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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 7

        7

 堂島総合病院は小金井公園から程近い場所にある。最寄り駅は中央線の武蔵小金井駅だ。交通の便も良い。天羽と阿波野が病院に到着したのは正午を過ぎた頃で、ロビーには受付を待つ外来患者がまだまだ椅子に腰を落ち着けている。
 天羽は阿波野を連れ、ロビーの外れにあるインフォメーションセンターに向かった。キャビンアテンダントのような制服を来た小綺麗な女性職員に警察手帳を提示し、堂島翼に話があるので繋いでほしいと言った。職員は二人いたが、二人ともぎょとしたように互いの顔を見合った。
「堂島さんがどうという話じゃないんです」堂島翼の名誉のためにも天羽は弁解した。「堂島さんの友人がある事件に関わっているかもしれないというだけです」
 それを聞くと、女性職員もいくらか安心したらしく、やや戸惑いは残るものの口元には微笑を浮かべて受話器を手にした。天羽の要求通り、職員は堂島翼について問い合わせた。二言三言話した後、送話口を手で押さえてこちらを見た。
「申し訳ございません。堂島は今日まで有給休暇を取っておりまして、現在院にはおりません」
「有休?」
「はい。昨日今日とお休みをいただいております。明日でしたら堂島も院におりますが……」
 天羽は堂島翼の診療日を訊ねた。堂島翼が診察室に座るのは毎週金曜日らしい。今日は水曜日だった。診療日以外では手術の予定が入っていたり入院中の担当患者の回診に行ったり、講演会を聞きに行ったりとなかなか忙しい。夜間に救急外来に詰めている日もあるとのことだ。ただ診療日でなければ、他の医師との兼ね合いを見て、二日程度の休暇なら取れないこともないそうだ。堂島翼でなくとも、時々そうして休暇を取得する医師はいる。
 いない人間は仕方がないので、天羽は堂島妙子に繋いでほしいと言った。堂島妙子は堂島翼の母親で、堂島総合病院の院長を務めている人物だ。丹生脩太と中学の頃から親交のあった堂島翼だ。その母親である堂島妙子も丹生脩太と面識があるかもしれない。
 今度は女性職員が何度か丁寧に送話口に話し掛け、二分ほど掛かってようやく話がまとまった。すぐに案内する者が来るとのことで、天羽と阿波野はインフォメーションセンターの前にある椅子に腰掛けて待った。
 数分が経ち、白衣姿の男性が現れた。頭は禿げ上がっており、肉付きの良い頬は垂れている。見た目は還暦を過ぎたところといった具合だが、容貌と年齢が必ずしも一致しないことを丹生脩太に教えられたばかりだ。だが禿頭の医師はどうやらすでに還暦を超えているらしい。
 医師は市井俊夫と名乗った。胸元の名札にもそう書かれている。堂島総合病院では副院長を務めているらしい。
「では、ご案内します」と言って市井俊夫は刑事をエレベータに乗せた。堂島総合病院は広大な敷地を有しており、棟数だけでも五棟が立っている。今いる第一棟の一階はロビー、受付が主になっていて、診療機関はない。他にコンビニやカフェが入っている。二階が主に診療スペースらしく、かつて市井俊夫が勤めた内科の部署が多く入っているそうだ。彼は数年前まで内科部長を務めていたらしい。そのついでというように、かつては堂島妙子も内科医だったのだと市井俊夫は話した。専門は呼吸器内科だったようだ。そうしていないと落ち着かないのか、エレベータに乗っている間中、市井俊夫はずいぶん高い位置まで上げたベルトに指を挟んでいた。
 エレベータはそのまま手術室のある三階、患者が入院している四階から六階までを通過し、七階の通路階に到達した。七階には病院が有する資料などを保管しているそうで、倉庫が多い。今ではすべて電子カルテになっているが、紙に直接記載していた頃のカルテもこのフロアで管理しているとのことで、厳重に鍵が掛かった部屋が多い。
 ぐるりと七階を半周して、別のエレベータに乗り換えた。八階には第一棟に入る診療機関の部長室が並んでおり、九階には市井俊夫が使用する副院長の個室と職員専用食堂が入っている。最上階である十階に院長室はある。他には応接室と会議室、二百人くらいは入りそうなホールがあった。第一棟以外の建物はすべて九階より低い造りになっている。ロビーがない分、一階から診療機関が入っているためだ。手術室があるのも第一棟のみらしく、他の棟は診療機関と入院病棟がよりコンパクトになっているそうだ。
 市井俊夫は痰の絡んだ嫌な咳払いをして、院長室を拳で三度叩いた。「どうぞー」と気楽そうな返事があった。刑事が来ていることを聞いているはずなのだが。
 副院長に続いて天羽と阿波野が入室した。頭髪が半分以上白くなった女性がこちらに気づき掛けていた老眼鏡を外した。老眼鏡をネックレスのように首に掛けるスタイルだ。座っていると姿勢が良く、見た目より若さを感じたが、立ち上がった堂島妙子は腰がやや落ちていて、やはり年齢を感じさせた。ぽっちゃりとした体型も歳相応といったところか。
 天羽がお辞儀をすると、堂島妙子は愛想のいい皺を刻み、品よく軽く頭を下げた。
「お手数お掛けして申し訳ございません」と天羽は言った。
「構いませんよ」としっとりとした声で堂島妙子は言った。歳の割に声が高い。むしろ鼻に掛かったようなキイキイ声に近い。こういう老婦人は、おおよそおしゃべり好きだ。
 副院長を退室させると、堂島妙子は刑事に椅子に座るよう勧めた。深紅のソファはいかにも高級そうで、それが院長のデスクの前に四つ並んでいる。座り心地も、絶妙だった。天羽はこのソファのように、硬めが好きだ。
 天羽は院内の清潔感や院長室の見事さを褒め、案内してくれた市井俊夫の丁寧な対応に謝意を示し、市井俊夫から聞いた堂島妙子の経歴に大した人だと少し大袈裟に言った。
 堂島妙子は「市井先生そんなことまでしゃべったんですの?」と口を尖らせたものの、そうなんですよ、と昔話を始めた。それを笑顔で聞き流し、機嫌が取れたところで堂島翼が有給休暇を取っていたので院長に話を聞くことになったのだと説明した。
「ねえ」と堂島妙子は息子を責めるように言った。「こんな大変な時に何してるのかしら」
「昨日今日と翼さんが何をしてらっしゃるか、ご存知ではないんですか?」
 堂島妙子は不満げに口元を歪めた。
「中学の頃から、どこに行くのも何をするのも、報告なんてありません。訊いても教えてくれないから、高校に入ってからはあたしのほうからは訊かなくなりましたわ」
 堂島翼は三十一歳だ。母親と同じ職場で働いているという特殊な環境ではあるものの、それが普通だろう。親に逐一報告をするのは遅くとも高校生までだ。
「反抗期、ですかね」とお愛想程度に阿波野は言った。彼の気弱そうな顔の効果もあって、堂島妙子には本気で心配してくれていると感じられたらしい。
「ほんとに、大変ですよ。あんまり口利いてくれなくなってからは何考えてるかわからないんですもの」
 子供とのコミュニケーションを取りたいというのは親の願望というわけだ。天羽も両親とは殆ど連絡を取らない。天羽にも反抗期はあったが、反抗期は子供が自立するきっかけの時期だ。親を頼らないようになり、独り立ちしていく。最近は反抗期がない子供も多いそうだが、それで一人前の大人になれるのかと天羽は思ったりもする。そういう子供は大抵親に甘やかされて育っているから、自立ができないのだ。その点、堂島翼は大病院の一人息子として生まれながら、無事に反抗期を迎えることができたということだ。母親の仕事が多忙だったせいもあるかもしれない。
「まあ、翼さんには追々話を聞くことになります」
「それで、何の事件の話ですの?」と堂島妙子は言った。昨夕起きた殺人事件だ。ニュースにはなっているが、まだ事件のことを知っていなくてもおかしくはない。「翼が関わってるんですか?」
 いえいえ、と天羽は顔の前で手を振った。事件の概要を説明した後、堂島翼は容疑者である丹生脩太の友人ということで話が聞きたいだけだと天羽は言った。
「脩ちゃんねえ」と堂島妙子は呟いた。やはり、丹生脩太を知っているらしい。「大変な人生だったから、何かこう、鬱憤みたいなものが溜まっていたのかもしれませんねえ」
「人を殺したこと、驚かれませんか」
「そりゃ驚いてるけど、突然のことでねえ。あらまあというのが正直な感想よ。驚くというより、信じられないって言ったほうが近いかしらねえ、あたしの気持ちとしては。脩ちゃん、いい子だったから」
 殺人事件が起きて近隣住民に話を聞くと、まさかあの人がというのはよくあることだ。それが息子の友人となれば尚更だろう。子供時代からその存在を知っていただけに、知った性格と殺人がどうしても結びつかないなんてことは珍しくない。堂島妙子は丹生皓太のことも知っているようなので、余計そうなのだろう。
「脩ちゃんには申し訳なさもあるからねえ」と堂島妙子は言った。
「申し訳ない?」
 堂島妙子は膝の上で手を重ねると、やや畏まって背筋を伸ばした。頷く際にきゅっと結ばれた口元には悲痛が滲んでいた。
「だってあたしは、脩ちゃんのお父さんもお母さんも救ってあげられなかったんですもの」
 丹生脩太の両親は早くに亡くなっている。父親は肺癌、母親は自殺だ。その自殺のきっかけも、肺癌を患ったことだった。
「できる限りの手は尽くしたんですけどねえ……。お父さんのほうは来院された時にはすでに末期で、手の施しようがなかったけれど、お母さんのほうは、ねえ……」
「治療の苦痛に耐えかねて自ら命を絶ったそうですね」
 丹生脩太の両親が共に堂島総合病院で最期を迎えていることは知らなかった。丹生皓太はそこまで語らなかったからだ。
「治る病気だったんですけど、やっぱり抗癌剤治療って辛いものなんですよ。患者さんの中には、点滴の袋を見るだけで吐き気を催す方もおられますし、それこそこんなに苦しい治療なら死んだほうが楽だとおっしゃる方もいます。脩ちゃんのお母さんも、何度か治療をしていくうちにノイローゼ気味になって、看護師にはよくよく様子を見ておくよう言いつけていたんですけど、彼女はまだ中学生になったばかりの脩ちゃんと小学生の皓太君を残して自ら命を絶ちました。患者さんも屋上には出られるんですけど、その屋上には防護柵がしてあって、乗り越えることはできなくなっています。ただ、屋上からベッドのシーツや枕カバーなんかを干すベランダに行くことができるんですけど、そっちの防護柵はずっと低かったんです。関係者しか入れないように貼り紙がしてありましたから。そこから、飛び降りたんです」
 そして丹生脩太は中学卒業後、弟を養うために働き始めた。大学を出て、脳外科に勤める堂島翼とは真逆の人生と言っていい。だが二人の交友関係が今も続いているのは、二人の間にそれほど格差が生まれなかったからだ。丹生脩太には絵の才能があった。画家として食っていくだけの腕はあり、それで弟を養うこともできた。絵の才能がなければ、残された二人の少年はどうなっていたか、わからない。
「その後すぐに、彼は画家になったんですね」
「すぐじゃありませんわよ。脩ちゃんが画家になったのは中学二年の時で、お母さんを亡くしてから一年近く経っていたんですよ」
「その間、二人はどうやって生活していたんですか」
 丹生兄弟が児童養護施設に預けられたという記録は残っていない。丹生皓太の話から考えても、母親の収入はそれほど多くなかったはずだ。貯金を叩いて息子達に芸術を習わせていたとのことだった。おそらく、遺産と呼べるものもなかっただろう。
「あたしが生活を援助したんです。お母さんのことで申し訳ないという気持ちがあったのも事実、中学卒業までは、二人の面倒はあたしが見ようと思いました。結局、中学卒業まで面倒を見る必要もなかったんですけれどね」
 丹生脩太が画家としてデビューを果たしたからだ。堂島妙子の話から想像するに、丹生脩太はよほど華々しい画壇デビューを飾ったのだろう。絵が一枚売れただけでは生活も苦しいはずだ。
「丹生脩太さんのペンネームをご存知ですか。ご存知なら、教えていただきたいのですが」
「ペンネーム?」と堂島妙子は眉をひそめた。「さあ、わからないわ。あたし絵には疎くてねえ。院内にも何点か絵画を飾ってあるけど、あたしにはさっぱりで」
 弟がペンネームを知らないのだ。友人の母親が知っているはずもない。
「院内の絵の中に丹生さんのものはないんですか」
「ないですよ。脩ちゃんは人の絵を描くのが好きなんですよ。昔から皓太君の絵をたくさん描いてた記憶がありますわ」
「肖像画、ですか」
「そう、肖像画。お詳しいのね」と堂島妙子は言った。
 そんなことは、と天羽は答えた。堂島妙子は「ご謙遜を」と言ったが、謙遜したわけでも何でもなかった。人の絵は肖像画だ。美術に精通していない天羽でも知っている。
 院長室から辞去する前に、天羽は丹生脩太の両親のカルテを見せてほしいと言った。堂島妙子は了承して、七階の倉庫からカルテを二枚持って来させた。丹生脩太の母親が自殺した十八年前はまだ電子カルテではなかったのだ。
 カルテには、堂島妙子が語ったような診断結果が書かれている。丹生脩太の父親は丹生昌夫といった。来院時、すでにステージ四の肺癌を患っており、初診で余命宣告を受けている。丹生脩太の母親は丹生三奈子といった。こちらはステージ二の肺癌だった。カルテを見る限り、治療経過は順調なようだった。しかし、彼女は自ら死を選んでいる。
 礼を言い、天羽はカルテを返した。阿波野と深々と頭を下げ、踵を返した。だが院長室を出ようとして天羽は足を止めた。鼻先でドアが開いたのだ。そこには前髪を額の中央でふわりと分け、銀縁眼鏡を掛けた男が立っていた。男はこちらにちらりと一瞥をやったが、会釈もせず院長室に踏み込んでいった。
 感じの悪い男だ、と天羽は思ったが、その印象はすぐに覆された。
「あら、お帰り」と堂島妙子が言ったので、彼が堂島翼なのだろう。年齢は丹生脩太と同じ三十一歳、中肉中背で、やや貫禄を感じる見た目だ。丹生脩太とは違った意味で、やや実年齢より高齢に見える。
 堂島翼は母親に刑事を紹介されると、そうでしたかと言うようにあっと口を開け、腿に手を添わせながら深々とお辞儀した。天羽も礼を返した。
「翼に話があるんだって」と堂島妙子は母親の顔になって言った。大きな笑みを口元に浮かべているのは息子を安心させるためだろう。過保護なんだろうなと天羽は思った。金持ちの母親は大抵過保護だ。
「俺に?」と堂島翼は自分の顔を指差した。怪訝そうにこちらを見て、銀縁眼鏡を指で押し上げた。
「丹生脩太さんについてお伺いしたことがあります」と天羽は言った。
「脩太……」と堂島翼は呟き、視線を落とした。
 天羽は堂島妙子に応接室の使用許可を取り、そちらに移った。彼女は院長室で話せばいいのにと言ったが、自分も応接室について来ることはなかった。応接室に入ると、それに続いて阿波野に連れられた堂島翼が入室した。
「有給休暇を取られていたとのことですが」腰を落ち着けると天羽は訊いた。
 堂島翼は頷いた。
「昨日からグランピングに行く予定だったんです。それでさっき帰って来たので、母に帰ったことを報告に来ました。この後患者さんの様子だけ見ておこうと思ったので、ついでに」
 天羽は堂島翼の言葉に引っ掛かりを覚え、訊いた。
「行く予定だったということは、グランピングには行かなかったんですか」
「行きましたよ。行きましたけど、予定が狂ったんです。グランピングには、その……脩太と行く予定でしたから」
 おそらく丹生脩太は集合場所には現れなかった。それが堂島翼の言う予定が狂った、だろう。それについて確認すると、堂島翼は首肯した。
「集合は現地の予定でした。脩太は片付けたい仕事があるから先に行っておいてくれと。昨日の午後には車でキャンプ場に到着しました」
「そこで丹生さんを待っていたが、来なかったというわけですね」
 堂島翼は目を閉じて二度小刻みに首を振った。約束をすっぽかした丹生脩太に少し怒っているのかもしれない。せっかくの有給休暇だったというのに、といったところか。
 天羽は丹生脩太が容疑者となっている殺人事件について話したが、堂島翼は事件を知らなかった。樽本京介という人物にも心当たりはないらしい。
「布武、というバンドでヴォーカルを務めていた人物ですが、丹生さんとの会話の中で名前を聞いたりしたことはありませんか」
「布武? 天下布武の布武ですか?」
好感触だった。彼は布武を知っている。天羽はそうです、と首を縦に振った。
「そのバンドなら知ってます」とやはり堂島翼は言った。「よくうちの病院の前でもライブをやってますから。病院の前の広場で、迷惑なんですよね、あのバンド。小金井公園でもよくやってたみたいですよ。でも知り合いというほどじゃないんです。その……樽本さんでしたっけ。その人の名前を脩太から聞いたことはありませんね」
「樽本さんは丹生さんの同居人でした」
「同居人?」
「ご存知なかったですか」
「ええ、そんな話は聞いたことがないな」
 二ヶ月ほど前から同居していたのだと言うと、堂島翼は目を細めた。何か心当たりがあるのかと訊くと、彼は銀縁眼鏡を指で押し上げた。どうやらそれが癖らしい。
「俺は脩太の友達ですが、もう一つ、別の関係があります」
「別の?」
はい、と頷いて堂島翼は言った。「主治医と患者という関係です」
「主治医……ですか。丹生さんはどこか具合が悪いんでしょうか」
 訊き返しながら、病気を抱えているのであれば、あのげっそりとした容貌も納得できた。病的な細さではなく、病なのだ。白髪が混じっているのも、そのせいかもしれない。
「具合が悪いなんてもんじゃありません」堂島翼は医師の顔になって言った。歯痒そうに顔をしかめながら、膝の上に肘を載せる彼の仕草だけで、丹生脩太の容態の悪さがわかるようだった。「末期癌です」
「末期癌……」
 癌は遺伝するとよく聞く。丹生脩太の両親はともに癌を患い、亡くなっている。まさかその遺伝子が、すでに彼の体を蝕んでいるとは。三十一歳……その年齢を考えても、やはり若過ぎる。画家としても、まだまだこれから活躍していく才能だっただろうに。
「二年ほど前から具合がおかしくなったんです」
「おかしくなった?」
「ええ、目眩や頭痛を訴えるようになって、一度精密検査を行いました。その結果、脳腫瘍が見つかりました。当時はまだ腫瘍も小さく、手術できないこともなかったんですが、手術による生存確率が五十パーセントだと言うと、脩太は手術をしないと決めました。腫瘍は前頭葉を圧迫していましたから、危険な状態でした。俺は手術を勧めましたが、とうとう手術に踏み切らせることはできませんでした。そうこうしているうちに一年が経ち、ある日脩太は喀血で救急搬送されて来たんです。精密検査を実施したところ、肺に癌が見つかりました。その時すでに、肝臓にも転移していました。その後より詳しく調べると、膵臓にまで転移していることが判明しました。余命は一年持つかどうかといったところでした。個室を用意して療養させようとしましたが、あいつは、数ヶ月で自力退院して、病院には来なくなりました。連絡は取れましたが、すでに以前住んでいたマンションは引き払われていて、どこで何をしているかは把握できていませんでした」
 そして二ヶ月前から、樽本京介と同居を開始したというわけか。行方が知れれば病院に連れ戻される。だから樽本京介を隠れ蓑にできるシェアハウスを選択した。最後まで画家として生きたかったのかもしれない。それが自分の生き様だと考えていたのなら、同居のために惜しみなく貯金を叩いたことにも頷ける。
 何より、折り紙付きの弟思いであった丹生脩太が丹生皓太と二年も顔を合わせていない理由がはっきりした。丹生脩太は、弟に自分の病気のことを伝えていないのだろう。それについて堂島翼に訊くと、「皓太には伝えないでくれと口止めされていました」という答えが返って来た。
 わかってきた。丹生脩太という人間が、少しずつだがわかってきた。樽本京介を殺害した理由は未だ掴めないが、宣告された余命が近づく今、殺人を犯すリスクは彼にはないも同然だった。ほんの些細なことが動機になっているのかもしれない。
 天羽は丹生脩太の容貌についても訊いたが、三年ほど前までは筋肉もついていて、紙も短く、爽やかな青年だったらしい。やはり今みたいにひどく痩せてしまったのは病気が原因だという。
 念のために伺いますが、と前置きをして、天羽はもう一度堂島翼のアリバイを訊ねた。堂島翼は不快感を滲ませることなく、「さっき話した通りです。キャンプ場の管理人が証言してくれるはずです。脩太が来ないと何度も話していましたから」と言った。二人が休暇を楽しむはずだったキャンプ場は東京の外れの山中にあった。小金井からは車で一時間と少しといったところだ。
「最後にですが、丹生さんのペンネームをご存知ですか」
「ペンネーム? 本名で出してる絵しか知りませんよ」と堂島翼は怪訝そうに言った。
 丹生脩太は中学の時に画家デビューを果たしているが、その時は本名を使っていたということだろうか。もしかすると、丹生脩太のペンネームを知る者は誰一人としていないのかもしれない。
 礼を言うと、天羽と阿波野は応接室を出た。エレベータを乗り継ぎ、一階のロビーに戻ると、天羽と阿波野は堂島総合病院を出た。ちょうどその時、古藤警部補から着信があった。

8へと続く……

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