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龍が如く7(リアル)と聖剣伝説2(ファンタジー)から感じた「ご都合主義」が許容される境界線について

少し前に、龍が如く7をクリアしました。
別noteに感想は書きましたが、確かに面白いものの、個人的には絶賛するというところまではいかなかったのが正直なところです。

バトルがコマンドRPG化したことや、主人公の変更ももちろん多少影響はしています。しかし、最も大きいのは、ところどころで...強めの言葉を使うと「興ざめ」してしまったところがあるからです。
具体的には、「そんな都合のいいことがあるかよ...」と思い、ふとゲームへの没入感が削がれてしまったことでした。その原因は、ゲームの進行に合わせて、物語の進行およびプレイヤーに都合のいい展開がおこる、いわゆる「ご都合主義」を感じてしまった、というところです。


しかし、そんなご都合主義はあらゆるゲームで存在します。何より、そういった、プレイヤーに都合の良い展開がなければゲームはゲームとして成り立たないのではないか、とも考えました。絶体絶命のときに味方が助けてくれる、たまたま知り合ったキャラクターが助けてくれる、偶然不利な状況を打開するアイテムが手に入る...。そんな状況は、多くのゲームで存在します。

ではなぜ、龍が如く7ではそれが違和感として際立ったのか。それを考えていたところ、ふと、スーパーファミコンで発売され、今でも大好きなゲーム「聖剣伝説2」を久々に遊んだときのことを思い出しました。



『聖剣伝説2』を久しぶりに遊んで

聖剣伝説2は、1993年にスクウェアより発売された、スーパーファミコン向けゲームです。アクションや音楽、ビジュアルに物語、幼い私には全てが魅力的でした。

このゲームはスマホや携帯機など多くの機種に移植されています。数年前、懐かしさから久しぶりにプレイしました。音楽やビジュアルで懐かしさを覚える反面、あまり覚えていなかった物語の展開から、ふと思ったことがあります。

「ずいぶん、急な話が多いなあ」

大人になってからプレイすると、ストーリー展開の唐突さに驚きました。
これはもちろんゲームそのものの容量なども関係しているのだと思いますが、まずはこの人の話を聞け、次はあの街に、そこではこのボスが...など、とにかく指示の多さと間髪入れないイベントの発生に驚きました。小さい頃はそんなことを気にしていなかったのか、またはあの頃のRPGはみんなそんなスピード感だったのか。どちらにしても、最近のゲームに比べて、物語の進行に唐突さを覚えました。


唐突さとご都合主義
唐突さとは、言い換えれば物語が多少飛躍して進んでいくということであると思います。話として繋がっていないというわけではないのですが、一歩一歩納得感のある進み方ではなく、やや断片的です。また、自分の意識や心境とは関係なく、強制的なスピードでレールに敷かれているような進み方とも言えると思います。

これを「ご都合主義」と呼ぶかどうかは判断しがたいところです。やはり、潤沢なセリフやカットシーンでキャラクターの心情を表現できなかった当時のゲームでは、なかなか物語を、今のゲーム程丁寧に描写するのは難しいのかなと思います。
ただ、この、「今のゲームから考えたら、唐突で都合のいい物語の進行」を、私は「今のゲームである」龍が如く7で感じました。そしてそこで、違和感を覚えたのです。



『龍が如く7』での違和感

龍が如く7の物語中のことです。主人公達が探していた相手が、すぐ近くのbarに入っていくところを「たまたま目撃した」、目的地への道が塞がれているのが分かった瞬間、「そういえば昔あっちのビルから目的地へたどり着けた」ということを、前触れなく思い出す、など...。私はどうしても、プレイヤーに都合の良すぎる偶然であると感じました。

ここで感じた違和感は、聖剣伝説2のときの違和感、唐突さとは同じレベルではありませんでした。明らかに、龍が如く7での違和感のほうが大きかったのです。それも、ゲームそのものの評価にも影響するくらいの違和感でした。


二つのゲームの「違い」
龍が如く7と聖剣伝説2、どちらも唐突感のあるイベントや演出がありつつも、なぜ前者のほうが違和感が大きかったのか。この二つのゲームおよび、今までプレイしてきたゲームを思い返してみました。
すると、もしかするとこの唐突な展開、ご都合主義な展開に対する違和感の大きさの差は、そのゲームがいかに「現実に即しているか・リアリティを感じられるか」によるものなのではないかと感じました。

このリアリティとは、キャラクターの見た目がリアルであることなどと同時に、世界観的な捉え方でも考えています。
要は、剣や魔法の世界でのご都合主義と、現代が舞台で実際の建物や法律が介入してくるゲームでのご都合主義に対する、認識の違いです。

ご都合主義、すなわちプレイヤーおよびゲームの進行のために都合の良い展開は、現実では「ありえない」ことが多いのです。もちろんそれはゲームだから当然です。が、ハードの進化ととも、昔は現実とは似ても似つかなかった、ドットやカクカクしたポリゴンで表現されたキャラクタービジュアルが人間そっくりになり、現実の建物をモデルとした建造物をゲームの中で見ることが出来、キャラクターには声優さんのCVが入り、そのリアリティはまさにゲームでありながら現実にどんどん近づいてきました。

このリアリティは、どれかひとつが欠けてしまうとリアリティではなくなると思います。とてもリアルなキャラクターの造形なのに、CVが無く永遠に口パクであるとか。街は非常にリアルなのにキャラクターが3頭身にデフォルメされているとか。何かひとつ、ゲームを構成する他の要素と、リアリティのレベルがずれてしまうと、途端に違和感となってしまうんですよね。

FF7(初代)のクラウドは、ポリゴンでカクカクしていました。あの見た目のクラウドから、FF7RのかっこいいCVが聞こえてきたらちょっと笑える気がします。FF7Rの美麗なクラウドの見た目からFF7RのCVが聞こえるからこそ、違和感が無く没入できるのです。



ファンタジーと現実

さて、話を戻します。
聖剣伝説2は、少年少女の冒険譚、成長を感じられる素晴らしいゲームです。その世界観は、マナの樹、精霊、魔法、妖精、神獣と、ファンタジーに溢れています。その、ある意味で非現実的な要素が散りばめられているからこそ、非現実的な展開でも「まあ、こういうこともあるのかな、この世界では」と許容する気持ちが生まれている気がします。
なぜか主人公達の行く先を次々教えてくれるけど、このキャラは精霊だからきっとそういう知識とかもあるのだろう。そんな風に、勝手に想像できる余地があるのです。それはファンタジーの世界だからこそ、現実で生きている自分からは想像できない、把握できない何かがあるのだろう。そう無意識に思えるからです。


一方で、龍が如く7です。龍が如くシリーズは、歌舞伎町や道頓堀などをモデルにした街を、人間のキャラクター、ときには俳優やタレントの顔そっくりなキャラクターも登場します。また、企業とのタイアップもあり、実在するお店がゲームの中にも登場します。

これは龍が如く3のPVなのですが、この中のキャッチコピーに「リアリティではなく「リアル」を描く」という文句があります。この言葉、非常に好きで感銘を受けました。
そしてその「リアルさ」は以降のシリーズにも受け継がれ、それこそハードの進化に伴ってどんどんリアルさは増していきました。


龍が如く7の主人公である春日一番は、「ドラクエ」好きなキャラクターです。なんと、ゲームの中のセリフにも「ドラクエ」という固有名詞が登場します。この点から、「異世界にいるゲームキャラを操作している」というより、「日本の中で自分が会ったことの無い春日一番という人間を操作している、なぜならドラクエという言葉が出たから、ここはゲームの中ではなく現実世界」という印象を受けました。少なくとも、ファンタジーではなくリアルにかなり寄った印象です。

これはリアルを描く龍が如くシリーズの正統進化であり、驚きとともに他のゲームではできない素晴らしい演出であると唸りました。現実の固有名詞は、リアルさを感じるうえで非常に強いです。

さて、そうなってくると他の要素もリアルさが気になってきます。キャラクターの造形は実際の人物のようであり、また中井貴一さんや堤真一さんをモデルとしたキャラクターは実写のようでした。もちろん声もご本人ですので違和感はゼロ。他、実在するお店や飲食物も存在し、はたまた株主総会というミニゲームや選挙なんかも登場し、多少演出されているとはいえ現実っぽさを感じるには十分でした。
ただ、そうなったときに、同じレベルで現実味を帯びてほしいのがストーリーの展開なのです。ここに、プレイヤーに都合のいい展開、ご都合主義が混じってくると、「いや、そんなことは現実では起きないでしょ...」という違和感が、他の要素がリアルで質が高いからこそ、非常に目立ってしまうのです。

結局のところ、ご都合主義というか「現実にはありえない展開」が許容されるのは、「現実では考えられない世界」での出来事ではないでしょうか。現実もファンタジーも、どちらも同じゲームの舞台ですが、しかし現実のことを私たちは常識として知っているのです。だからこそ、ファンタジーでの「偶然」と、現実的な世界での「偶然」に対する認識レベルと許容感は違ってくるのではないでしょうか。



現実では、そうそう音楽は聞こえない
同じような感覚に、音楽面の問題...というか設定も存在します。
レトロゲームである、2Dのマリオのようなアクションゲーム、ゲームセンターにあるような2Dシューティングゲーム、格闘ゲームでは、常にBGMが流れています。いわゆるギャルゲーやビジュアルノベルなんかも、無音ではなくゲームを盛り上げるために音楽が流れています。

しかし、昨今の一部のゲームでは、BGMが流れないことが増えてきました。それはどういったゲームかというと、映像が非常に美しく、リアルな人間や現実の建物を描いたゲームです。VRでリアルを追求したゲームなんかも、音はあまり流れていないんじゃないでしょうか。
ゲーム音楽は自然に流れているものではなく、ゲームの中のラジオやカーステレオから流すものになりました。それは、現実の世界でもそうだからです。通学通勤、勉強中、仕事中、食事中、寝ているとき。そのようなときに、現実では音楽は流れていません。「誰かが流している(演奏している)といった他人の行動」または、「自分で流す(演奏している)といった自発的な行動」でなければ、音楽は流れません。機械から音楽が流れるにしても、それは誰かがそうセッティングしない限り流れません。現実で聞こえてくるのは、環境音のみです。

その結果、ゲームの映像が現実に近づくほど、音楽は無音に近づいていきます。そうしなければ、変だからです。龍が如くで道を歩いているときにドラクエでフィールドを歩いているときのようなBGMが流れたとしても、「どうして現実の道を歩いているだけなのに、音楽が流れているの?」という問いに、納得感のある説明が出来ないからです。

もちろん、全ての現実のようなゲームのBGMが完全になくなった、というわけではありませんが、しかし少なくとも、リアルなゲームに合わせる音楽として、BGMは環境音に近い音楽に変容しているのは間違いないと思います。

――VR作品ということで、音楽を作るうえで特別に意識されたことはありますか?

井上 いわゆるゲームのBGMのような派手な音を入れてしまうと、現実世界を模した『サマーレッスン』の世界が嘘くさくなってしまうと考えました。

――ゲームっぽさが出てしまって、現実感がなくなってしまうということですね。

井上 そうなんです。ですので、基本的にはサラッとしていて、場に馴染む感じの曲を目指しました。また、現実世界で音楽を鳴っている状況というのは、スピーカーから聞こえてくるのがいちばん自然なので、喫茶店のシーンではスピーカーから鳴っているように聞こえる処理をしたり、とにかく没頭している感覚を壊さないように意識しました。

北谷 じつは僕が担当したレッスン中のBGMも、最初は必要なのか討論をしました。喫茶店にはスピーカーがあるんですけど、ひかりちゃんの部屋にはなかったので、BGMが流れていると違和感を覚えるかもしれなくて。最終的にはBGMを流すことになったので、原音だけのシンプルな構成にしてあまり派手にならないようにしたり、休符をなるべく多くして音楽が主張し過ぎないように意識しました。

ファミ通.COM「3人の生徒たちが会話するドラマパートも収録! 音声だけでもドキドキが止まらない『サマーレッスン』サウンドトラック発売記念キャスト&開発スタッフインタビュー」より引用



「リアルさ」はゲームを構成する各要素がバランスを取る必要がある
リアルさという部分だと、視覚から入る映像が第一に認識されますし、例えば新ハードのお披露目での動画なんかはその映像の進化に圧倒され「リアル」、「現実のよう」と感じます。
ただ、一方で映像がリアル(現実的)であると、それに追従して、音楽を含めた他の要素や演出も、より現実に合わせるようアップデート(または変化)する必要が出てくると思います。
それはもちろん、あくまで現実を模したようなゲームであり、ファンタジーな世界観が軸となっている話は除いて、ということになりますが...。

余談ですが、龍が如く7は、もしかしたら「ドラクエ」を言葉としてではなく、ゲームの中にドラクエという概念...というか、物語の進め方を取り入れたのかもしれません。ドラクエ的な(旧来のファンタジーを舞台としたRPGにおける)物語の展開、進め方。
ドラクエは現在最新作の11が発売されていますが、物語の舞台はファンタジーです。仕事も税金も法律も、選挙もヤクザもありません。剣と魔法、勇者と悪魔の世界です。あくまで予想ですが、このあたりで龍が如く7は整合性がずれてきたんじゃないか、そしてその部分が違和感となり、自分には合わなかったんじゃないかと考えます。

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終わりに

まとめですが、まず私は、龍が如く7の物語展開における、ご都合主義、プレイヤーに都合の良すぎる展開に違和感を覚えました。そしてそれは、過去のゲーム、レトロなゲームでは感じなかったことです。

その違いは、ゲームの「リアルさ」、「現実っぽさ」に原因があると思いました。ゲームがリアルで現実感、実在の世界っぽさがあるほど、現実では起こりえないことに対する違和感が生まれます。
プレイヤーの認識として、リアルさや現実っぽさを感じる段階としては目に入ってくる「映像」が第一です。そして、そのような映像の進化と同時に、音楽や物語の展開も、「『こういう音楽の流れ方や話の展開が、現実であっても許容できるな』と思われるレベルまでアップグレードされる」ことが求められるのではないでしょうか。

そしてもう一つは、世界観の違いです。
非現実な世界ではプレイヤーの想像できない、「その世界でのルール」があるからこそ、「現実世界では起こりにくい展開でも許容できるレベル」が広いのかなと思います。
一方、実在する現実世界に近いゲームほど、そのゲームの中のルールも現実に沿っていると思ってしまいます。その結果、実在する世界を再現すればするほど、この現実で起こりえない展開は違和感を生みます。特に、龍が如くシリーズのように、ゲームの開始からエンディングまで実在する世界で物語を完結させるゲームほど、その制約は強くなる気がします。そこでは、ご都合主義のようなプレイヤーに都合のいい展開が、違和感として生じてしまうのではないでしょうか。


なぜ評価の非常に高い龍が如く7で、龍が如くナンバリングシリーズを追いかけて楽しんできた自分が今一つ物語にのめり込めなかったのか。それはもちろん相性というものもあると思いますが、この展開とリアルさによるものなのかなと思いました。
よく考えてみれば、これまでのシリーズでも、城が割れるとか虎と戦うとか戦艦が出現するとか、とんでもない展開はあったものの、「まあ龍が如くだしそういうものだろ」となぜか許容できていたんですよね。
それが今作に限って違和感となったのは、逆に言えばリアルを描いた龍が如くシリーズが更なる進化を遂げていた証拠なのかもしれません。もしくは、過去のシリーズはそこまで吹っ切った展開があり、現実との差異が大きすぎて、逆に楽しめていたということに繋がっていた可能性もあります。
今作は今までの作品以上に現実感が強いからこそ、登場人物の人間ドラマは魅力を増していました。その副作用として、ゲームのちょっとした都合のいい展開に対して「そんな展開は現実ではありえないだろう」と思ってしまうハードルが下がってしまったのかもしれません。



現実世界を舞台にしたゲームのこれから
新型ハードも発売され、PCの性能も急激に向上している現代、規模が大きいゲーム会社はどんどん映像の美しいゲームを開発・発売していくと思います。そしてその中には、現実を模したようなゲームも多く発売されるでしょう。バトロワや格ゲーなどそのゲームの最も重要な部分が物語以外であればいいと思いますが、そうではない、物語中心のゲームかつ非ファンタジーのゲームにおいては、ストーリー展開においても「現実に発生しても納得できる展開」または、「現実に起こりえないなら、その発生理由が説得力を持ってはっきりと説明」がなければ、違和感が生じてくるかもしれません。

現実世界を舞台にしたゲームはとても魅力的です。『STEINS;GATE』をプレイした当時、東北の地元に住んでいた私が、秋葉原でゲームの背景に登場した場所を目撃したときは思わず興奮しました。ペルソナシリーズで「学校に通う」世界を体験できたときは、学生時代を追体験し、学生時代に出来なかったことを体験しているようで夢中になりました。もちろん龍が如くも、行ったことの無い地域や歓楽街を体験し、現実の中の非日常を楽しむことが出来る魅力が詰まっていました。

今後も、現実世界をモデルにしたゲームと出会えることは非常に楽しみです。龍が如く7が自分にとって少々違和感のあるゲームとなってしまったのは惜しかったところですが、これからもシリーズは追いかけますし、さらなる映像やゲーム企業の技術、ノウハウが進化した先に、どんなゲームと巡り合え、体験できるのかは楽しみに待っていようと思います。

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