目に視えるのは
いつだったかな、まだ静岡の市街地に大型書店が建っていた頃。
当時のボクは(今もだけれど)ひたすら本に夢中だった。大学の講義が終われば書店に向かい、仕事が終わっても書店に向かった。特に意味はない、ただただ本に囲まれている空間が妙に居心地がイイだけだった。
そうは言っても本の知識はまるでない。読書家と言われるには程遠いところにいるのがボクだ。年に10冊読むか読まないかのレベルだから。
書店に赴けば休むことなく、興味を引く書籍を手にしてパラパラめくる。2,3時間は当たり前のように居座り続けることもしばしば。
そんなことを繰り返す内に稀に出会うことがある。
それを「運命」の一冊と呼ぶのかどうかは知らない。
それこそが佐藤究著の「Ank:a mirroring ape」だ。
一般的なジャンルはSFミステリーに入る。個人的には薄っすらとホラー、バイオレンス要素が混じる。
内容は題名通りに、「mirror」と「ape」の文字から鏡と猿が登場する。荒っぽい言い方をしてしまえば、人間があるチンパンジーを実験している最中に大事件へと発展する、そんな話。
登場人物の心情に焦点を当てつつ、深刻な場面で科学用語を神秘的に登場せしめる。オカルトを連想させつつ推理小説に思えて面白い。
本の世界では人間の実験台として使われていたあるチンパンジーが人間側のミスによって原因不明の暴走を起こし、施設から脱走する。が、そこから事態は予測不能な方向に向かう。脱走した一匹のチンパンジーが謎の叫び声を発したことにより、人間側も同じ暴走を起こす。
一方でボクたちといえば、今まさに直面している問題に新型コロナウイルスがあげられる。出所も原因もわからぬまま事態の収束は収まる気配がないように見える。情報も一気に拡散し、正否が明らかにならない。
ボクは得体の知れない何かに誘導されるような、そんな感覚を思い出した。
きっと、両者に人間の浅ましさが見え隠れすることに違和感を覚えたのかもしれない。
作中では暴走したことで人間同士が争い、発生源であるチンパンジーに翻弄される。
現実では目の当たりにした事態を受け入れられず、問題の本質を見失う。
上から物を言うつもりはないが、こうやって俯瞰してみるとつくづくと思い知らされる。人間はそれほど秀でる存在ではないと。もしかしたら、ボクたち人間は何かに試されている、そう考えても可笑しくないと思った。
それから、この本を読んでからはオカルトを気味悪く思うことを辞めた。
オカルトもコロナウイルスも実体は不明瞭だから。気味悪く思うことは勝手だが、見て見ぬ振りと同義ではないはずだから。
現実はコロナより身勝手さを優先したボクたちのエゴで溢れ返った。コロナが人を襲うよりも、人が人を喰った。下水道からペニーワイズの笑い声が聞こえてもおかしくないほどに。
もしも、この投稿を読んでくださった方の中に同じ読者がいたら、是非に本の感想を聞かせてほしい。ボクたちは考えられる。迷うことがあっても後退はしてこなかった。
最善を選択してこなければ今現在は訪れていない。
ボクたちはここに至らない。
最後に本文からある詩を一部抜粋して終わりにする。
泉のほとりでエコーが悲しみに暮れている。
青草に横たわるナルキッソスが死にゆこうとしている。
泉に映る少年に別れを告げるナルキッソスが言葉を発するたびに、エコーは嘆く。肉体のない、相手の言葉を繰り返すだけのこだまで。
さようなら。
狂気に囚われたナルキッソスにとって、エコーの声は泉に映る少年が自分に向けた言葉にしか聞こえない。
ナルキッソスは死ぬ。盲目のテイレシアスの予言どおりに。
泉のほとりにあったはずの少年の死体が、いつのまにか水仙(ナルキッソス)―Narcissus―の花に姿を変えている。
本文423P.[水仙/オウィディウス]
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