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『ヒラヒラヒヒル』感想:「死者が蘇る」病と闘う人々を描き、社会福祉と精神医療、差別と偏見という重いテーマを扱った社会派傑作ノベルゲーム

死者が蘇る。
一度は死んだと診断された患者が、葬式で蘇る。

しかし、蘇った後。
個人差はあるものの、認知機能が衰えていき、身体の肉は腐っていく。
受け答えは鈍く、妄想が見えることもある。
顔の肉は崩れ落ち、瞼が無くなり目はむき出しに。鼻が無くなることもある。

それでも。コミュニケーションが取りにくくても、それでもそれは、一人の個人。
その病は「風爛症」という名があり、人々は「ひひる」と呼んだ。

ひひるは、問題行動を起こし、悪臭を放つ。
国は、風爛症患者の「私宅監置」を認めた。
各家庭で作った牢の中に、患者を閉じ込める。
医療を受けることが出来るのは、裕福な家庭のみ。
貧乏な家では、ひひるの世話が大きな負担となっていた。
風爛症の治療や社会の理解も、まだまだ途上の段階。

そんな、大正時代。
「風爛症」という謎の病気と闘う人たちの物語。
それがこの「ヒラヒラヒヒル」だ。

© Aniplex Inc. All rights reserved.

私は、このゲームが強く心に響いた。おそらく、他の人よりも格段に心に刺さったと思う。
それは、このゲームが確実に「病気に対する人の気持ち」「差別」をテーマにしているからだ。

私は、大学生の頃に社会福祉を専攻した。
2か月間の実習も体験し、大学4年次には1日10時間以上の勉強を数ヶ月行い、社会福祉士の資格を手に入れた。
大学を卒業してからは、医療機関で働いた。
大変なことも多かったが、患者さんのために働いた。
介護や生活保護、ホームレス、DVなど、様々な社会福祉の問題と対峙し、役所と折衝し、地域の社会資源を生かし、院内の調整をし、仕事をしてきた。
だからこそ、このゲームが刺さった。

このゲームにおける最大のテーマ、「風爛症」。
それは、死者が蘇る病気だ。
病気の全ては解明されておらず、ゲームの舞台となる大正時代において、ようやく対症療法が確立し始めているというような状態。
しっかりとした医療を受ければ、進行を遅らせることも出来る。

しかし、その医療を受けられるのも、あくまで一部の患者のみ。
情報が行き渡っていない家や、お金の無い家では、「私宅監置」が行われていた。国がそれを推奨していた。
つまり、家の中のどこか一部、それこそ物置や座敷牢など、どこかに患者を閉じ込めることを推奨していたのだ。

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それまで家族であり、一度死んだと思っていたが蘇った家族。
個人差はあるが、ある程度は正気を保っている家族。
しかし、段々症状は悪化し、肉が腐り、コミュニケーションも取れなくなる家族。

でも、生きている。
そんな家族であり、患者である人間に対して、どのように対応するのが正解なのか。それも、医療が完全には整っていない時代、環境で。
答えの無い世界で、私は苦悩した。

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ゲームは、風爛症の治療を専門に行う若い医師と、風爛症とは無縁の学生、両方の視点で展開される。
ビジュアルノベルのゲームなので、アクション性は無し。
たまに選択肢があるものの、ほとんどは「読むだけ」となる。
ゲームとして面白いかと問われると、「人による」としか答えられない。
格ゲーやアクションゲーム、JRPGが好きなのであれば、このゲームは合わないであろう。

一方で、アドベンチャーゲームやノベルゲームなど、ゲームの中で物語性を重視するタイプのゲーマーであれば、心に刺さるところがあるかもしれない。
非常にテキストの比重が重いので、物語性を楽しみたい場合には十二分なボリュームが用意されている。
とは言え、決してうんざりするほどの長さではない。私は約8時間30分でクリアした。しかも、飽きることなくプレイした。

とにかく、風爛症という未知の病気に対しての、世間の扱いと差別・偏見に、静かなリアルさを感じたところが大きい。

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先ほど記載した通り、ゲームは2人の主人公を軸に展開される。
どちらも風爛症と関わり、または関わらざるを得ない状況となり、風爛症患者と向き合い、どのように対応していくか苦悩する。
このあたりは実際に、ゲームをプレイしてもらいたい。
きっと、心に残る展開と選択、気持ちが生まれると思う。

私はやはり、もともとの知識や経験から、このゲームの「社会福祉」的な視点およ描写に胸を打たれた。
このゲームにおける架空の病気「風爛症」、それは現代日本でも存在する精神病、認知症の症状であるように思えたのだ。

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個人差があるが、風爛症は早急に死に至る病では無いし、それこそ普通に生きている人間と差が無く、言われなければ風爛症とわからない患者もいる。
適切な医療を受けることで、病気の進行を遅らせることもできる。

見た目には見えない病気の場合、それは病気にかかっていない人と何が違うのか。
死者が蘇る病気にかかった人は、既に死んだ人なのか。それとも、死んでいないという状態なのか。

徐々にまともな判断が出来なくなっていく人は、どこまでが本人の意思であり、どこからが本人の意思ではないのか。どこからが錯乱で、どこまでは正常なのか。それは誰が判断するのか。

目に見えない、認知の部分だからこそ、その定義は一定にならず、結果として差別や偏見を助長することとなる。

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認知症なんかは、昔は痴呆症と呼ばれていた。なんとも羞恥心を煽るような呼び名である。
徐々に社会が変わってはいるが、感覚のアップデートには差があり、また特効薬も無い。
エーザイの認知症新薬は、あくまで軽度認知症が対象だ。進行した認知症が健常な状態に戻る特効薬は無く、社会が支える必要がある。

誰が悪いというわけでは無い。そういう病気であり、高齢になるほど「当たり前」の病気だ。30代の私だって、長く生きた場合きっと認知症になるだろう。特別なものではないのだ。

現在は国としても認知症対策を進めていく体制が作られているが、一方で昔、それこそゲームの舞台となった大正時代はそうではない。体系的な対策も無かった。精神病についても同様だと思うし、差別と偏見は今以上だったと思う。

それでも、徐々に社会を変えていきたい。
そんな思いを抱いている人の姿が描かれるのが本作。
つまるところ、得体の知れない病と、それに罹患した得体のしれない患者。
それらに対する社会の反応、人々の反応。
そして、その患者や患者家族という当事者の苦難。
様々な思いが交錯する、社会派ゲーム。
ヒラヒラヒヒルは、間違いない名作だった。



大正の日本の精神科について

ゲームの舞台は架空の大正時代。
とは言え、その頃の精神科の状況や精神病に対する社会を知ることで、より深くこのゲームを感じることが出来るのではないか。
その思いから、資料を読んでみた。

https://www.mhlw.go.jp/content/12200000/000936172.pdf

令和4年5月9日、日本精神科病院協会会長の山崎學先生によると、大正6年の精神病者総数は6万5先人、そのうち精神病院等に入院中の患者は約5千人ということで、多くの患者が医療の枠外にあったということだ。

そして、記載されていた「私宅監置」という言葉。
これはまさに、座敷牢のようなもので、自宅の中に患者を閉じ込める、という対応だ。

ゲームの中でも、このような対応をされた患者が出てくる。適切な医療を受ければ、病気の進行も抑えられたのに、ただただ小さな空間に患者を閉じ込め、風爛症が進行する。

それは患者にとって、最良の選択ではない。良くないことだ。
だが、それが良くないことというのはあくまで「選択肢がある側」の話だ。ゲームの中で、このように自宅の中、または物置小屋のようなところに患者を閉じ込めた家庭が出てくるが、ある家庭は非常に困窮していた。
患者に医療を受けさせるだけのお金もない。しかし、どこかに患者を閉じ込めておかないと、もしかすると近隣に危害を加えるかもしれない。

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私がもしその家族の立場だったらどうするか。
決して綺麗ごとでは済まされない世界が描写されているこのゲームは、まさに、いわゆる勧善懲悪でファンタジーな、正しいことと美しいことしか表現されていないゲームの裏返しのようにも感じるところがあり、どこか痛快さまで感じた。
患者を救うためには、家族は極限まで犠牲になり、医療費を捻出する必要があるのだろうか。それはとても美しい家族愛にも見えるが、それが正解か。正解かもしれないし、間違っているかもしれない。

私も、学生の頃から医療機関で働いていたときまで指導を受けたことのひとつに「共倒れになるのを避ける」というものがあった。
介護が必要となった患者さんのご家族が全力で、仕事や自分の時間を犠牲にして介護を行おうとしている際、ときにはブレーキをかけることも必要であると習った。とにかく、介護者まで倒れてしまい、病んでしまってはいけない。そのように学んだ。
家族愛は美しいが、現実は現実として見る必要がある。
最終的にどのような方針で進めるかは患者さんやご家族の決定が全てだが、しかし第三者からの冷静な選択肢も提供することは大切だ。

家族愛、親子愛、恋人との愛、そういうものが、昔からゲームのテーマの一つとなっていたと思う。だが、このゲームは単純にそれらのテーマを単純に描いただけでは無かった。現実的な、生活の厳しさや格差、恥ずかしさや家族の苦しさまで、多角的にかつ、正解が無いように描いている。

果たして昨今のゲームで、このような描写をされたゲームがどこまであるだろうか。単に、虐げられている人たちがいる、というような、物語を演出するためのシンプルな描写ではなく、(過去の歴史である)社会状況を踏まえた描写が、ゲームそのものが描きたいものの土台となるような描写。
ビジュアルノベルのテキスト量だからこそ出来る綿密な社会描写が、このゲームの魅力を極限まで高めていたと思う。

このゲームがビジュアルノベルということもあり、ゲームの性質上、多くは語れない。語るとネタバレになってしまう。

だからこそ、このnoteはかなりまとまりがなく、とりとめのないものとなっている。
しかし、それでも私が感じた、「大正時代の精神科についての描写」は衝撃を受けたし、このような社会福祉の観点を舞台としたゲームは体験したことがなかった。
その衝撃は、今後も忘れることは無いであろう。

きっとビジネス的に、売上的に、このようなテーマのゲームが大きい利益を生むかと言われるとやや疑問が残る。元も子もない話、よりキャッチーなゲームのほうが売れるだろう。
それでも、このテーマでゲームを作ってくれた製作者の皆様には感謝しかない。
社会福祉の教科書として、学生にプレイを義務付けてもいいのではないかと思える、類稀なゲーム。
ヒラヒラヒヒルは、私のオールタイムベストの1本だ。



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