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連載長編小説『黄金の歌乙女』6-2

「ちょっとあんた」
 食堂を出たところで呼び止められた。寄宿舎にいる者の殆どが『カヴァレリア・ルスティカーナ』の稽古中で、今食堂にいるのは志帆だけだった。
声のほうを見ると、桜子だった。側には恰幅のいい男性が立っている。
志帆が応じると、桜子は腕を組んで近づいて来た。
「話があるの」
 志帆は恭しく頭を下げた。「この後、エチュードなんです」
「エチュードって何よ?」
 質問の意味が、志帆にはわからなかった。エチュードはエチュードではないか。
「練習のことです」
「ああ、そう」桜子にはどうでもいいことのようだった。「そんなの、後回しにすればいいでしょ? いいから座りなさいよ」
 首都劇場で上演された『ノルマ』の映像を見て、感覚を掴みつつある。今はエチュードに没頭したい時期だし、貴重な時間を割いて感覚を掴み損ねることを考えると、志帆には昼食の時間すら惜しい。そのため今日の昼食の時間は午後二時半を回ってからとなったのだ。もちろん桜子の相手をしている暇はない。
 しかしどうやら、逃がしてくれる様子はない。仕方ないか、と志帆は思った。
 桜子に断りを入れ、講師にエチュードの時間を遅らせてほしいと頼んだ。来客の名前もしっかりと伝えた。講師が許可したため、志帆はすぐに広間へと引き返した。食堂の隅に腰掛けると、志帆から訊ねた。
「話って、何ですか?」
 桜子は顎をつんと上げ、志帆を見下ろしてきた。
「決まってるじゃない。充さんのことよ」
「ああ……甲斐野さん」
「そうよ、充さん」桜子は、彼の名前を強調して言う。「彼と別れてもらえるかしら?」
 志帆は、何を迫られているのかわからなかった。黙ったまま、桜子を見つめ、首を傾げた。
「聞こえなかった? 充さんと別れろって言ったの。私は彼とお見合いの予定があるの。あなたはどう考えても部外者でしょ。わかる?」
 わからなかった。そこに貴島支配人がやって来て、桜子、そして男性に挨拶をした。支配人の登場で志帆の思考は停止したが、男性が桜子の父親の片瀬正芳であることを志帆は理解した。片瀬グループの社長なら、志帆でも知っている大物だ。
 バンッ、とテーブルが揺れた。余所見をしている志帆に苛立ったらしく、テーブルに平手を叩き落していた。志帆は驚いて、思わず跳ね上がった。
「たぶんなんですけど」志帆は桜子の顔色を窺いつつ口を開いた。「勘違い……されてます」
「勘違い? どういうこと?」
「あたしは甲斐野さんとお付き合いしていません」
 桜子は眉根を寄せ、口を大きく広げた。
「はあ? 充さんが言ったのよ。僕達は結ばれてるって。僕は彼女の才能を貴び、彼女は僕を敬ってくれるって」
「確かに甲斐野さんは、何かと気に掛けてくださいます。あたしのことだけでなく、帝歌全体を好く思ってくださっています。そういう姿を、甲斐野さんが言うようにあたしは尊敬しています。でもあたし達は、恋人関係ではありませんよ」
 桜子は、大きな溜息を吐いた。わかりやすく、意気消沈した。
 しかしすぐに胸を張り、大仰なほど口角を吊り上げて笑った。「じゃあ充さんとお付き合いする気はないのね」
「甲斐野さんは素敵な人だと思います」
「答えになってない! お付き合いする気はないの? それとも充さんが好きなの? どっち?」
 どっちと問われれば、好きだ。しかし志帆には沢木がいる。沢木と甲斐野充を載せた天秤はぐらぐらと揺れ動いたままであり、まだ比重を量りきれていない。
 志帆はかぶりを振った。
「わかりません」
 桜子はまたテーブルを叩いた。
「何よそれ! 埒が明かないわ」
 桜子は立ち上がった。志帆はほっとして、一つ小さな息を吐いた。
「そんな中途半端な想いなら充さんから離れて。私はね、あんたが寄宿舎に入った時よりも小さな頃から充さんに嫁ぐために色んな教育を受けて来たのよ。今更あんたみたいな小娘に邪魔されるなんて考えられないの。いい? 充さんとは関わらないで」
 そんなに小さな頃から……。桜子の苦労を想像すると、志帆は同情してしまう。親を亡くした自分ばかりが不幸だと思ってきたが、富裕層には富裕層の不幸があるのかもしれない。それを桜子が不幸とは捉えていないようだが、甲斐野充と志帆が結ばれた場合、桜子の受けて来た英才教育は水泡に帰すわけだ。
 でもそれは、あたしには関係ない。同情はするけど、簡単に譲歩はできない。
「約束はできません。甲斐野さんのほうから会いに来てくださいますし、甲斐野さんの支援がないとあたし達の活動の場はなくなります。だから甲斐野さんと関わらないなんてことはできません」
「避けることくらいできるでしょ。とにかく、充さんがあなたを諦めるように仕向けるの。いいわね」
 桜子は、片瀬正芳と食堂を出た。その時には、支配人の姿は消えていた。水を飲むと、志帆は稽古室に向かった。
 しかし気分が乗らない。講師に事情を説明し、再びエチュードを中断した。やはり桜子の相手などせず、強引に稽古室に向かえばよかった。志帆は悔いたが、後悔ばかりしていてはどうにもならないことを知っている。二時間ほど自室で静養した後、稽古室に戻った。
 歌えば、ノルマに没頭すれば、嫌なことは忘れられる。そう信じて、講師のピアノ伴奏に合わせて歌った。
「すごいな」と言ったのは講師ではなかった。もちろん講師もブラボーと口にした。それからアドバイスをもらった。
 小稽古室に、いつのまにか飯田が入って来ていたのだ。
「何してるの?」志帆は訊いた。飯田は、愛梨と共に合唱団の一員として『カヴァレリア・ルスティカーナ』に登壇する。当然今は稽古中だ。
「今休憩なんです」飯田は外を親指で指した。「もう全編お手の物って感じですね」
 いや、と志帆は首を捻った。「お手の物ではないよ。ノルマはやっぱり難しい。歌うだけで体力も気力も消耗するし、その上で工夫をしないといけないから。ようやく全幕通してのノルマ像が掴めてきたところ」
 飯田はゆらゆらと頭を振った。
「恐ろしいですね、志帆さんは。吸収のスピードが凄いんですよ。本当、尊敬します」
「尊敬?」志帆は可笑しくなった。飯田の尊敬する人は、大稽古室にいるではないか。「あたしのエチュードを見に来るくらいなら、尊敬する成宮さんの休憩時間の過ごし方を学べばいいのに」
「成宮さんは西園さんと話してばかりなんです。意外でしたよ。世界的な歌手なのに、意外とフランクなんだなって」
 確かに志帆も、成宮の人となりは意外に思った。これは完全な先入観だが。
 音大時代の成宮はヨーロッパに留学し、留学先の大規模なコンクールで三位入賞している。それ以後ヨーロッパを拠点に国内外で目覚ましい活躍を見せており、若手テノールの旗手と呼ばれている、クラシック音楽界では有名人だ。
 そんな成宮が、まだ実績のない志帆と対等に話してくれるとは思わなかった。だが意外にも、顔合わせの時に成宮のほうから話し掛けてくれた。稽古初日は極度の緊張で声も足も震えていたが、メインキャストとしての心構えや成宮の初舞台のエピソードで志帆の緊張を和ませてくれた。もし成宮がホセでなかったら、志帆ミカエラが脚光を浴びることはなかったかもしれない。
 当時の記憶は、鮮明だ。成宮との会話、煌子との稽古、すべての光景をはっきりと思い出せる。その光景の中には、休憩時間の煌子の姿も残っていた。煌子の側には、確かに成宮が張り付いていた印象だ。志帆と煌子が会話をしている時も、さりげなくその輪に入って来た。
 成宮さんは煌子さんを好きに違いない。
 今まで考えもしなかったことだが、一度考えると、それは確信に近いものがあった。そもそも帝歌の公演では原則若手歌手が起用される。その多くが実績のない無名歌手だ。成宮は煌子の一学年下と、若手ではある。だが成宮ほどの実力者で実績もある歌手が帝歌の舞台に立つのは異例と言っていい。それも二年連続で。
 志帆は可笑しくて、つい噴き出してしまった。
 成宮が帝歌の舞台に立つ理由は煌子だろう。『カルメン』では、次世代のオペラを担う志帆達を盛り上げたいという気持ちが成宮にはあったのかもしれない。しかしそこで煌子と出会い、その美貌に恋に落ちたのだろう。だから今年も、煌子と同じ舞台に立つためにヨーロッパから凱旋した。
 それは妙に説得力を持っていた。志帆には二人がお似合いに思えた。何より、海を越えた恋愛なんて素敵だと思った。まるで『つばめ』のようだ。王子との恋愛も、かつて想い合った人との再会も、海を越えた恋愛も、すべてロマンティックだった。
 成宮の恋情を慮ると、世界的テノールが愛らしくさえ見えた。
「俺、『カルメン』で初めて成宮さんを生で観て、感動したんです。それまでは、音大出の恵まれた人だからって、ちょっとひねくれた観方してたんですけど、実力に嘘はありませんでした。一瞬で憧れに変わったんです」
「成宮さんを目標にするのはいいかもね。目標は高いほうがいい」
「もちろん、テノールとして成宮さんは目標です。でも俺の目標は、いつか主演を歌えるようになって、志帆さんと共演することです」
 志帆は舞台中央で飯田とデュエットしている光景を想像して、口元を緩めた。
「そんな日が、来るといいね」
 飯田は顔全体に笑みを広げた。
「『オテロ』なんかどうです? 俺がオテロで、志帆さんがデズデモナ。ああ、『椿姫』なんかもいいな。俺がアルフレードで志帆さんがヴィオレッタ……」
「夢を語るのはいいけど、それに見合う稽古をつけてもらわないと、夢で終わるわ。こんなところで時間潰してないで、誰かの目に留まるように練習しなさい。愛梨はきっと、こうしてる間も試行錯誤してる」
「愛梨さんほどはできません。さすがに喉が潰れますよ」
「別に愛梨ほどやらなくてもいいじゃない。自分なりに稽古しないと、こんなところでウダウダ言ってたら、健吾と共演のオファーが来ても断るから」
 飯田は何か呟きながら立ち上がった。
「わかりましたよ。リハ中は合唱の稽古、休憩時間は個別にエチュードっすね」
 飯田は稽古室のドアを開けた。しかしそのまま退室はせず、外を見回してから中に戻って来た。ドアを閉めると、志帆のほうまで歩み寄った。
「そういえばさっき、稽古室の前で御曹司が耳を澄ませてたんですよ。その稽古室、合唱団が使ってる部屋なんですけど、そこで御曹司、やっぱり志帆の歌声は別格だなって独り言言ってましたよ」
「それ、あたしじゃないよね」
「そうなんですよ。全然違う人の歌声を志帆さんの歌声と間違えてるんですよ」
 志帆は苦笑した。「甲斐野さん、音楽は素人だからね」
「『カヴァレリア・ルスティカーナ』の稽古室の前にもいますよ。そこで聞き耳立ててます。中には入ってきませんけど」
「別にいいじゃない。勉強しようとしてるんじゃないの? 放っておいてあげて」
 飯田は御曹司を嘲るように頬を緩めると、今度こそ辞去した。水分を摂り、志帆はエチュードを再開した。
 一時間ほど復習を行い、今日は切り上げた。役にのめり込んでからは集中が途切れなかったが、やはり桜子の訪問でいつもより疲労を感じたし、負担も大きかった。それを考慮した講師が、早めに切り上げさせたのだ。
 稽古室から自室に引き上げる途中、甲斐野充と鉢合わせた。彼は大稽古室のほうからやって来た。飯田の話した通り、『カヴァレリア・ルスティカーナ』の稽古を聴いていたのだろう。
 しかし不満げな表情だ。
「リハーサルは同じ箇所ばかりを繰り返していて面白くない」
「それがリハーサルですから。反復練習がないと、素晴らしい舞台にはなりません」
「僕がいる時くらいは全編通しでやってくれてもいいじゃないか」
 志帆は苦笑した。こういう我儘な一面は、いかにも御曹司らしい。
 五階に上がり、自室に荷物を置くと、廊下の端で待っている甲斐野充の元に戻った。各階にはソファとテーブルが置かれた共有スペースが設けられている。二人はそこで向かい合った。
「お昼過ぎに、片瀬さんが来られましたよ」
 甲斐野充の眉がぴくりと動いた。「それで?」
「ひどく怒ってらっしゃいました。あたしに、甲斐野さんとは距離を置け、と。あたし、片瀬さんにすごく嫌われちゃって……」
「そんなこと気にしなくていいよ。言わせておけばいいさ」甲斐野充は身を乗り出し、志帆の手を取った。「僕が選んだのは君だ。そこに彼女が干渉することは許されない」
 御曹司はまっすぐ志帆を見つめて来た。志帆も、甲斐野充を見据えた。彼の瞳に曇りはなかった。形のいい唇から囁かれる甘い言葉が、志帆を酔わせた。
 彼は、あたしを一番に考えてくれている。そう思えた。
 気が付くと、彼の息が顔に掛かるほどの距離になっていた。甲斐野充は、志帆の肩に手を回した。
 抵抗することはない、彼に身を任せよう。
 志帆は抱き寄せられた。目の前に、王子の唇があった。張りのある、血色のいい唇だ。志帆は瞼を伏せた。
 ところが口づけはなかった。
 瞼を開けると、階段を上って来た子供達がこちらを見ていた。甲斐野充はそれに気づいており、志帆から距離を取っていた。冷静だが、耳が赤くなっていた。
「どうしたの?」志帆は訊いた。
「志帆姉ちゃん、宿題教えてほしいんだけど」
 志帆は甲斐野充のほうを見た。彼は仏頂面になっていた。追い返せ、と思っているに違いなかった。しかし志帆は、どこか安堵しているところがあった。
 酔いは醒めた。
 あのまま御曹司と唇を重ねていたら、沢木と結ばれる可能性は消滅していたに違いない。
「わかった」志帆は立ち上がった。
「ちょっと待って」と甲斐野充は言った。「僕を置いて行くのかい?」
 はっきりとは、断れなかった。しかし曖昧な返事では御曹司の機嫌を損ねてしまうと思った。金輪際支援は行わないと言われてしまうかもしれない。
 しかし、思わぬところから助け船が出た。
「王子様だ!」と宏太が叫び、甲斐野充に近寄った。それに五人ほどが続いた。宏太達は、王子甲斐野充に次から次へと質問を浴びせ、その答えを聞いては目を輝かせ、持て囃した。
 狡猾さのない無垢な子供達に持て囃され、御曹司は上機嫌になった。しかし一刻も早くこの包囲網を解こうとして、「今日は帰るよ」と言った。「志帆、宿題、見てあげてくれ」
「わかりました」
「もう帰っちゃうの?」と子供達は口々に言った。名残惜しそうに輝く目が、御曹司を有頂天にした。
子供達の態度は、志帆と甲斐野充の仲を容認しているものだった。志帆はそれを感じつつ、否定しなかった。
甲斐野充は子供達に手を振りながら、階段を下りていった。
「みんな、宿題やろっか」
「うん!」

7へと続く……

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