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【地元再発見の小旅行vol.1】宮城県北部北上川の歴史:本編

プロローグの続きです!

東北最大の河川:北上川のナゾ

さらに宮城県側を見てみましょう。

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う~ん、これは私の場合は、パッと見て「変だな」と感じました。
みなさんはどう思いますか?
よ~~く見てみて下さい。何が変なのか??

北上川下流域

これです。青い実線が北上川。青点線がその他の川です。
北上川、途中から無理やり山の中を流れてるように見えませんか?
県境付近で山を流れるのは良いんです。盆地がなくなって行き場を失い、山の中でも低めの場所を流れたのでしょう。
でもこれは明らかにおかしい

特に北の方の赤丸で囲った場所。ここでいったん、平野を流れているのに、何で蛇行してワザワザ山の中を流れるのか?
しかも黄色丸の場所など、何回も低い場所を通過するんですが、平野へではなく、山を流れている。
途中で枝分かれして西の川とつながったり、急に右に曲がって東へ流れている。あやしすぎます!

旧北上川

おそらく・・と思ったらドンピシャでした。
枝分かれして別の川に合流してるように見えた川には旧北上川という名前がつけられています。
そう、これは人工的に流路変更されてるのだと思います。

北上川の歴史①:なぜ人が手を加えたのか

ということでググってみたところ、国土交通省の北上川下流河川事務所のサイトに辿り着きました。
これから話す内容やお見せする図はここから引用しています。

それにしても何故なんでしょうね?
川の流れを変えるなんて大変です。しかも北上川は東北最大の河川ということで、水量もものすごいでしょう。

でも解説を読んで納得しました。もう一度、地図をお見せします。

相模土手付近

なんで平野を流れないの?と思った場所、良く見てみるとイマイチはっきりしない川のようなスジがウネウネしてますよね。
ここは昔は川の流路が定まっていない湿地帯だったそうです。
北海道の釧路湿原のような場所を思い浮かべると良いかもしれません。
平野が広くて凹凸がハッキリしていないので、面的に広く浅く水が流れている。
こういう場所は人は住めないし、川の上流で大雨でも降ればすぐに川が氾濫するので、農地にもできない。
だから人間が「改造しよう」と思っても不思議ではないですね。

北上川の歴史②:江戸時代

ではいつから?と思いきや、何と江戸時代に遡るんですね。
まずは1605年から1610年にかけて、登米城主伊達相模宗直(伊達政宗の家来)が工事を行って相模土手をつくりました。
さきほど私がなんでワザワザ蛇行して山に流れる?と言った、ちょうどその場所でした(笑)
ちなみに、この相模土手付近の地名は浅水です。広く浅く水が流れていたから、そういう地名になったのかも知れないですね。

北上川下流事務所①

北上川下流河川事務所ホームページより

そして次は1616年から1626年までの10年をかけ、伊達政宗の命令で北上川と迫川(はさまがわ)江合川(えあいがわ)3河川を合流させ、さらに石巻(いしのまき)までの流路を開削して船が通れるようにしたのだそうです。これが旧北上川なんですね。

北上川下流事務所②

北上川下流河川事務所ホームページより

途中から枝分かれして他の川に合流してるってのは、まさにこれですね。

そしてこのおかげで大きな水田地帯をつくることができ、表向きは伊達藩は62万石でしたが、実質は100万石で、余剰のコメは江戸や大阪に売っていたそうです(ウィキペディアより)。

北上川の歴史③:明治時代

そして明治時代には、途中から枝分かれしていると言っていた場所より南を開削して飯野川へつなげ、さらに迫波川(はさまなみがわ?)につなげる工事が行われました。

北上川下流事務所③

北上川下流河川事務所ホームページより

これによって急に右に曲がる流路がつくられたんですね。
江戸時代の工事で水田地帯が大きくなりましたが、3河川が合流するので水量が多くなり、水があふれて水害が常態化するという弊害もあったようで、その解消のための工事だったようです。
ちなみに飯野川は小さい川だったのでしょう。確認してみましたが、今は飯野川という川はなく、地名だけが残っているようです。


いかがでしたか?
地形を見るうちに、北上川の整備の歴史を知ることができました。
昔の人たちの苦労を想像しながら、このあたりをドライブしたり散歩してみるのも楽しいかもしれませんね。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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