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書評 #29|ヘディングはおもに頭で

 主人公の松永おんは自身を”0.5”と表現する。子どもと大人の中間。そして、これといった肩書きや意志を持たず、漂うように日々を生きる。『ヘディングはおもに頭で』は「半人前」の彼がフットサルと出会い、微かに変化していく物語である。

 偽りのない、純度の高い言葉が紡がれている。それらの言葉を色で例えれば「白い」と僕は感じた。それは美しくもあり、ある意味では弱い。社会と世界に染まっていない言葉。白からオフホワイトへ。フットサルに導かれ、新たな色が生という名の水面に滴る。

 おんにはプロになるような才能はないかもしれない。しかし、フットサルを中心に世界が回り始める感覚は読者に涼風を運ぶ。鍛えられた筋肉が時間の経過とともに大きくなっていくように、彼の生活に張りが生まれていくのが感じられる。その息遣いと汗。日々に枠線がつけられていくような感覚。「疾走感」とは呼べないが、緩やかに前進していく気流がそこにある。

 フットサルの描写は決して多くない。しかし、時折繰り出されるフットサルにまつわる思いは、現実のフットサルやサッカーで展開される縦パスのように鋭い。フットサルのコートという小さな世界の中で、四方から波のように押し寄せるプレス。身体から自然と湧き出ない動作。それらの言葉を僕は吸収し、過去の記憶が色を取り戻す。

 おんが新たに踏み込んだ世界は、世界の縮図だ。そこには厳然たる実力の世界があり、人間が存在すれば序列が生まれる。味方がいて、敵がいる。人に限らず、あらゆるものとの相性がある。そこに自らの光を放つ行為。それが生きるということではないだろうか。

 アメリカの名もなきグラウンドで、僕は外国人たちとサッカーをした。パスがこない。透明になってしまったと感じた。僕はそこに存在する意味を示さなくてはならない。味方がゴールに近づけるよう、ボールを持って時間を作った。失点を防ぐべく、相手とボールとの間に身体を押し込んだ。無人のゴールに自らがボールを流し込める場面で、味方にパスを出した。名前を訊かれた。ボールが集まるようになった。仕事をするために就職してからも、求められる一挙手一投足は何も変わらない。

 フットサルはおんの世界を広げた。フットサルが彼を知らない世界へと導いていく。彼の芽は吹き始めたばかりだ。劇的な物語ではない。しかし、日常の垢に触れながら、0.5が1へと徐々に数字を重ねる様子はほのかなカタルシスを僕にもたらす。

 久しぶりにフットサルがしたくなった。息を切らし、世界の狭さを感じてみたくなった。


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