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連載長編小説『黄金の歌乙女』6-1

 
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 山が歌っている。窓に映る鞍馬山の木々が月光に照らされて、揺れているのが見えた。志帆はベッドの脇に腰掛け、穏やかだがどこか物々しい風景を、体を左右に揺らしながら眺めていた。
 静かな夜は、あまり好きじゃない。もし寄宿舎が住宅街の一角にあったなら、あたしは安心して眠れていたのかな、と志帆は考えていた。夜風に指揮された山の合唱は、これまで何度も志帆の心を安らかにしてくれた。
 ドアがノックされたのは、志帆がまだ外を眺めている時だった。返事をすると、ドアが開いた。志帆は入室した煌子を認めて驚いたが、腰を落ち着けたまま笑顔になった。髪は乾いているようだが、まだ肩にタオルを掛けていた。
「座っていい?」煌子はベッドを指差した。
 志帆は頷いた。「どうしたんですか?」
「今日ね、リハの時に浦部さんから滅茶苦茶詰められた」
「愛梨から……」
 今朝からメインキャストの立ち稽古に合唱団も加わっているのだ。四日後には帝歌の舞台を使用したビューネンプローベへと移り、その三日後にはオーケストラが加わるオーケストラプローベに入っていくという日程になっている。メインキャストと合唱が合流すると、いよいよ本番が近くなり、緊張感は増す。
 普通は合唱の一員である者が立ち稽古でプリマドンナに話し掛けるなんて考えられないことだ。それに今日は登壇者全員が合流する初日であり、大稽古室に流れる緊張感は尋常ではない。志帆なら、一歩位置を変えることすら躊躇うだろう。
「どんなふうにですか?」
「リハが終わった後、稽古室を出ようとしたら呼び止められて、私と志帆の何が違うんですかって、凄い剣幕でね」
 志帆は俯いた。
「あたしは愛梨ほどストイックじゃないですし、でもプリマを歌わせてもらったり……愛梨はたぶん、そんなあたしをヴァイオリニストの父から受け継いだ音楽の才能でプリマになれたと思ってて、それで憎まれてるのかもしれません。マグダを歌うことが決まった辺りから、愛梨に軽蔑されてるような気がしてたんです」
 うん、と煌子は頷いた。微かに好い匂いがした。
「あれはこじらせてるかもね。でも、他人を憎んだりするタイプなのかな?」
「わかりません。あたしが愛梨の立場だったら、あたしほど練習してないのにプリマって、ちょっと嫌かも」
「じゃあその場合、志帆ならどうする? 自分より練習してない人がプリマだったら。何もせず愚痴だけこぼす?」
 志帆は少し考えて、かぶりを振った。
「練習します。追いつきたくて」
 煌子は微笑んだ。彫刻のように美しい顔に、金箔が貼られたかのようだった。志帆は思わず、その美貌に見入ってしまった。
「彼女もそうなんじゃない? 志帆に追いつきたくて、必死にエチュードを繰り返してる。努力家にとって一番の敵は才能。確かに浦部さんは志帆に敵愾心を持っているかもしれない。でもそれは、切磋琢磨していく上では必要なものじゃない? 彼女の存在は、きっと志帆にも欠かせないものになるわ」
「でもやっぱり、努力家じゃないあたしがプリマでいるのって、愛梨からすれば不愉快なんじゃ……」
 煌子は低く唸った。
「多少はそうかもしれない。あたしは寄宿生の頃、志帆と同じ立場だったから、浦部さんの気持ちをすべて理解することはできないと思う。だから確かなことは言えない。でも彼女のストイックさは、志帆あってのものだとあたしは思う」
「あたしあっての?」
「うん。浦部さんは志帆を追いかけているから、誰よりも努力ができるんだよ。今日もリハの後、一人で小稽古室に入って歌ってたし。でも彼女には欠点がある」
「欠点?」
「あまりにも余裕がない。努力家であることは一目瞭然。顔つきを見ただけでわかるくらい。だけど、追い掛ける背中が遠過ぎるのか自分で自分を追い詰めてる感じがする。もしかしたらそれが、敵愾心を越えた憎しみになっている節はあるのかもしれない。でも本来は、自分の課題に向き合える娘だと思うの。志帆がマグダで一皮も二皮も剥けたから、焦ってるのかもね」
「努力家の愛梨をあたしは尊敬してるんですけどね」志帆は苦笑した。
「でもいまいち結果が伴わない。今日は合唱団全体はもちろん、彼女も名指しで指導されてたからね。それで堪らずあたしに声を掛けたんじゃないかな。悔しかったんだと思う。努力が結果に結びつかない時の不安なら、あたしには痛いほどわかる。誰かを僻みたくなる気持ちもわかる。でも本当に打ち勝たないといけないのは他の誰かじゃない。自分自身。努力家の自分よりも早くプリマを歌った志帆を許せない気持ちは浦部さんにあるのかもしれない。でも彼女なら、本当に乗り越えなきゃならないものを自覚できるはず。努力はなかなか結果に現れないけど、嘘は吐かないからね。悪い努力は努力じゃないって言う人がいるけど、悪い努力がなければ本当に良い努力なんか見つけられないもの」
「……そうですね」
 どんな言葉を口にすればいいのか、わからなかった。煌子の言ったことはもっともなのだろう。だが志帆は、そこまでの考え方を持っているわけではなかった。煌子の言葉には感服したし、なぜか志帆自身が勇気づけられた。だらしない毎日を送っているとは決して思わないが、愛梨ほどストイックではない。そんな自分がどんな言葉を口にするのが正解なのだろう。
「あたしがもっと努力をすれば、愛梨に許されるんですかね?」
「それは志帆にとってすごくいいことだわ。でも浦部さんにはちょっとね……」
「どうしてですか?」
 愛梨が志帆を許容できないのが愛梨ほど努力をしていないことであれば、志帆が愛梨に近い努力をすれば、志帆がプリマドンナであることも認められるのではないのか。
 煌子はベッドから小さな尻を浮かせた。窓辺に立ち、振り返った。栗色の髪が月光を反射して、黄金色に見えた。志帆はその優美さに恍惚とした。
「努力家にとって最も受け入れられないことは、天才が誰よりも努力をしているということ。別にそれは悪いことじゃない。でも志帆が彼女以上の努力をしたら、彼女、潰れちゃう」
 じゃあどうしたらいいの? 志帆はそう思ったが、口にはしなかった。黙ったまま、煌子が口を開くのを待った。
「志帆は努力してる。浦部さんと比べるから、努力してないような気がしてるだけ。そもそも誰かと比べるなんてことが間違ってるのかもね。志帆は気にしなくていいの」煌子は再びベッドに腰を下ろした。「今日、ここに泊まってもいい?」
 志帆は了承した。
 寄宿舎には来客用の部屋が設けられている。煌子や千恵などの卒業生は帝歌に凱旋する時はそこに泊まることができるのだ。もちろん、宿泊費は無料だ。成宮のような客演歌手は、京都市内のホテルに宿泊しているが。
 煌子が部屋を出ると、志帆はシーツを取り換えた。昨日と同じシーツに煌子を寝かせるわけにはいかない。枕のカバーも変えた。準備が整うのと同時に、煌子は部屋に戻って来た。
 煌子は変化に気が付き、礼を言った。煌子はベッドに乗ったが、志帆は床にシーツを広げた。
「こっちおいで」
「二人じゃ狭いですよ? あたしは床でいいです」
「一緒に寝よう? 二人だとあったかいよ」煌子は掛布団を持ち上げた。ベッドに横たわる女性的な曲線に色気がこぼれていた。「おいで」
 志帆は思わず狼狽したが、ベッドに入った。しかし煌子の卓越したスタイルのせいか、窮屈さはなかった。煌子の髪に香る匂いを、志帆は鼻腔全体で堪能した。
 明かりを消したが、すぐには寝付けなかった。煌子もまだ起きているようなので、志帆は思い切って話し掛けた。
「煌子さん」と呼び掛けると返事があった。「好きな人との再会って素敵だと思いません?」
「恋愛相談?」煌子の微笑が布団の中でくぐもった。
「かもしれないです」志帆は窓辺の月を見て笑った。部屋の中は、月光で少し青い。「ロマンティックじゃないですか? 昔好きな人と突然再会するって」
「それは何? 元彼との再会ってこと?」
「違いますよ!」志帆は狭いベッドの中で肩を揺らした。「昔好きだったけど、想いは伝えてないんです。想いを伝える前に離れ離れになったけど、ふと再会した。運命、感じませんか?」
「確かにロマンティックね。ひょっとして、御曹司のこと?」
「違いますよ! 甲斐野さんとは、この前初めてお会いしたんですから」
「パトロンの息子なら、昔少し会ってたとかじゃなくて?」
「はい。とにかく甲斐野さんじゃありません。別の人ですよ。それにその人も、たぶんあたしを好きでいてくれた。そんな二人が再会するって、素敵じゃないですか?」
 うん、と煌子は言った。「御曹司は嫌?」
「嫌じゃないです。あたしからすれば王子様みたいな人です。でも白馬の王子様ではないかもしれない。もし運命の恋があるのなら、それはきっと再会のほうです。そう思いません?」
「じゃあ、もし二人から同時に告白されたら、志帆は昔好きだった人を選ぶの?」
「そうしたいです」
「したい? じゃあ、そうはならないの?」
「わかりません。王子様との恋愛も、憧れるじゃないですか」
「幼馴染と王子に取り合われるシチュエーションって、大抵王子が悪者じゃない?」
「確かに……。でも甲斐野さんは、あたしのことを真剣に考えてくれています。悪役にはならないんじゃないですか」
「そう。ならいいんだけど。でもパトロンの息子でしょう?」
「パトロンの息子だと、何かいけないんですか?」
 パトロンっていうのはね、と煌子は言ったが声を切った。「何でもない」
「えー、何ですか? 気になるじゃないですか」
 煌子が布団の中で抱きついて来た。志帆も煌子を抱き返した。
 しかし会話は途切れたまま、煌子は何も言わない。良い匂いが鼻孔をつくのと同時に、煌子の規則正しい寝息が聞こえて来た。志帆は煌子に体を擦り寄せて目を閉じた。
 
6-2へと続く……

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