連載長編小説『黄金の歌乙女』14
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劇的な展開を匂わせるオーケストレーションで『ノルマ』序曲は始まる。幕はまだ下りたままだ。しかし激情的な、しかし叙情性を感じさせる美しい旋律は歌手に厳かな緊張感を持たせる。幕が上がって始まる儀式が本当に執り行われるような。
序曲は一旦落ち着く。観客を圧倒するかのような壮大で激しい旋律が、少女の無垢な神聖さを表すような、愛撫のような音色に変わる。そこで幕が上がった。
志帆の出番はずっと先だ。しかし袖から舞台へ、公家の歩みのように一歩一歩をゆったりと踏むオロヴェーゾを先頭にする合唱団の背中を見ているだけで、志帆の緊張は高まっていった。志帆は思わず水を口にしたが、この緊張を重圧には感じなかった。昂りは、むしろ好条件だった。
ローマ帝国から支配を受けているドルイッド族の長オロヴェーゾの部族解放を唱える声で、『ノルマ』は始まる。そこから合唱があり、オロヴェーゾ達が舞台から消えるとそこにポリオーネが現れる。ポリオーネはノルマ達ドルイッド族を支配するローマ帝国の将軍であり、現在はドルイッド族を支配する代官として赴任している。対して志帆が歌うノルマはガリア地方に土着するドルイッド族の巫女長という地位にある。舞台は紀元前である。現代よりも遥かに宗教の影響が強い。つまりノルマは、ガリア地方の女性では最も地位の高い人間であり、聖なる森で行われる儀式では神に讃美歌を歌う重役である。
そのノルマが、圧政を敷くローマの代官と通じ合っている。その上子供まで設けてしまった。二人も……。
ところが舞台に現れたポリオーネは、近頃はノルマではなく若い巫女であるアダルジーザに夢中であることを友人に打ち明ける。アダルジーザへの愛を歌う二重唱。
志帆は舞台に背を向けた。すぐ後ろには愛梨が立っていた。
愛梨の舞台に向ける眼差しが羨ましかった。『ノルマ』最大の見せ場であるアリア「清き女神」など眼中になく、ノルマのアリアの後のポリオーネとアダルジーザの愛の二重唱をすでに思い描いているように、彼女の瞳は蕩けていた。
遼ちゃんと夢見た光景……。
愛梨は佐山に恋心を抱いている。佐山は愛梨に対して恋愛感情は持っていないが、愛梨にすればそんなことは問題ではなく、佐山と同じ舞台に立ち、その上メインキャストとしてデュエットできることに意味があるのだ。
それも愛梨アダルジーザに夢中な佐山ポリオーネ。
愛梨にとって、今日の舞台上での時間は至福の一時となるはずだ。たとえ愛情を向けられるのが自分ではなくあくまでも役に対してであっても。愛に満ちた眼差しを、全身で受けられるのだ。
志帆は一旦楽屋に戻った。凝り固まった喉を解すために発生し、舞台袖に戻った。巫女長の証であるベールを掛けると、瞼を伏せた。ふう、と息を吐き、瞑想する。舞台に出る直前のルーティンだ。
志帆の肩に手が載せられた。見ると愛梨が緊張で眉を厳めしく立て、こちらを見ている。しかしそれとは対照的に、口元には優しい笑みが浮かべられていた。
志帆は頷いた。
「行ってくる」
本番直前は喉に負担を掛けないようにおしゃべりをすることは殆どない。歌う時と話す時では喉の使い方がまるで違う。おしゃべりは、喉への負担が大きいのだ。だから前日から会話はすべて会話帳で行う。
しかし今は自然に声が出た。愛梨は声を出さず、黙って頷いた。舞台を向いた志帆の背中を力強く叩いてくれた。
巫女に扮した合唱団が、ノルマを呼んでいる。神聖な森での儀式である。志帆は威厳を示すようにゆったりと、しかしヴァージンロードを歩く花嫁のような可憐な笑みを口元に帯び、舞台中央まで進んだ。客席のほうに向くと、右手を掲げた。
それが合図となり、巫女の壁が中央から左右に開いていく。出エジプト記のモーセが海を割ったように。志帆は出現した道をまっすぐ歩いて行く。
浴びせられるスポットライトの向こうに、いくつか観客の顔が見える。志帆はすぐに沢木を見つけた。オーケストラ・ピットのすぐ後ろ、一階席の最前列から志帆を見上げている。彼の隣には煌子が座っていた。二人とも志帆が招待したのだ。
登場してまもなく、「清き女神」となる。ベールを上げ、中央に仁王立ちしたノルマの側に巫女が聖なる花飾りを持って来る。その神聖な力を分けてもらうように、ノルマは花飾りの少し上に手をやる。
「Casta Diva(清き女神よ),che inargenti Queste sacre antiche piante(この聖なる古代の木々を銀色に輝かせている),Al noi volgi il bel sembiante(我らに御身その美しきお顔を向けてください),Senza nube e senza vel!(曇りも、覆いもないお顔を!)」
志帆は横隔膜を据え、高音を響かせた。しかし「清き女神」は讃美歌であり、一定の高さで声音を保たなければならない。高さが足りなければ神に対しての不敬に当たり、高音を出し過ぎると神への冒涜に当たる。高音を響かせつつ抑制しなければならない。その上持久力が試される。
志帆は歌い切った。
「Tempra,o Diva(女神よ鍛えたまえ),Tempra tu de’cori ardenti(この燃え立つ心を鍛えたまえ),Tempra ancora lo zelo audace(なおも大胆なるこの熱気を鍛えたまえ). Spargi in terra quella pace(この地上に平和を振り撒きたまえ)」志帆は一段と高音を出した。「Che regnar tu fai nel ciel(御身が治められておられる、その平和で).」
拍手喝采が湧き起った。最前列の沢木も煌子も笑顔で手を叩き、「ブラボー」と叫んでいた。志帆は笑顔で賞賛を受けたが、ちらりと視界に入った人物が真顔なのを見て、慄然とした。
沢木と煌子から少し離れた座席に甲斐野充が座っていた。御曹司は前方を睨みつけながら爪を噛んでいた。憎悪に塗れた視線が舞台上の志帆に向けられているのか、前方に座る沢木を見ているのかはわからない。
嫌な予感に、玉の汗が噴き出してきた。アリアを歌い上げた証とはまったく違った、異質な汗だ。
志帆は甲斐野充から視線逸らした。ちらとピットのマエストロに目線を送った。オーケストラが鳴り出す。再び全体が動き出した。
ノルマは御神木の前でローマ人を追い払おうと緊迫した歌声で歌う。矛盾を感じながらも、「あたしがローマ人を罰してやろう」と口にする。儀式に参加していたドルイッド族の皆がそれに加わり、ローマ人に神の鉄槌を下さんと大合唱になる。
朗らかな間奏曲に押されてノルマ達は皆森を後にする。そこに入れ替わりでアダルジーザが現れる。ようやく愛梨の登場である。そこに密かにアダルジーザと通じているポリオーネが現れ、二人はお互いに愛を歌い合う。
――アダルジーザよ、ローマへ来い。
対してアダルジーザは自らの神を裏切り敵対するローマ人に恋をしてしまったことを懺悔するが、改心するどころが神に慈悲を乞う。ポリオーネの口説き文句をアダルジーザは退けようとするが、とうとう繋ぎ止めていた微かな信仰心がぷつりと切れたように、アダルジーザはポリオーネの誘惑に負け、神ではなくポリオーネに忠実であることを誓う。
志帆は汗を拭いながら、アダルジーザに自分を投影していた。あたしが歌うべきはアダルジーザだったのではないか。神と愛の板挟みになる、無垢な少女……。それは御曹司と沢木の間で葛藤する自分と重なっていた。
弱々しく、脆さを露呈する少女……抗えない誘惑と、燻る信仰。それはまさに志帆自身だ。しかし一方で、ノルマこそ自分なのだと思いもする。
ノルマはドルイッド族とポリオーネへの愛の板挟みだ。ロミオとジュリエットのような決して結ばれることのない相手、王子とシンデレラのような本来出会うはずのない二人。それがノルマとポリオーネにもある。そしてそれは寄宿生と御曹司にも当て嵌めることができるだろう。
シンデレラは王子と結ばれるが、ロミオとジュリエットは結ばれることなく非業の死を遂げる。その違いは、やはり人物の背景に拠る。シンデレラには意地悪な継母しか弊害はない。しかしロミオとジュリエットには皇帝派と教皇派という中世ヨーロッパにおける最大の争点が存在し、両家の思想、習慣、そして最後はロミオの自責によって悲劇は起こる。
同様に、ノルマも悲劇を迎える。その理由は明白だ。ロミオとジュリエットのように、結ばれざる相手との恋愛だからだ。圧政を敷くローマの代官ポリオーネと圧政を受けるドルイッド族の巫女長――政治的な相反、思想的な相反によって二人は引き裂かれる運命にあるのだ。
一見自分はシンデレラに当たると志帆は思った。しかし甲斐野充は王子ではなかった。寄宿生である自分がジュリエットになり得るはずはなかったし、そもそも御曹司と肩を並べることなどできない生い立ちだ。
あたしはやはりノルマだった。御曹司は圧政を敷く暴君だった。金で、権力で、志帆に迫って来た。そして彼の父親は、かつてパトロンの権力を利用して煌子に迫った。煌子の受けた仕打ちは公にはならなかった。そして今度、志帆自身が生贄となる運命を背負った。ノルマも、二幕の最後では生贄になるのだ。
プリマ――巫女長として、志帆は生贄になる、ところだった。唯一ノルマと違う点は、志帆を正しい道へと導いてくれる存在がいたことだ。それが沢木だった。沢木は言わば志帆の信仰だ。物心ついた頃から当たり前に存在した、志帆の中で最も深い位置に鎮座する、疑いのない聖性。それは七年の時を超えて再会を果たしたことでさらに増した。
罪悪感に目を瞑った愛と信仰の板挟み。
志帆はまさしくノルマであり、ノルマが志帆であった。やはり志帆は、卒業公演の出資金を巡って生贄になろうとしたのだ。
ノルマはすでに憑依していた。
舞台は第二景へと移り、アダルジーザから恋の悩みを打ち明けられる。ノルマは「哀れな娘」とアダルジーザを慰めるが、恋の相手がポリオーネであることを知り、驚く。そして怒りと妬みが湧き上がり、アダルジーザを非難する。ポリオーネとノルマの関係を知ったアダルジーザも困惑し、互いの想いが二重唱でぶつかり合う。
志帆はますますのめり込んだ。そこへやって来たポリオーネが、憎くて憎くて仕方がなかった。まるで甲斐野充が沢木に刃物を向けていた時のように。
ノルマの怒りとアダルジーザに困惑、そして幻滅。嫉妬。それを弁解しようとするポリオーネの三重唱。激しい憎悪が飛び交う中、ノルマはひたすら神の審判が下されるとポリオーネを罵倒する。
ノルマの歌声はアダルジーザの愛と困惑を引き立て、アダルジーザの歌声はポリオーネの不純さを際立たせ、ポリオーネの歌声はノルマの怒りと嫉妬を最高潮まで引き上げた。絡まり合う憎しみの歌声の最中、目を覚ますような銅鑼が四発。
ドルイッド族がノルマを祭壇に呼ぶ声。処刑の時だ。激しさを増すオーケストレーションの中を、幕が下りる。裾が舞台に着くと、志帆は肉体の緊張を解いた。佐山も愛梨も、ほっと一息吐いて頬を緩ませている。
しかし志帆は、心の緊張までは解けないでいた。
沢木を睨む甲斐野充。殺気立った表情が、志帆の胸に靄を掛ける。じっとしていられないほどの焦燥と吐き気を催すほどの不安が、喉を強張らせる。客席の様子が気に掛かって仕方がない。しかし隙間から顔を覗かせるわけにはいかない。そんな演出は台本にないのだ。
志帆は水分補給も汗を拭うのも忘れて、楽屋にも戻らず舞台袖を歩き回っていた。
「どうしたの?」
愛梨に声を掛けられ、志帆は我に返った。睫毛から落ちた汗の粒が目に入り、少し沁みた。愛梨は一幕最後の三重唱での志帆の気迫を賞賛した。佐山も同様だった。「清き女神」についても褒められた。演出家にも抱擁を受けるほど讃えられた。
しかし志帆は、愛想笑いを浮かべるだけの余裕もなかった。
愛梨が再び心配する。第二幕が上がるまで、あと五分しかない。観客に向けられた上演開始ベルが耳にキンキンと鳴る。
「愛梨、ちょっといい?」
志帆は愛梨の腕を掴むと、楽屋へと戻った。
「もう二幕が始まる」
志帆は二幕が上がる時には舞台上にいなければならないのだ。しかし愛梨の心配はよそに、志帆は楽屋に入った。本番直前まで使用していた録音機を取り出し、愛梨に手渡した。
愛梨は怪訝そうにこちらを見つめた。
「もしこの先あたしに何かあった時、これを愛梨に持っていてほしい」
「何のこと?」
「お願い。この録音機はあたしのプライドなの。あたしが持ってるもので一番大切なもの。それを愛梨に預かってもらいたいの」
「どうしたの突然……」
志帆は愛梨の手を強く握り、無言で頷き掛けた。愛梨は説明を求めたが、志帆は「もう行かなきゃ」と舞台に戻った。
巫女衣裳の上から黒い衣裳を重ね、フードを被った。手には刃物……。
もちろん偽物だ。偽物だが、精緻な小道具に思わずクリスマスパーティーでの一幕が頭を過る。志帆は忌まわしいあの光景を振り払うように頭を振った。
第二幕の序曲が始まると、すぐに幕が上がった。下手の袖に近いところで、ポリオーネとノルマの二人の子供が眠っている。ノルマは手に持つ短刀で、二人を殺し、自らも死のうと考えているのだ。
しかしそれはできない。愛する子供を殺すことなどできないのだ。ノルマは子供達の傍らにそっと座り込む。
その時、志帆は客席に異変を感じた。
いない――。
煌子の隣に沢木の姿がない。まさかと思いやや後方に目をやると、御曹司の姿も消えていた。
……どういうこと?
志帆の中で、不穏な足音が響き始めた。それは二人分の足音のはずなのに、切迫した激しい音は何千人が行き交うスクランブル交差点の喧騒のように志帆を酔わせ、戸惑わせた。不穏な気配が、すぐそこまで忍び寄っている気がした。
振り返ると、アダルジーザが立っていた。舞台は続くのだ。
志帆は恐怖で込み上げる涙を懸命に堪え、歌った。幕が下りない以上、志帆に歌わないという選択肢はないのだ。それがオペラ歌手として生きるということだ。その決意は揺らがない。憑依するノルマも健在で、志帆歌声はぶれない。
しかし胸を掻き毟るように渦巻く不安は、志帆から余裕を奪い取った。もはや志帆は正気を保っていられなかった。喉が勝手に声を出す。視界に映る景色も霞んだ。
今歌っているのはあたしじゃない。
志帆は思った。
ノルマが歌ってる。
いったい自分がどうなるのか、何もわからなかった。沢木と御曹司がどこで何をしているのか、見当もつかなかった。
最後に志帆の目に映ったのは、決然とした瞳で舞台を見つめる煌子だった。どこか険しい、観客らしくない表情が煌子の美貌を際立たせた。じっと一点を――志帆だけを見つめる煌子の目には祈りが込められているように感じた。
煌子を縛る汚れが、一つずつ浄化されていくように思われた。
15へと続く……
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