしたが、遮那王のように鞍馬寺で教育を受けたわけではない。そのため尊天が毘沙門天と千住観世音菩薩、語法魔王尊の三位一体の本尊であることくらいは承知しているが、その中に恋愛成就の仏がいるのかは、知らなかった。
 沢木は本殿金堂前の金剛床に立ち、瞼を伏せた。そこでまた、恋愛成就を祈った。そして両腕を高々と掲げた。不思議と力が宿る心地がするのは、自然に囲まれた邪気のない鞍馬山特有の匂いのせいだろうか。
 寺を辞去し仁王門をくぐると、結界の外に放り出されたように感じた。汚れと憎しみが、全身に這い上がって来るようだった。多聞堂で牛若餅を買い、沢木は鞍馬街道を北上した。冬の季節、下校途中にこのままずっと北上して、鞍馬温泉にどっぷり浸かりたいと思っていたのが懐かしかった。北風は、七年前と同じ吹き方をしていた。だが同じ北風でも、その冷気は格段に強くなっていた。
 帝歌に戻ると、劇場の周囲をぐるりと回り、寄宿舎に入った。広間に入ると、昼食を摂ったばかりの客演歌手達がぞろぞろと食堂から出て来た。その中の一人と目が合った。
 沢木は、思わず立ち尽くした。向こうも、沢木に気づいたようだ。二重顎を揺らすと、彼女は立ち止った。七年前と比べれば、当時の面影はまるでない。しかしふくよかになってはいるものの、沢木を見つめる眼差しは、当時とまったく変わっていなかった。
 千恵だ。
「遼一?」
 やはり千恵も、沢木に気づいていた。沢木が頷くのを見て、彼女は目を潤ませた。口元を覆う手の甲が、七年前より三倍くらい分厚かった。
 力強い歌声なんだろう、と手を見て喉を見て、沢木は思った。
 千恵はまるで近所のおばちゃんみたいに再会を喜んだ。沢木が幼い頃に起こしたハプニングや千恵と遊んでいた思い出などが思いつくままに語られた。次から次へと滑り出るエピソードはすべて事実なのだろうが、千恵の語った話の半分ほどは覚えていなかった。
「私の録音機、まだ持ってる?」と千恵が言った時には、すでに他の歌手達は稽古室へと戻っており、広間には沢木と千恵の二人しかいなくなっていた。
 沢木が首を縦に振ると、千恵は顔全体を明るくした。沢木は上着のポケットから千恵の録音機を取り出した。志帆と録音機の話をした日から、帝歌に来る時は携帯している。特に用途はないが、録音機を持ち歩いているだけで、寄宿生だった頃に戻ったかのように思えた。
 千恵は苦笑した。
「懐かしい」
「寄宿舎を出る時、千恵ちゃんがこれを御守りにくれたけど、実は再生したことないんだ。俺に寂しい思いをさせないように千恵ちゃんの歌声が入った録音機をくれたのに、何かごめん」
「聴かなくても大丈夫だったってことでしょ? なら、いいじゃない」
 沢木は愛想笑いを浮かべただけで、何も言わなかった。何かを言う必要はなかったからだ。千恵の言葉は、寄宿舎を出た後の沢木の境遇を射ているとは言えない。しかしそれを否定したところでどうにもならない。
 寄宿舎を出た後は、むろん寂しさに涙することも多かった。しかし新しい環境に慣れることに精一杯で、千恵からもらった録音機を再生している余裕などなかった。録音機のことはすぐに忘れてしまった。録音機の存在に気づいたのは、去年、京都市内の養護施設を卒業する時だった。荷物をまとめていると、録音機が出て来たのだ。それからも放置していたが、志帆と再会した後、アパートの段ボール箱の中から掘り出した。
「もう聴かないでよ」千絵は顔を赤らめて言った。「今更昔の歌声なんて聴かせられないから」
「今日聴こうかな」沢木はいたずらに笑った。
「ちょっと!」千絵はばちっと沢木の肩を叩いた。「やめて。恥ずかしいから」
「じゃあ、返そうか?」
 沢木は録音機を差し出した。しかし千恵はかぶりを振った。
「これは遼一の御守りだからね」
「御守りは、一年で返さないと」
「これは永久に効果を発揮してくれる御守りよ」
 沢木は快活な笑い声を上げた。
「神社泣かせだな」
「とにかく、これは持っといて。きっとこれからも、遼一を守ってくれる。もしこの先辛いことがあったら、その時は再生してくれても構わない。私の知らない内に聴かれてるなら、恥ずかしくもないから」
 沢木は録音機を拝んだ後、上着のポケットにしまった。
「志帆のことだけど」
 録音機をしまっていると、千恵は言った。再会してまず最初に寄宿舎にいる理由を問われた。志帆と再会し、文通、そして頻繁に帝歌に足を運んでいることはその時に伝えていた。かつてお互いに恋心を抱いていたことも、千恵は知っている。
 沢木は黙ったまま、顎を引いた。
 千恵は、志帆が甲斐野充に口説かれていることを語った。
「彼女迷ってる。だから遼一のほうから離れちゃだめ。絶対に傍にいなさい。今遼一が離れたら、彼女はきっと御曹司を選ぶわ」
 そんなことは百も承知だ。沢木は大きく頷いた。
 沢木が首肯したのを見て、千恵は体の向きを変えた。ふくよかな見た目からは意外なほど機敏な反転だった。千恵は稽古室のほうへと向かい、やがて姿を消した。
 沢木は食堂に向かった。さっきぞろぞろと出て来た歌手達の中に志帆がいなかったからだ。千恵と話している最中も、志帆は姿を見せなかった。まだ食堂にいるのではと思ったが、食堂に志帆の姿はなかった。
 沢木は稽古室のほうへ向かった。一つだけドアが開いていた。煌子の部屋かと思い、刹那恐ろしくなったが、そこから聴こえて来たのはノルマが歌う「清き女神」だった。
 志帆だ。
 どうやらエチュードは終了しているらしい。室内に講師の姿もなかった。ドアを開けているのは、長時間狭い空間に縛られていたから、開放的な気分を得るためだろう。換気の効果もある。
 志帆の手には録音機が握られていた。自分の歌声を録音しているのだ。沢木は雑音を拾わせないように、息を殺した。やがて録音が完了すると、志帆は自分の歌声を再生した。「清き女神」は一節のストロークが長い。そのため部分的に一時停止をして、志帆は同じ箇所を繰り返し歌いながら、少しずつアリアを通して行った。
 瞼を伏せ、自分に歌声に陶酔しているかのように志帆は没頭している。その可憐な睫毛に、沢木は見入ってしまった。
 しかし壁に、牛若餅の入った紙袋が擦れた。志帆の気が、逸れてしまった。彼女ははっとしてこちらを向いたが、沢木を認めると笑顔になった。柔らかい笑顔だった。だがすぐにその笑顔は翳りを見せた。
「ごめん。邪魔するつもりはなかったんだ」
「ううん。邪魔じゃないよ。ちょっと確認してただけだから」
 沢木は紙袋を顔の高さまで持ち上げた。「牛若餅買って来たんだ。食べる?」
 志帆は頷いた。牛若餅は、寄宿生皆の大好物だ。塩加減が絶妙なのだ。沢木は稽古室に入り、ドアを閉めた。寄宿舎にいる全員に配るだけの数はない。
 稽古室は原則として飲食厳禁だが、各部屋の隅に設けられた飲食スペースでは水分補給や補食が可能となっている。二人はグリーンシートが敷かれた飲食スペースに並んで腰掛け、牛若餅を食べた。
 志帆はまだ昼食を摂っていないようだった。牛若餅を食べるのも久しぶりらしく、次から次へと頬張った。志帆は昨日のことなど忘れたみたいに、健気で純朴な笑顔を沢木に向けた。数分前に笑顔を翳らせたのと同じ人とは思えないほどだった。しかしそれが志帆らしくもあり、沢木の気分は清々しくなった。
 こうして隣り合って同じ物を食べているだけで、沢木は幸福だった。
「録音するの、何回目?」沢木は訊いた。
「わかんない」
 志帆は唇の周りに着いた粉を指先で拭った。昨日御曹司から渡された結婚指輪は、嵌められていない。沢木はひどく安堵した。
「数え切れないくらいってことか」沢木は感心した。「すごいな、志帆は」
「あたしなんか全然だよ。愛梨に比べれば、あたしなんか全然稽古してないから……」
「そう言えば、見ないな。煌子さんも」
「今日から舞台稽古。今日はオーケストラプローベなの。だからみんな劇場のほう」
 道理で見ないわけだ、と合点がいった。
「あと一週間で本番だもんな。俺にはもう、本番前のスケジュールの感覚もなくなってるよ」
 志帆は静かに笑った。
「仕方ないよ。もう七年も経つんだから」
「そうだな……」沢木は紙コップに水を注ぎ、一つを志帆に手渡した。自分の分を一気に飲み干すと、沢木は立ち上がった。「俺も録音したいんだ」
 千恵の録音機を取り出し、志帆に見せた。志帆に見せるのはこれが初めてだった。
「それ、千恵さんの?」
 沢木は頷いた。
 志帆は牛若餅を咀嚼しながら、水を流し込んだ。急いで餅を飲み込んだせいで、志帆は顔をしかめた。
「何を歌えばいい?」
 協力してくれるようだ。沢木は微笑んだ。
「俺に続いて歌ってくれないか? 俺の喉は、もう七年も使ってない。錆びついた、放置していた鉄みたいなものだけど、恥を忍んで志帆と歌い合いたい」
 沢木はピアノの前に座った。鍵盤に指を載せると、志帆のほうを向いた。志帆は愉快そうに口元を緩めながらも、何を歌うのか不安げでもあった。
「志帆は昨日言ってくれたね。いつか俺と舞台に立ちたかったって。それは俺も同じ想いだった。いつか志帆と舞台に立ちたい。志帆のソプラノと、俺のテノール、美しい二重唱で愛を歌い上げたいと思ってた。それはもう叶わないけど、せめて今ここで、二人だけの音楽を歌ってほしい」
 志帆は黙ったまま頷いた。
 沢木は勢いよくピアノを鳴らした。ポロン、ポロンポロンポロンポロン、ポロン、と奏でた。
「amore……」
 沢木は志帆を見つめながら、伴奏を続けた。そして勢いよく歌い出した。
 ――Chi il bel sogno di Doretta poté indovinar? Il suo mistero nessun mai scopri! Un belgiorno il re la bimba volle avvicinar:“Se tu a me credi,se tu a me cedi,ti farò ricca!” “Ah,creatura!” “Dolce incanto!” “La vana tua paura,il tepido tuo pianto ora sparirà!” “No,mio sire!” “No,non piango!” “Ma come son,rimango,ché l’oro non può dare la felicità!”
 耳に灼き付いて離れない、「ドレッタの夢」。オペラ史に燦然と輝く、美しいアリア。プルニエの詩を、沢木は叙情的に歌い上げた。しかし喉は、やはりすでに欠陥品となっていた。とても人前で披露できる歌声ではない。それにイタリア語を口にするのも七年振りで、所々単語が飛んだ。
 プルニエその人のように、沢木は、詩の最後で歌いあぐねた。
 それを、志帆が引き継いだ。
 ――Chi il bel sogno di Doretta poté indovinar? Il suo mister come mai fini? Ahimè,un giorno uno studente in bocca la baciò e fu quel bacio rivelazione:fu la passione! Folle amore! Folle ebbrezza! Chi la sottil carezza d’un bacio cosi ardente mai ridir potrà? Ah,mio sogno! Ah,mia vita! Che importa la ricchezza se alfiorita la felicità! O sogno d’or.poter amar cosi!
 透き通るようなソプラノは、沢木の尻を拭ってくれた。それだけでなく、まるで世界が反転したように、沢木の聴覚を陶酔へと引き込んだ。
 狂おしい愛! 狂おしい陶酔!
 その詩の通り、沢木の胸の中では狂おしいほどの愛の炎が燃え上がっていた。志帆の歌声は、歌乙女像の黄金よりも純度が高い。彼女は夢に溢れていた。黄金色に輝く光が詰まっていた。それはすでに、黄金の歌乙女と言っても過言ではないほどに。
 狂おしい陶酔は、沢木の涙腺を刺激した。ピアノ伴奏を続けながら、沢木の手の甲には涙が落ちていた。志帆の喉から伸びる甘美な橋が、まるで沢木の手の甲に架けられたようだった。
 これが希望に満ちた橋なのかは、わからない。しかし志帆の歌声は、あの日のマグダと同様に純潔で、澄み渡っていた。美しいアリアを力強く、そして華やかに、しかし淑やかな上品さを兼ね備えて歌い上げた志帆の姿は、まるで清き女神が宿ったかのようだった。志帆はマグダでもありノルマでもあった。そして志帆は、他ならぬ志帆だった。
 それを悟った時、沢木は得も言われぬ感動に包まれた。伴奏の手を止めるのが拷問に思えるほど、沢木は至高の一時に浸った。だが伴奏は、止まる。
 録音をやめると、沢木は手を叩いた。「ブラボー」噛みしめて、それを言った。
「ブラボー」志帆も言った。「遼ちゃん……あの時辞めなかったら、きっと同じ舞台に立てたよ」志帆も泣いていた。「遼ちゃんの声、素敵やもん」
 沢木は志帆と握手を交わした。そしてカーテンコールで見るような歌手同士の抱擁を交わした。沢木は志帆を抱き、離さなかった。それはもはや、歌手同士ではなく恋人同士の抱擁だった。
 二度と離したくはなかった。
「俺は志帆を愛してる。昨日よりも……。だから俺は、志帆が決断を下すまで腐らず待つよ。いつまでも待つから」
 志帆は上目遣いに沢木を見上げると、縋るように胸に頬を押し付けた。
「ごめんね遼ちゃん……。あたしのせいで苦しめて」
「いいんだ。中途半端なまま志帆と付き合うのは、俺も嫌だから」
 沢木の胸の中で、志帆は頷いた。沢木は彼女を一層抱きしめた。だがそれを最後に、抱擁を解いた。
 志帆は午後からも、稽古がある。牛若餅だけではなく、きちんと昼食を摂らなくてはならない。志帆は涙を拭うと、沢木を残して食堂に向かった。
 稽古室を出た沢木は、志帆と再会した公園でベンチに腰掛けていた。昼下がりの暖かな太陽の下で、録音した志帆の歌声を繰り返し聴いた。
 志帆が賞賛したほど、自分の声を気に入ることはなかった。沢木は自分の声が聴こえると、険しい顔になった。しかし志帆の歌声が流れると、無意識の内に微笑んでいるのだった。
 気が付くと、空は暗くなり始めていた。
 
9-2へと続く……

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