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連載長編小説『黄金の歌乙女』15

 
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 圧巻の三重唱。これが二人の寄宿生と無名のテノールによるものなのかと疑いたくなるほどに素晴らしい。アダルジーザが登場した時、愛梨はこんなに歌えたのかと驚愕させられたものだが、一幕最後の三重唱では驚愕を超え、衝撃を与えるほど白熱した歌声を披露した。志帆と渡り合う、そういった意気込みが声に滲み出ていた。
 しかし志帆はさすがだ。ノルマの憤激の歌声が、アダルジーザを、そして愛梨を飲み込んでいく。愛梨の実力は寄宿生の中で抜きん出ている、と今日観劇に来た評論家は口を揃えるだろう。だが志帆は、その愛梨を遥かに凌駕する。怒涛の三重唱。三人とも素晴らしい。しかし最後まで声がぶれなかったのは志帆だけだった。
 熱気が劇場を包んだ。幕間などいらない。この盛り上がりのまま、二幕も続けてほしい。そう思うほど、観客は手に汗を握っているはずだ。沢木もその一人だった。
 幕は下りた。ノルマの姿が消えて行く。ゆっくりと、ダイヤルを回す手つきが見えるように、じんわりと客席に灯りが戻った。
 沢木は思わず、ふう、と息を吐いた。迫力のあまり、全身に力が入っていたことも気づかなかった。頭を背もたれに預けると、すでに首が痛かった。オペラを観ている、劇場にいる、そう実感できる、心地よい痛みだ。
「さすがね」
 隣で煌子が呟いた。沢木は首肯した。
「十八でこれだけノルマを歌えるなんて」
「志帆は怒るかもしれませんけど、やっぱりお父さんの才能あってのことですよ」
「うん……。でも、ちょっと早過ぎたんじゃないかしら。志帆にその気はないんだろうけど、何だか生き急いでるような印象を受けるわ」
 沢木は口を開けた。「生き急ぐ?」
 そんなふうに感じたことは一度もなかった。
「神童ゆえだろうね。早熟の天才は、得てしてそう見えてしまうもの。早くも栄光を手に入れて、もう目指すべきものはない。モーツァルトも、『ノルマ』を書いたベッリーニも、若くして亡くなってる。志帆が二百年以上前の天才と同じとは言わないけど、早くもノルマを自分のものにして、何となくそう見えただけ」
「煌子さんも、若くして成功してる……じゃないですか」
 ふと煌子の横顔が翳った。舞台からやや下げられた目線は、あの忌まわしい奈落を見つめているのではないかと思った。数ヶ月前に再会して気づいた。煌子のどこか虚勢を張った表情。他人を騙すためではなく、自分を偽るための虚勢。
 今彼女は、呪縛の根源をその瞳の中で見ているような気がした。
 煌子が自ら語ってくれれば、沢木の苦しみも半減したかもしれない。だがそれが煌子にとってどれだけ残酷なことかを沢木は察していた。他人に踏み込まれる恐怖も同様だ。だから沢木は今も七年前のことを打ち明けていない。
 案の定、煌子は偽りの笑みを浮かべた。精巧に作られた仮面が、煌子の美貌を覆う。仮面の影に見える真の美貌は、涙腺が刺激されるほど美しかった。
「あたしと志帆はまるで違う。実力も、舞台に対する敬意も」
 本来なら、今の言葉に戸惑うはずだった。だが沢木だけは違うのだ。煌子の過去を知っている。汚らわしい過去が今もまとわりついていることを知っている。
 煌子は明らかに助けを求めている。自分では決定的なことを口にできないだけで、いつも誰かに、ひっそり仮面の下の素顔を覗かせているのだ。
 沢木には、影の中で光る涙が見えた。それで決心がついた。
「志帆はこの公演で帝歌を卒業します。おそらく、煌子さんと会うことはもうないでしょう。だからこの際、話しておこうと思うことがあって」
「うん」煌子は奈落を見つめていた顔をこちらに向けた。感情のない、素顔なのか仮面なのかわからない美貌。「何?」
「実は七年前、俺は見てしまったんです」
 煌子は微動だにしない。こちらを見つめたまま、「何を見たの?」と言う。
「七年前の今日でした。煌子さんの卒業公演の日、本番中の奈落。幕間に、俺は小道具を落としてしまって奈落に続く階段を下りました。そこで見てしまったんです。パトロンにキスを強要される煌子さんを」
 表情は、浮かんでこない。しかしアーモンド型の目の中の瞳だけは揺れていた。仮面をつけていても、目元だけは本物なのだ。煌子は明らかに何かを考えている。しかし瞳の揺らぎが狼狽なのか、恐怖なのか、あるいは希望を見ているのかはわからなかった。
 煌子は再び舞台に目をやった。ようやく感情を吐き出すように、一つ息を吐いた。
「そう」とだけ彼女は口にした。
「煌子さんは実力も実績もある。それなのに海外に進出せず、ずっと日本国内で活動を続けているのはパトロンが今も煌子さんを縛り付けているから。違いますか?」
 煌子は卵型の顔を小さく頷かせた。
「あたしは海外に行きたかった。ヨーロッパで音楽を学んで、自分を磨いて、世界中で活躍したかった。数年前から、少しずつ海外からオファーが来るようになった。でもすべて断った。理由は遼一が言った通り。片瀬さんが許してくれなかったから。あたしは片瀬さんを憎んでる。でもあたしをここまで押し上げてくれたのは――」
「ちょっと待ってください」
 沢木は椅子から飛び上がった。一気に全身が熱を持ち始めた。鼓動は早まり、頭の中が真っ白になった。落ち着きを取り戻そうと、苦笑だけが僅かに漏れ出た。
「……片瀬さん? 甲斐野さんの間違いでしょう? 煌子さんに関係を強要したのは甲斐野靖史さんのはずです」
 煌子はゆっくりと沢木を見上げ、当然のようにかぶりを振った。目鼻立ちの美しさが、沢木を哀れんでいるように思えた。
 心臓が、激しく脈打った。
「あたしのパトロンは片瀬正芳さん。甲斐野さんから支援を受けたことはないわ。もちろん、関係を強要されたことも。だから遼一が奈落で見たのはあたしと片瀬さん。そうだったでしょ?」
「いや……」そんなはずはないと思った。しかし煌子の一言で、様々なことが符合していくようにも思われた。声が、震えた。「顔は、見えなかったんです。俺のほうからは煌子さんの顔と、男の背中しか……」
 冷静になれば、当時の状況も理解できた。しかし今の沢木は、頭が混乱していて煌子の言葉を整理することもままならない状態だった。
 予期せぬ事態が起こったということだけが理解できた。しかし体は動かない。思考も止まっている。腋の下に、嫌な汗が滲んだ。
 五分ほどが経って、少し落ち着いた時、唐突に甲斐野充に対して放った言葉の数々が思い出された。沢木は甲斐野靖史が煌子に肉体関係を強要した犯人だと決めつけていた。だからその息子である甲斐野充にも強気な言葉を向けられた。
 しかし今、その言葉の数々が刃物となって自分に向いている。
 茫然と立ち尽くす沢木の背後から声がした。振り返るまでもなく、それは甲斐野充の声だった。喉がからからに乾いていた。膝が小刻みに震えた。
 振り返ると、白目を血走らせ憤怒に塗れた甲斐野充が立っていた。
「話がある」
 御曹司は言った。沢木は力なく首を縦に振った。立っているのもやっとだった。煌子に席を外すことを伝え、甲斐野充に従った。
 連れられたのは屋上だった。パトロン息子なだけあって、本番中にも拘わらず警備員も止められない。
 志帆と最初に結ばれた場所。あの日は雪が降っていた。そんなことを考えてしまう。今はどうでもいいことなのに。凍てつく風が肌を刺す。なぜか妙な心地よさを感じた。全身が焼石のように熱くなっているせいか少しも寒さは感じなかった。
「昨日、成宮君が来たよ」
「成宮さんが?」
 甲斐野靖史の過去を暴こうとしたのだ。沢木が託した録音機を持って。
 何度も聞いた、パトロンの汚職の証拠。卑しい言葉を今でもはっきりと覚えている。だが今にして思うと、音声の中で煌子がパトロンの名前を口にしたことはなかった。つまり録音された音声は、帝歌のパトロンの汚職を立証する証拠ではあるが甲斐野靖史を断罪する証拠にはならないということだ。
沢木の中で、七年前にここで何があったのか、その真相がはっきりと見えた。すべては繋がった。
「君から譲り受けた証拠を高々と掲げながらね。でも空振りに終わった。当然だ。父は潔白なんだ。寄宿生に手を出した過去などない。そもそも七年前といえば、父は帝歌の後援額でトップになったばかりの頃だ。だが権力は今みたいに絶対的なものではなかった。その理由は君にもわかるだろう」
「片瀬正芳も同じく後援額がトップだったから……」
 支配人室で帳簿を確認した時、確かにそれを目にしていたのだ。しかし甲斐野靖史の過去を暴くことに躍起になっていた沢木にとって、片瀬正芳の存在はあってないようなものだった。
「その通り」甲斐野充は上機嫌に指を鳴らした。「片瀬グループは帝歌設立の時から後援を続ける最古参のパトロンであり、僕の父が出資を始めるまでは圧倒的な額を一人納めていた。つまり当時最も権力を持っていたパトロンは片瀬正芳だった。そんな中で、もし父が寄宿生に手を出せば、後援会から除名されることになっただろう。七年前の出資額は同じでも、権力には差があったんだから。わかってもらえたかな? 僕の父は西園煌子とは無関係だ。彼女に関係を強要していたのは片瀬さんであり、最古参のパトロンが七年前に出資をやめた理由もそこにある」
 まさか、と沢木は思った。
「甲斐野グループはそれを暴いて追放したというのか?」
 甲斐野充は余裕たっぷりに笑い声を上げた。沢木を哀れむ嘲笑だった。
「仮にそうだったとしよう。でもそんな屈辱を味わった相手の家に娘を嫁がせようとするかい?」
 確かに、甲斐野充の言う通りだった。沢木は黙った。
「片瀬グループは西園煌子が寄宿舎を卒業するから後援会から撤退したんだ」
「そんな個人的な理由で……」しかし出資するもしないもすべて個人的な理由なのだ。「煌子さん一人のために?」
「もちろん初めは寄宿生に手を出すつもりはなかった。だが帝歌設立から十数年が経ち、ようやく一期生の成果が示される時が近づいた時、片瀬さんは一人の寄宿生の美貌を発見した。それが美しく成長した西園煌子だった。以来西園煌子を贔屓する代わりに肉体関係を強要した。だが片瀬さんが彼女を発掘した時、もう時間は残されていなかった。彼女が卒業してしまうからだ。だから彼女の寄宿生としての華やかな実績は卒業公演だけなんだ。そして彼女が卒業した後、片瀬さんは大手音楽事務所を斡旋した。まだ新人の、本来な音大に通っている年齢の彼女に次々と大役のオファーがあったのは今尚続くパトロンとの関係のためだ。片瀬さんは彼女の美貌に魅了された。数年早く見初めていれば、今もパトロンを続けていたかもしれない。でも二人が出会った時、すでに時はなかったんだ。これは片瀬さん自身も認めている事実だよ。脆弱な証拠で見切り発車した君とはわけが違う」
「認めた? どうやって認めさせた?」
「せっかく訪ねてくれた人がいたからね。成宮君は西園煌子の過去を清算することが目的であって僕達甲斐野グループを貶めるつもりは毛頭ない。君とはわけが違う。それに僕には片瀬家から縁談も来ているし、当主の過去を精査するのは至極当然なことだ。だから成宮君と片瀬家にわざわざ出向いた。僕の父に対しては脆弱な証拠でも、真犯人である片瀬正芳にとっては確固たる証拠だ。七年前に甲斐野家を凌ぐ力を持ったパトロンだという状況証拠もある。それに汚職の件が明るみに出れば、被害者である西園煌子の証言も得られるだろう。証拠となる音声が出て来た時点で片瀬さんは破滅してたんだ。おかげで、僕と桜子の縁談も破談にできた」
 甲斐野充は一つ息を吐くと、嬲るように沢木を見た。口元には狂気的な微笑が浮かんでいる。沢木との距離を一歩二歩と縮めながら、さて、と言った。
「君をどう処理しようか……」
 甲斐野充は詰るようにゆったりと屋上を歩き回っている。隙を見て逃げ出そうにも、場内に続く出入り口には甲斐野家の屈強なボディーガードが構えていて逃げ道がない。
 沢木の運命は、甲斐野充の掌の中にあった。そしてその運命は、すでに決まっているのだろう。
「あの証拠をもっと早く僕に明かしてくれれば、今頃隣の座席で輝かしい志帆の姿を眺められたのに。君は本当に愚かなことをした」
 場内で『ノルマ』が上演されていることをすっかり忘れていた。思い出したところでどうにもならないが……。すでに二幕も佳境だろう。『ノルマ』は全二幕だ。そろそろ火刑台が準備される頃ではないか。
「今回のことは、私情に掻き立てられて行動した経験ということで君の今後の人生に活かしてもらうということも考えた。だが君は、僕に対して行き過ぎた暴言を数々吐いた。その罵詈雑言の数々……」甲斐野充は狂気的な笑みを消すと、場内にいた時のような憤怒に塗れた鋭い目でこちらを睨んだ。「今思い出しても腹立たしい。いくら謝られても許すことはできない。よくも僕を悪者扱いしてくれた。甲斐野グループが汚れているとよく言ったものだ。だが君の目論見は露と消える。父の潔白は証明され、残ったのは君の自己中心的で思い上がりにのぼせた迷言の数々。そして醜態……。君の言葉は僕に殺意を芽生えさせた。君の醜態は僕に悦楽を与えてくれた。だってそうだろう? 君の言葉は思い出すと腸が煮えくり返るが、君の言動すべてが醜態だったとなると、思い返すと滑稽で、救いようのない哀れなものに見えるじゃないか。正義面して、勢い込んでまくし立てていた君の姿、まだ味がしているよ」
 無意識の内に、沢木は甲斐野充から距離を取っていた。だが狭い屋上だ。すぐに隅にぶつかり、逃げ場がなくなった。
 甲斐野充は沢木から目を離さない。瞬きを忘れたかのように、一瞬たりとも。
「俺を殺して、志帆が手に入ると思っているのか」
「君を殺すのは僕じゃない。誰か別の人間だ。君を殺った後のことなどどうとでもできる。僕は甲斐野グループの御曹司だぜ」
「でも志帆は気づく。俺を殺したのがあなただと。志帆があなたを選ぶことはない」
「君は見せしめにでもなってもらおうか。そうすれば彼女は僕に逆らえなくなる」
「それなら片瀬と同じことを――」
 息が詰まって、声が途切れた。胸に受けた衝撃で、体の隅々から何かが集約してくる。そしてそれは喉を通り過ぎ、口の中から溢れた。手で口を覆ったが、受け止めきれないほど大量の血を吐き出した。
 胸の鈍痛に歯を食いしばっていると、突然頭が重くなった。奥歯から力を抜くと、胸元から全身に激痛が走った。意識は保ったが、急に息苦しくなった。まともに呼吸ができない。小刻みに息を吸い込んでいると、胸に激痛が走った。
 再び酩酊した沢木は、その場に倒れ込んで項垂れた。ようやく激痛に巣食われた胸元を見た。そこにはクリスマスパーティーで甲斐野充に向けられた担当が突き刺さっていた。刃の先端は沢木の血で染まり、そこから血は刃紋を伝い、ぽとぽとと血を垂らしている。
 痛みはすぐに消えた。視界に指先の痙攣を捉えたが、その感覚はまるでない。徐々に霞んでいく視界に甲斐野充が近寄って来るのが微かに見えていた。
 志帆の歌声が聴こえる気がした。客席で聴くはずだった『ノルマ』の最後の歌。死の覚悟と、慈悲を求める叫び。慈悲を……沢木は叫びたかった。
 御曹司がしゃがみ込むのがわかった。ほくそ笑んでいるのが、霞む視界に僅かに見えた。突然胸が重くなった。死の淵で、意外なほど冷静に、ああ、柄を握っている、と沢木は思った。しかし刃物を押し込んでいるのか抜こうとしているのかはわからなかった。
 死ぬのか……。
 志帆を守りたかった。ただそれだけなのに……。
 ふと「ドレッタの夢」が聴こえて来た。志帆の声ではなかった、稽古室に響くテノールとソプラノ――至福の一時。拙いピアノ伴奏、錆びついた歌声。まるで志帆と同じ舞台に立っているかのような高揚と喜び。
 視界に何も映らなくなった。最後に僅かな痛みだけが胸に残った。まるで生きていたことを最後に実感させられるような、どこか心地いい、不思議な痛みだった。刃物が胸から抜かれたのだろう。体の端々が萎れていくようだ。
 暗い谷底に落ちていくよう。まるで夢の中を浮遊している心地。最後に、志帆の歌声が聴こえた。軽快な、人生の夢を見せるような、希望と憧れに満ちたアリア。「ドレッタの夢」がまるで記念碑のように沢木の耳に残っていた。
 燦然と輝く記憶に、沢木は最後に涙した。

16へと続く……

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