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もう”正解探し”はやめよう

「正解なんてない」という言葉をよく耳にするけど、最近つくづくその通りだと感じる。
これが絶対に正しい!と断言できることなんて、きっとほとんどない。

たとえば、今回のふわちゃん騒動。
世間がふわちゃん(&加納ちゃん、その他ふわちゃんファミリー)を批判し、やす子を支持するのを見ると、「やす子=善 vs ふわちゃん(&加納ちゃん、その他ふわちゃんファミリー)=悪」の図式があまりにもわかりやすく浮き彫りになっている。
個人的に、「やす子オリンピック」に関してはこちらから出場願い下げだとは思ったけど、そうじゃなくても、ふわちゃんがズレた言動をすることなんて今に始まったことでもないのに、過剰に攻撃する人たちがいる原因として、「死ね」という言葉に過剰反応しているということが一つ挙げられると思う。
行き過ぎたコンプラ規定の結果、「死ね」という言葉を消化できない人たちが大量発生してしまったのかもしれない。そういう人たちはたぶん、ヒップホップとか、ブラックジョークが飛び交うコメディなんかにもあまり触れたことがないんだろうと思う。
だけど、日本のお笑いの世界でも「死ね」という言葉が飛び交うことはそんなに珍しいことじゃないし(最近は規制されてきてるけど)、その言葉が「笑い」となり、「善」と捉えられることもあるのに、どうして今回の場合、「悪」になってしまったのだろう?
もう一つの要因として、単純にふわちゃんにムカついていた人が多かったというのがあるだろう。
でもそれって結局、善悪は絶対的なものじゃなくて相対的なもので、人の感情次第ということだから、全然フェアじゃないなあ、と感じる。

ふわちゃん騒動に関して、この方のnoteがとても面白かったので、よかったら読んでみてください👇

私はこの投稿でふわちゃんを擁護したいとかではなく、要は何が良くて何が悪いかなんて、絶対的な答えがあるわけじゃなくて、結局は人それぞれの価値観や好みでしかないのに、ちょっと善悪で割り切ろうとしすぎじゃないですか?ということが言いたいのだ。
人はそれぞれ違う体を持っているのだから、考え方も違って当然なのに、「どうして私はこう思うのに、あなたはそうじゃないの?」と悩んだり、「あなたもこう考えてよ!」と怒ってももしょうがない。
こうして書いてみると至極当たり前のことなんだけど、あまりにも「こっちが正解だ!間違った意見をねじ伏せろ!!」的な言論が多すぎるので、改めて「ねじ伏せる必要はないし、無視しとけばええですやん」という一意見を述べてみた。

私もまだ幼い頃、世の中がこんなに複雑だとは知らなかったときは、あれやこれやを全て「正解」「不正解」と二分するのが好きだった。
自分の頭でこねくり回して作り出した一つの結論という"武器"で、相手をぶちかますのが好きだったし、そんな自分に自惚れてもいた。
だけど大人になるにつれて、単純にその快楽に飽きてしまった。
そうだ、論破なんて所詮、快楽を得る手段でしかないのだ。おいしいごはんをたらふく食べたり、自慰行為をするのと一緒だ。(ひろゆき~)

全てにおいて正解を追い求める必要がないとは言わないけど(例えば科学や数学のように、明らかに客観的な正解が存在する分野は別として)、そうでないことに関しては、倫理的だとか道徳的だとか言っても、その倫理や道徳が相手に通じなかったり、そもそも相手には別の価値観があることも多かったりする。それは相手が悪いわけではなく、しょうがないことだ。
それでも相手を説得したいなら、「倫理的」や「道徳的」といった観点ではなく、徹底して「論理的」に、理屈を立てることが大事だと思う。

例えばラップバトルって、相手へのディスりにちゃんと根拠があるからこそ面白い。もし、根拠もなくただ「バカ!」「アホ!」って言い合ってるだけのラップバトルがあったら、全然面白くないと思う(笑)
まあそれはあくまでエンタメだから、多少「根拠のない」言葉が出てきたとしても面白いんだけど、ガチになって自分たちの価値観を感情的にぶつけ合うだけで、着地点が見えない議論をしている人たちを見ると、窮屈だなぁと思う。

そういうのを見ると、なんとなく満員電車を思い出す。
満員電車の中って、今まで何の面識もなかった他人同士が、何の挨拶もなく突然身体を擦り付けられて、お互いどうしようもないまま、ただただ相手に対する恨みが募っていくみたいな(笑)
私も過去に満員電車の中で、何回舌打ちされて、何回そいつの顔を睨んでやったか知らない。まじで地獄絵図でしかない。
だから進展性のない口論をしてる人達を見ると、「あ、満員電車乗ってる。もう乗っちゃったから当分降りれないんか…辛そうやな…」と思うのだ。

だから、正論を掲げて誰かと戦うのはもうやめよう。
といってもこれはきっと人の性(さが)で、完全になくすことはできないかもしれない。殺し合いや差別がなくならないのと同じように。
でもせめて、まずは自分が生きやすくなるために、「正しさ」を他人に押し付けることを減らしていけたら、知らぬ間に自分が自分に押し付けていた「正しさ」からも解放されて、もう少し生きやすくなるんじゃないかと思う。
難しいことかもしれないけれど、今より少しでも軽やかに、そして穏やかに生きていくためには、実践する価値は大いにあると思う。

まずは自分自身が、”正解探し”をやめてみよう。

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