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【最終回】連載長編小説『黄金の歌乙女』16

 

        16

 

 目の前に、捕らえられたポリオーネがいる。ポリオーネとの子供を殺して自らも死のうとしたノルマだが、愛する子供を殺すことはできず、ドルイッド族の巫女長としてローマ人との戦いを宣言した。そしてガリア地方のローマ人代官ポリオーネが捕らえられたのだ。
 しかしノルマはポリオーネを殺せない。憎悪と嫉妬、そして恋心が胸にひしめき合い、決心がつかないのだ。ノルマは、アダルジーザを諦めるようポリオーネに言う。ノルマは嫉妬に燃え、「彼女は祭壇を汚した」とアダルジーザを処刑することもできるとポリオーネに持ち掛ける。ポリオーネはアダルジーザの処刑を回避するよう懇願し、アダルジーザを諦めることはできない、とノルマの要求を受け入れない。
 ノルマは絶望し、部族の皆に裏切り者の名を告げる。それはアダルジーザではなくノルマ自身の名前だった。信じ難い告白に皆戸惑うが、「ノルマは嘘を吐かない」と叫び、祭壇を汚した裏切り者は自分なのだとノルマは言う。
 掟に背いた裏切り者は処刑される。ノルマは自ら火刑台を準備するよう指示し、ポリオーネとの子供をドルイッド族の長である父に「どうかお慈悲を持って、お育てください」と預ける。
 クライマックスの大合唱。数々の業が吹き上げられていくような荒々しくも美しい、激情迸る合唱とオーケストレーションの中心に志帆はいた。
 やり切った――。
 達成感と充実感に満ち溢れる中で、空席となったままの煌子の隣の座席だけが気掛かりだった。空席に佇む空間がまるで志帆の心に移動したみたいだった。晴れ晴れとした思いの中心に、ぽかんと穴が一つ空いている。
 志帆は客席に背を向けた。火刑台へと昇っていくのだ。神への生贄……一途な愛、息子達への母性、恋敵への寛大さ、そして信じるものへの忠誠。
 ノルマに心打たれたポリオーネは、ノルマこそ聖女だったのだと思い直し、アダルジーザに浮気した自分を苛み、ノルマへの愛と感謝を叫び、「Là più santo Incomincia eterno amor!(ひときわ清らかな、永遠の愛が始まる!)」というセリフを最後にノルマの後を追う。二人は揃って火刑台へと飛び込むのだ。
 志帆は壮大な愛の響きを持った、劇的なオーケストレーションに背中を押されながら、堂々と火刑台の前に立った。フィナーレである。幕が下り始めた。志帆は火刑台へと足を踏み入れた。
 幕が下りると、火刑台のセットの中にいる志帆にも大きな拍手が聞こえて来た。割れんばかりの大喝采、鳴り止まぬブラボー。
 幕はすぐに開いた。志帆は舞台袖にいた。合唱団が順に舞台上に進み出て、大きな拍手を浴びる。
 こんなことしてる場合じゃないのに。
 志帆は最も喜びに溢れるカーテンコールを前にして、そう思った。二幕が上がった時から、ずっと沢木のことが気に掛かっている。これは歌手失格かもしれないが、二幕の途中から志帆は我を忘れていた。戻らない沢木と彼を睨みつけていた甲斐野充のことで頭が一杯だった。二幕以降、舞台上で歌っていたのは幸村志帆ではない。ノルマだ。
 それくらい、切迫感を抱いていた。稽古ではかいたことのない汗の量だった。それが舞台に掛ける意気込み、熱量の表れだったらどれだけよかっただろう。しかし噴き出す汗はそんなに美しいものではない。
 煩わしいとさえ思った。
 舞台にはアダルジーザを歌った愛梨が笑顔で登場し、場内の拍手喝采は一層大きくなった。愛梨は志帆が浮かべたかったような充実した表情を見せており、憎しみすら感じてしまいそうなその朗らかな笑顔でポリオーネ役の佐山を舞台に呼んだ。
 そして志帆である。
 志帆を迎える喝采は、愛梨のそれよりも遥かに大きいものだった。しかしそれに嬉々としている余裕は志帆にはなかった。謙遜するように、澄ました笑顔を浮かべるのがやっとだった。怒号のようなブラボー、客席から舞台に投げられる薔薇の花。これ以上ない賛辞。
 カーテンコールは十分も続いた。その間何度も舞台に上がり、袖にはけた。それを繰り返す度に志帆の中で焦りが大きくなった。しかし自分達の作り上げた舞台に歓喜してくれている観客にそれを悟らせるわけにもいかず、志帆は精一杯微笑み、高々と手を振り続けた。
 ようやく閉幕すると、志帆は衣裳も着替えず走り出した。
 出演者専用出入り口から外に出て、隣接する公園を横切った。公園に人影はなく、そこから鞍馬街道に出たが、見渡す限り二人の姿は確認できなかった。志帆は刹那逡巡した後、帝歌のロビーに飛び込んだ。
 志帆が予想した通り、ロビーはたった今まで『ノルマ』を観劇していた聴衆で溢れ返っていた。突然のタイトルロールの登場にロビー中にざわめきが起こった。この異様な光景に戸惑っている者が多かったが、どこからか「ブラボー、プリマ」と今日の舞台を賞賛する声が聞こえて来た。志帆はそれを確かに聞いたが、対応している余裕はなく、ロビーを右往左往した後、正面出入り口から外に出た。場内にも二人はいなかった。
 志帆は寄宿舎に向かった。広間から稽古室を覗いたが、そのどこにも二人はいなかった。今日登壇していない寄宿生がエチュードを行っている最中で、劇場にいるはずの志帆が血相を変えてドアを開けたことに目を丸くしていた。
 食堂にもいなかった。志帆は五階まで駆け上がり、自分の部屋を開けた。しかし人影はない。窓の外にひっそりと鞍馬山が聳えているだけだ。慣れ親しんだその風景に、志帆はふと冷静になった。
 ぜえぜえと息を荒らげ、まるで狂人のようになった自分に気が付いた。机に出しっ放しにしていた水をがぶがぶと飲み、乾燥した喉を潤した。
 志帆は抽斗を開けた。そこには父の遺書が入っている。志帆が直接受け取ったものと甲斐野充から手渡された二つの遺書。その傍らに甲斐野充から受け取った指輪が転がっていた。
 暗い部屋で輝く金剛の石――それは惑いの象徴であり、決して志帆に素晴らしい夢を見せてはくれなかった。斜陽を照り返す絢爛な光が、志帆を暗澹たる気持ちにさせた。呪わしい宝石は、同時に志帆の覚悟を与えた。
 はっきりしなければ。指輪を返して、何があっても遼ちゃんといることを示さないと。
 志帆は指輪を握りしめ、自室を飛び出した。階段を駆け下りていると、なぜか『カルメン』の時に見た光景が思い出された。初めての大役、大物歌手との重圧、初めての栄光――沢木と再会するための出発点。そして御曹司と出会う前の、今に至るまでのすべての始まり。
 序曲が終わった後、男声合唱の中に飛び込んでいくミカエラ。あの時と同じ緊張が志帆の足を襲った。恐怖と希望の入り混じった、どこか胸をすく緊張感。しかし怯えはなかった。
 でも今は、怖い。たどり着いた先に何が待ち構えているのか、まるで想像もつかない。
 広間まで駆け下りた志帆は、思わず足を止めていた。恐怖が足を止めたのだ。二人はどこにいて、何をしているのか。蘇るのは沢木に刃先を向けていた御曹司の姿ばかり……。
 胸が苦しい。まさかそんなはずはないと思うのに、彼なら本当にやってしまうのではないかという予感。沢木を守りたいと願うのに、動かない足。震える足は、行きたくないと言っている。でも行かねばならない。
 夢は叶わなかった。彼と同じ舞台に立つことはもうない。しかし新たな夢ができた。彼と二人で世界中の劇場に赴くことだ。そこで志帆は歌う。聴衆のために、聴衆の中の彼だけに。それだけは、譲れない夢になっていた。
 彼は言った。もう何も二人を引き裂けないと。
 再会した時から気づいていた。これは運命だと。まさか、こんな大騒動になるとは思っていなかったけど。
 志帆は、口元を動かした。無意識の内に、口ずさんでいたのだ。すべての始まり。ミカエラのアリア「恐れるものは何もない」を。
 Je dis que rien ne m’épouvante,je dis,hélas ! que je réponds de moi ;mais j’ai beau faire la vaillante,au fond du coeur,je meurs d’effoi ! Seule en ce lieu sauvage,toute seule j’ai peur,mais j’ai tort d’avoir peur ;vous me donnerez du courage,vous me protégerez,Seigneur !(私を恐れさせるものが、何もないと言っても、私自身、気をしっかり持つと言っても、奮い起こす勇気を持っていても、本当言えば、怖くて死にそう、ひとりで、この人気のない場所に、たった独りで、怖いわ、でも、恐れてはいられない、力をお与えください。私を守ってください、神様!)
 志帆は寄宿舎を出ると出演者専用出入り口から帝歌の中に戻った。エレベータを待つのも惜しく、屋上まで繋がる階段を駆け上がった。派手な音を鳴らす階段に、何度も心が折れそうになった。階上に行けば行くほど恐怖心が大きくなった。
 しかし志帆は自らを鼓舞し続けた。健気で純情な、透き通るように美しいミカエラのアリアは、同時に強い芯を持っている。このアリアを歌っていれば、地獄にだって行ける気がする。
 ah ! Je dis que rien ne m’épouvante,je dis,hélas ! que je réponds de moi ;mais j’ai beau faire la vaillante,au fond du coeur je meurs d’effoi ! Seule en ce lieu sauvage,toute seule j’ai peur,mais j’ai tort d’avoir peur ;vous me donnerez du corage,vous me protégerez,Seigneur ! Protégez moi ! O Seigneur ! donnez moi du courage !(ああ! 私を恐れさせるものが、何もないと言っても、私自身、気をしっかり持つと言っても、奮い起こす勇気を持っていても、本当言えば、怖くて死にそう、ひとりで、この人気のない場所に、たった独りで、怖いわ、でも、恐れてはいられない、力をお与えください。私を守ってください、主よ! 私を守ってください! おお、主よ! 力をお与えください!)
 屋上に続くドアの前に立った時、志帆は唾を飲み込んだ。すでに覚悟は決まっていた。何の躊躇もなくドアを押し開けた。何かがぶつかる音がしたが、気にせず前進した。
 やはりここだった。
 そう思った時、御曹司の向こう側でぐったりと倒れる沢木を認めた。彼は鮮血に顎を染め、胸からもどす黒い血を流していた。志帆は思わず顔を歪めた。志帆に気づいた甲斐野充がゆっくりと振り返った。紺のジャケットの襟元に少し飛び出た白シャツの襟に返り血が付着していた。志帆は茫然と、御曹司を見つめていた。彼の手に握られた血に濡れた刃物を見て、志帆はすべてを理解した。声も出ないほど苦しく、怖いのに、冷静に状況を理解し、なぜか殺人犯のほうへと近づいていた。
 風が吹くだけで倒れ込んでしまいそうなほど、志帆はゆっくりと近寄った。
 沢木が絶命していることは一目でわかった。悲しい。痛ましい。恨めしい。それははっきりと志帆の胸に感じられるのに、志帆は湧き上がる涙を噛み殺していった。彼の死を、認めたくなかったのかもしれない。
 志帆はゆらゆらと、沢木に近づいた。甲斐野充の前を通り過ぎる時、刹那歩みを止めた。ひったくるように御曹司から短刀を奪い取った。彼は超然と笑っていた。
 沢木の側に膝を下ろすと、彼の手に触れた。まだ少し温かい。それは生命を感じさせたが、すでに息吹はなかった。顔は青白く、顎についた血液はすでに固まり始めていた。志帆はがっくり項垂れた。地面についた手にぼとぼとと涙が落ちた。
 志帆は手元の刃物を見て、沢木の胸元を見た。志帆は涙を拭った。しかし涙は止まらなかった。志帆は、鮮血に染まった沢木の唇に接吻した。唇はすでに冷たくなっていた。
「よすんだ」背後から甲斐野充が言った。「死体だぞ。わかってるのかい?」
 志帆は御曹司を睨むと、構わずもう一度接吻した。見せつけるように。「正気とは思えないな」
「それはあなたのほうでしょ。どうして……殺すことなかったじゃない!」「この男は、自ら破滅の道を歩いて行ったんだ。血を流すことになったのも、すべて彼の軽率な行動と自己中心的な性格のせいだ。彼は僕を愚弄し過ぎた。さすがに堪忍袋の緒が切れてね。死ぬ前の彼の顔を君にも見せてやりたかったな。絶望に叩きのめされたような顔だった。あれは傑作だった。つい助けてやろうかと思ったくらいだ。でも、いくら優しい僕でも、怒りの沸点というものがある。彼はそれを超えてしまっていた。哀れなもんだ」
「殺人の理由になってない」
「殺人の理由? そんなものが存在するのか? それとも今ここで、君は彼を殺されて怒っている。だから僕を殺す。これが殺人の理由になるとでも言うのか?」
「別にあなたを殺すつもりはないわ」
「じゃあナイフを返すんだ。僕も君まで殺しはしない。むしろ君のことは赦すつもりでいる。なぜなら君には世界に誇れる才能がある。容姿も素晴らしい。僕の妻として、日本でその名を轟かせるんだ」
 甲斐野充は両手を広げた。
「さあ、邪魔者はいなくなった。僕達はこれで結ばれる。今僕の胸に飛び込んできたら、撤回した支援を再度提示させてもらう。どうするかは志帆が決めればいい」
「嫌! 嫌! 絶対にあなたと結婚なんかしない」
「そうか。志帆は僕が一方的な恨みで彼を殺したと思ってるんだな。だったら教えてやる。彼には殺されて然るべき理由があった。彼が僕の父を貶める証拠を持っていたことは君も知っての通りだ。だがその証拠は、僕の父を貶めるものではなかった」
「どういうこと?」
 沢木の録音機の音声は志帆もこの耳で確認した。証拠でないはずはなかった。
「あの録音機の音声。あれは僕の父の声ではない。当時甲斐野家と新旧二大後援者であった片瀬正芳のものだった。従って西園煌子に関係を強要していたパトロンというのは片瀬正芳だったというわけだ。にも拘わらず、彼は僕の父を非難し、僕達を犯罪者扱いした。潔白でありながらこれだけの仕打ちを受けて、黙っていられると思うか。この男は自分の恋路を阻まれないために僕を貶め、君から遠ざけようとした。さあどちらが被害者だ! これでも僕が悪いと言うのか! この男は殺されて当然のことをしたんだ。僕もまさか片瀬さんの罪を擦り付けられるとは思ってもみなかったよ。聞き及んでもいなかったことだからね。志帆も今、驚いただろう? たしか君も、西園煌子とは親しかっただろう」
 志帆は喉を鳴らして笑った。それを見た甲斐野充は顔を強張らせていた。
「そうか」甲斐野充は志帆と同じように笑った。「笑いが出るほど可笑しいか。そうだろう? まさか片瀬さんが黒幕で、僕達が潔白だったとは。ははは」
「そんなことはどうだっていい」志帆は掌に握っていた指輪を投げ捨てた。それを見て、甲斐野充は目を見開いた。志帆を見返す目に不快感が滲んでいた。「あたしがあなたを選ぶことはない。たとえあなたのお父様が善人であっても、あなたは違う。彼は殺されて当然だと言ったけど、違う。彼はあたしを待っていてくれた。不覚にも薄汚れた誘惑に惑わされるあたしのことを。でもあなたはそうじゃなかった。あたしの将来を餌に、財力と権威を振りかざし、挙句亡くなった父の遺志まで利用しようとした。彼はあたしに用事があっても、稽古が終わるまでは外で待っていてくれた。それはあたし達が取り組んでいるものへの敬意があったから。あたし達の意気込みを理解してくれているから。でもあなたは、パトロンの息子という立場を使い、平気で稽古室に押し入って来た。掛ける言葉も、彼は常にあたしのことを優先したものだった。でもあなたは自由気ままに話し掛けて来た。その中には数々のセクハラ発言もあった。あなたはパトロンの息子。あたしは寄宿生。ある意味この関係は上司と部下。立場上の力関係であたし達が敵う相手じゃない。あたし達はハラスメントに耐えるしかない。でもあたしはあの日、クリスマスパーティーであなたが彼にこの短刀を向けた後、あなたの人間性を疑うようになった。それまでは支援を申し出てくれる善きパトロンだったのに、あなたは悪魔になってしまった。だからあたし、あの後あなたの発言を録音していたんです。何かあった時、あるいは寄宿舎を卒業した後、何らかの形でこの事実を公表したいと思ったから。まさかこんなに早くなるとは思いませんでしたけど」
「その録音機、買い取らせてもらおう」
 甲斐野充は大股で近づいて来た。志帆は咄嗟に刃先を自分の胸に当てた。「近づかないで。それ以上近づいたら、あたしはこの胸を突く」彼に刃先を向けたのでは彼は止まらないと思ったのだ。
 甲斐野充は立ち止った。
「わかったから。冷静になってくれ。録音機を渡してくれればそれでいい。いくらで渡してくれる?」
「またお金で解決しようとする。あなたは変わらない。あたしを手に入れられなくとも、人を殺しても……。それに、録音機はここにはない」
「どういうことだ?」
「一幕が上がった時、彼を睨むあなたを見て嫌な予感がした。まさか当たってしまうとは思わなかったけど。だからあたしは録音機をある人に託した。二幕が上がって、あなたと彼の姿が客席から消えてるのを見て、あたしは覚悟を決めたの。終演してからここに来るまで、怖かったけど、もう引き下がることはできない。彼は命を賭けて過去を暴こうとした。それは煌子さん一人では声を上げられないから。そしてあたしが同じ目に遭うことを恐れたから。だから危険を省みずパトロンであるあなたに立ち向かった。それはあたし達にとっては正義なの。でも彼はこうして殺された。勇敢に立ち向かい、殺された。世の中は変わらない。声を上げて訴えても、非難されるのはあたし達弱者のほう! 恋人は殺された……。あたしは煌子さんのようにはならない。あなたに屈服する気も、縛られる気もない。あたしはここに未来を残していくの。これから輝かしい未来を掴む後輩達のために」
「何をする気だ?」
「あなたがあたしに放った言葉、条件付きで関係を迫った声、それから煌子さんが片瀬さんから受けた仕打ち。それを録音した音声がきっと公開される。あたしの録音機は、あたしの一番信頼できる人に託してあるから」
 志帆は沢木の側に腰を下ろし、胸の前で短刀を握った。振り上げると、甲斐野充は大声で何か叫んだ。
 志帆は思い切り自分の胸を貫いた。刃が胸の奥に沈んだ瞬間、首の後ろが重くなった。痛みと息苦しさにすぐに意識を失いそうになった。しかし志帆は踏ん張り、痛みに耐えながら沢木のほうに摺り寄った。沢木に口づけしようと顔を近づけると、彼の頬が志帆の血で染まった。懸命に首を伸ばしたが、僅かに唇の先が触れ合っただけだった。
 もう志帆に気力は残っていなかった。心臓を貫くつもりで胸を貫いたのだ。すぐに息絶えるはずだった。すでに何も見えない。痛みも感じない。しかし自分の頭が彼の胸に項垂れていることだけはわかっていた。まだ感覚が生きている時に、そっと身を預けたからだ。
 もう離れることはない。
 何も二人を引き裂けない。
 時間でも、運命でも――死でも。
 志帆は震える息吹を吐き出した。僅かだけ、吐息が唇に触れる感触があった。志帆は微笑んだ。唇の動く感覚が、まだ生きていると実感させてくれた。しかしこの感覚が、まもなく死ぬのだという抗いようのない事実を突き付けるようでもあった。
 志帆に後悔はなかった。ただ、どうして躊躇なく短刀を振り下ろせたのか。志帆は、首を傾げた。その答えはすぐに出た。
 ようやく夢が叶うからだ。

fin

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